岐阜 その2

反省しております。
前回は、少々おふざけが過ぎた様子で。。

今回は決して寄り道の無いよう、したためていきたいと思いますので…


~岐阜・柳ケ瀬編の続き~


時刻は午後の10時を迎えようとしている、岐阜市の歓楽街・柳ケ瀬通。
旅唄い・手塚幸は、おっかなそうな飲み屋街の住人に怯えてしまい、路上演奏を始められないでいるのだった。

昔っから、唄い出す前に許可をもらおうなんざ考えると、ろくな事がない。

「ここで演奏しようと思うんですが」

と、隣のラーメン屋さんに訊ねたら、わざわざ敷地のお店のオーナーさんに話を繋いでくれたものの

「この辺は、若い人いないから…」
という理由で、やんわり断られた別府。
それから

「ここで唄ったら、迷惑ですかね?」
と低姿勢で訊ねたが

「ええ、非常に」

と冷たく断られた下関。

結局は、苦情が出たら退散するつもりで、強引に唄い出すのが最良の手段なのだ。
30歳を過ぎてるとはいえ若造に見られがちな僕。
古くからの飲み屋街で、うるさいだけの(と思われてしまう)歌をジャカジャカやられても迷惑なんだろう。
実際は、歌ってしまえば古き良き時代の(と思われるらしい)フォークソングや歌謡曲中心で、年配の方にこそ受けが良いのだが。

そう。
いつだって、唄ってしまえばどうにかなった。
柳ケ瀬通のど真ん中、とはいかないが、外れでもいいから唄ってみればいい。
大通りに向かって、車がバンバン通ってる道ならば、苦情もないだろう。
そう決意し、僕はグラスに最後のビールを注いだ。
これを飲み干したら、どこかで唄おう。

そんな苦渋の決意に満ちた僕に、ラーメン屋のオバちゃんが声をかけてくる。

「お兄さんは、音楽の方?」

僕は反射的に営業スマイルで

「ええ。あちこち回って唄ってるんですけど、今夜は柳ケ瀬で唄わせてもらおうと思って」
などと、いつもの様に分からない人には分からない受け答えをした。
しかし、オバちゃんは理解してくれた様子で

「そう…遠くからまあ…頑張ってね」

と返してくれた。
地元民の応援を受けた僕は、少し心強くなった。
唄いに出るなら、この瞬間しかない。

「ご馳走様です」

僕は荷物を手に、お勘定を頼んだ。
そしてチラチラと壁を見ながら計算済みの小銭をポケットから総動員させている、その時だ。

あれ…足りない…。

計算上の数字に、あと100円ほど足りない…
僕は急激に青ざめた。
なぜだ?
どうして足りないんだ?

するとキャリーケースの中から、双子の鬼ころしがキャッキャと笑った。
こいつらか!!!
なんと調子に乗って追加したビールの予算は、すでに鬼ころし2パックで支払い済みだったのだ。
頭の中を、言い訳がグルグルと駆け巡る。

皿洗い・・・
いや、1曲唄って・・・
ダメだ! もっとこう、身分を証明するものとか・・・


無い ・゚・(*ノД`*)・゚・。
明細を持ったオバちゃんが、にこやかに僕を見ている。
僕も笑顔のつもりだが、足が震えそうになる。
そして審判の言葉。

「はい、これね」
僕の口から謝罪の言葉が、まさに出ようとした瞬間

あれ…?
少ない…。


ビール1本分、少ない。
もしやオバちゃん、追加分のビールを計算してないのか!?
これなら足りるじゃないか。

僕の心に、マンガでよく見る悪魔が囁きかけた。

「イェーイ、ラッキー」

だが、お決まりの事で、天使も反撃に出た。

「で…でも、よくないんじゃないかなぁ…
 そりゃ、オバちゃんが悪いんだけど
 でも…よく、ないんじゃないかなあ…」


天使は頼りなかった。
頼りなかったが、なんとか勝利し、僕は恐る恐る自分の首を絞めるように問いかけた。

「あの…これ…」

皆まで言い終わる前に、オバちゃんが笑う。

「サービスしといたから、頑張ってね」


オバちゃ~~~~~~ん!! 

 
。゚:;。+゚(ノω・、)゚+。::゚。:.゚。+。

という事で、深々とお辞儀をした僕に残された道は、さっさと唄い出す事だ。
もう、呼び込みさんが恐いとか言ってられない。


時はゴールデンウイーク明け、平日の飲み屋街。
人は、少ない。
それがどうした。
柳ケ瀬通4丁目入り口の銀行前に陣取った僕は、黙々と準備に入った。
大通りでなく、少しでもアーケード内に入り込んだのは、ギリギリの意地だ。

折りたたみのギタースタンド。
譜面立て。
投げ銭入れのニット帽子。
そして、ギター。
鬼ころし1号も忘れずに。

物々しく始まった作業に、興味本位の呼び込みさんが様子を伺いに来る。
僕は愛想笑いでかわし、歌詞ばかり書き殴った譜面に集中した。
チューニングもそこそこ、静かな静かな柳ケ瀬通にギターが響き始めた。

「上手いねえ」
最初に覗きに来た呼び込みさんだった。

やった…。
それは良くある社交辞令だったかも知れないが、僕は心の底から救われた。
騒々しくてすみませんね、とは返事したものの、もう声を抑える事はしなかった。
いつもならリクエストされるまで唄わない欧陽菲菲も河島英五も、遠慮なく唄った。
まずは、今のうちに受け入れてもらえ。ベタでもなんでもいい、メジャーな歌を唄おう。

未だかつてない緊張感からなんとか解放され、僕は一度ギターを置くと、呼び込みさん達が数人たむろする店の前へ挨拶に行った。
どこから来たの? 岐阜もヒマでゴメンね~、と歓迎ムードで、クラブの社長さんからは生ビールのジョッキまで差し入れてもらった。それから最初に声をかけてくれた方にはチップまで頂いた。
案ずるより…とは言うが、まさに絵に描いたような取り越し苦労だった。

その後は、仕事で愛知から来てるという男性や、陽気なオジさんの集団やらで、度々盛り上がった柳ケ瀬。
トイレは、タクシー会社のやつを使わせてもらった柳ケ瀬。
ありがとう柳ケ瀬。

午前1時を回った終わり際、明日もいるの? と訊かれたが、残念ながら僕には北陸へ急ぐ予定があった。
しかし、必ずまた柳ケ瀬で唄わせてもらう事を心に決めた。


ラーメン屋のオバちゃんに無事に唄い終えた報告をして、アーケードにネットカフェがあった様なので歩いてみた。
ゲームセンターと100円ショップが合体したようなその店で、お決まりの身分証話にケリをつけていると、後ろから声がした。
さっき歌を聴いてくれた、名古屋から来てると言った男性だった。

「もったいない! お前、うちに来い!」
強引だった。
遠慮したものの相当に酔っ払った様子で、これはとりあえず付いて行くしかないと歩いた先はマンスリーマンションだった。

「いちばん上に、コインシャワーがあるでな。

 それで終わったら、3階の○○号室にいるから
 ピンポンして」
そう告げられ、僕は薄暗い廊下に取り残された。
なんとなく直感で分かっていたが、恐らくこれはシャワーを浴びて戻っても誰も出て来ない気がする。
その男性、寝ながら歩いてたし。

制限時間の壊れたシャワーは100円で浴び放題だったが、案の定ビンゴで、告げられた部屋のピンポンを押しても、ウンともスンとも返事はなかった。
よくある事だとあきらめ、僕はお礼のメモをドアに挟み、再び薄暗いシャワーフロアへ舞い戻った。
ちょっと湿った床を拭けば、脱衣所で丸くなって眠れる。
ギターに湿気が気になったが、どうしようもない。

泊めてやる、とマンションまで連れて行かれて待たされた挙句、1時間経っても誰も戻って来なかった事だってある。


こんな所で眠れる自分を笑いながら眠りに付き、僕は明日、高山に行ってみようかと思っていた。
そして朝方に突然ドアを開けられ

短い悲鳴と共に立ち尽くす住人と思しき女性に起こされた。
どうやら女性用だったらしい(鍵の意味なし)。
が、寝起きでも状況把握は早い旅唄い。

呆然としてる女性の横を大荷物ですり抜けると

「すんませ~ん」


と謝りながら、明け始めた岐阜の街へと出て行くのであった。
通報されなくて良かった。。。




Googleマイマップ「西高東低~南高北低」

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=35.419423,136.757142&spn=0.000839,0.002199&z=19

岐阜その1

気がつくと、海のある土地ばかり流れていた。
日本で海のない県といえば、長野・群馬・埼玉・栃木・山梨・岐阜・滋賀、そして奈良の8県。
そのうち、行ってるのは埼玉・岐阜・滋賀・奈良だ。
旅の道すがら、少しでも唄って歩いた都道府県が30といくつかなので、割合的には少ない方だ。
海なし県が、というよりは関東圏が少ないのだが。

関東圏の場合、持ち前の天邪鬼と田舎者根性が威力を発揮して、旅を始めた当初は死ぬまで行かないかもなんて思っていたものだ。
ただ気が小さいだけの話で、今となっては恥ずかしい限りだ。

じゃあ海のない県はというと、これと言って理由が見当たらなかった。
周りに海がないからといって別にどこまでも山が続く訳がないのだし、沖縄のように

「一度、渡ったら、交通費が稼げずに帰ってこれないかも・・・」
なんて不安もない。
誰かさんみたいに徒歩とはいわずとも、なんとか陸路で生還出来るだろう。
まあ、恐らくはきっかけの問題だと思っていた。


が、ある日、もしかしたら僕は海のないところが怖いのかも知れないと感じる事件があった。

仲のいい新潟のミュージシャンが富山から埼玉まで車で移動するというのだが、何やら荷物も多かった様子なので手伝いがてら便乗して行った事がある。
その道中だった。
場所は長野県の松本から、車はカーナビに従って不慣れな県道をひた走っていた。
町の明かりが背中に遠くなると、次第に山深くなり、標高も増した。
高速ETC1000円の時代でもなかったので、貧乏ミュージシャンには仕方のない道のりだった。
その、まさに運命の山中で、
僕らは1頭のシカに遭遇した。「うわっ・・・」
と、怯えながらも軽く笑いがひきつり
「出るんだね~」

などと動揺する心を軽くいなしたつもりだったが、そこから先にも出るわ出るわ。
キツネの子供みたいなのは走り回るし、カモシカは直立不動で睨むし
極めつけは「もう、ここを抜けたら町だ~」と安心した矢先に

シカの大群(推定、15頭ほど)が車道を走り過ぎた。
お互いに海の近くで育ったシティボーイを自称していた僕らは
「山、恐え~~~!!」
と叫び、コンビニの灯りを見つけては安堵し、町の証である吉野家の看板に狂喜するのだった。
深層心理的に山に畏れを抱いていたのだろうが、この夜の出来事はそれを具象化するための追い討ちであり、トラウマになった。
そういう訳で、海の見える地域にはお調子者が蔓延るという仮説も立てられるかもしれない。

さあ、岐阜の話に進んでみよう。
近畿・中部を行動範囲に入れ、北陸もなかなかに楽しくなってきた僕は、いつも高速バスで素通りばかりしていた岐阜に降り立ってみようと思った。
実際には一度、とあるミュージシャンに誘われて野外の音楽イベントに出演させてもらっていたのだが、いわゆる僕のスタイルとしての『旅唄い』では、なかった。
自らの選択で、どこかで唄ってみようと思ったのだ。

一般の方なら、岐阜県で連想するのは何だろう。
観光の名物にもなっている、鵜飼いで有名な長良川だろうか。
そして、飛騨の小京都と呼ばれている高山も、それに挙げられるだろう。
(余談:『全国小京都会議』というのがあるらしいのだが、そこに高山は加盟していない)
しかし、僕がまず選んだのは『柳ヶ瀬ブルース』でお馴染みの歓楽街だった。
岐阜でいちばんの都市だから、ではなく『柳ヶ瀬ブルース』というのが、なんとも旅唄いっぽい理由だと思う。 ただし、僕はそれを唄わないのだけど。。。

時はゴールデンウイークで、僕は山陰を後にしていた。
その頃から首ったけだったマナカナさん(主にマナさん目当て)主演のNHK連続テレビ小説『だんだん』のロケが始まる直前だった島根県松江市から三重県津市へ南下し、また北上するという、僕ならではの動きだった。


その頃の事はマナカナさん主軸で記憶しているため、1年半経った今も鮮明だ。
学校を卒業した大人は生活の時系列を忘れがちだけど、好きなものがあると便利だと思う。
ちなみに10代後半から20代半ばまでの記憶時系列の主軸は、ALFEEのツアータイトルだ。
何の話だ。

マナカナさんに後ろ髪を引かれる思いで辿り着いた岐阜は、気持ちの問題だろうが新鮮だった。
初めて降り立つ土地なのだから新鮮なのは当然なんだけれど、僕の癖として

『いつも頭に日本地図』

というのがある。

今、立っている場所からの東西南北を考える時に日本地図レベルで考えてしまうのだ。
その地図が、やはり、こう語りかけているようだった。

「ねえねえ。ここ、なんか違うよ。海がないよ」
と、今なら旅の友をしてくれてる白熊のファビぞうが言ってくれそうな台詞を、頭の中の日本地図が囁くのだ。
この街は、勝手が違うかも知れない・・・と、ぼんやり感じていた。
ちなみにファビぞうに出会うのは、それから3週間後くらいの新潟だ。


ともかく僕は今夜の演奏場所になるであろう柳ヶ瀬に向かうため、到着したてのJR岐阜駅から北へ真っ直ぐ、金華橋通りを歩いた。
金華橋は長良川に掛かる橋で、ただし僕の目的地はそこまで行かないため、目にする事はなかった。
お目当ての柳ヶ瀬通までは、およそ1kmだ。

朝からの雨もあがり、よく晴れて暖かい。
時刻はまだ午後の4時頃で、周辺を散策した後はいつもの様に缶ビールを買って、その辺の公園で過ごそう。
そう考えながら金華橋通りを歩いていると、ペンキの剥がれたシャッターが見えた。
わずかに残った痕跡はカタカナで

  ギ   メ ラ
と読める。
ギメラ・・・。
なんの呪文だろうか。
ドラクエの、ギラとメラを足したような呪文か。
凄い街だ。
呪文屋さんがあるなんて、もしやRPGの世界に紛れ込んだのかもしれない。

「いや、たぶんギフカメラだよ。。。(心のツッコミ)」


つまらない話はさておき、誰も聞かないので言う機会のない話をひとつ。
初めての町で演奏するに当たって、僕は何を目安に移動するのか?

答えは、飲み屋街。

それは、どうやって調べるのか?

電話ボックスにあるNTTの黄色いタウンページ。

僕は初めての街・・・大抵は駅に降り立つと、真っ先に電話帳で『スナック』を調べる。
件数の多さで街の規模に見当をつけたら、そこに並ぶ店名も電話番号も関係なく、とにかく住所を眺める。
その中で登場回数の多い町名をいくつか覚え、駅前には必ずある地図でおおよその場所や距離を調べるのだ。
一時期は勘と雰囲気でなんとなく歩いて探していたのだけれど、そうすると駅前辺りに密集した飲み屋街がない街ではハズレくじを引いてしまうし、時間も浪費する。荷物がなければ楽しい散策になるのだが、必ずギターを抱えている旅唄いにそれは無理な相談。

ただ、この方法にも弱点はあって、それは大都市過ぎる場合、どこに見当を付けていいのか分からない事。
そして当然だけど『スナック』の欄が10行で終わってしまうような街(というか里・・・)に降り立った場合。
後者の場合は急いで次の目的地を探す事になるのだが、手持ちすべてで移動なんかすると、目も当てられない状況に陥ってしまう。
そんな街で起死回生した話は、いつか書く北海道・八雲編にて。


最近、話が脱線する事が多くなってる気がする。
先を急がねば。
柳ヶ瀬ヘ、レッツゴー。

しかし、そんな手馴れた作業にて滞りなくレッツゴーした岐阜の街だったが、頭の日本地図が囁いた違和感もサイレンに変わりつつあった。


柳ヶ瀬というのは言い切ってしまうと、アーケードそのままが飲み屋タウンなのだ

右のビルも左のビルも、前も後ろも飲み屋的。
正確に書くと、柳ヶ瀬4丁目から5丁目を抜けるまでの区間が、まるっきり夜しか稼動していない感じなのだ。

こんな街は、初めてだった。
だから昼間に通っても閑散とした中で、ちょっと恐いお兄さんが怪しげに立っていたり
たとえ普通のお姉さんであろうともそこにいるだけで
Hな営業のお店の人が休憩でもしてるのかしら、という風に見えてしまう。
いわば風俗地帯なのだ。

したがって、夕方の時間を使ってキョロキョロと下見をしている段階から、僕は痛烈な視線に晒された。
ある人はダークなスーツ姿で腕組みをしたままジッと睨み(思い込みでなく本当に)、ある人はキャバクラの入り口に置いたパイプ椅子に座って煙草を吹かしながらこちらを伺い、ある人はポンポン手を叩きながら 「お兄さん、さっぱりしてったら~」 と笑顔で脅迫し(いや、これは普通か)、なんとも息の詰まる無言の攻防戦だった。

これは、とてもギター演奏なんて無理じゃないかと僕は思い始めた。
何せ、街の一角が隙間なく強力な組合になってるような地域なのだ。
経験上、旅の歌唄いなど、唄わずとも用意でも始めたら

「兄ちゃん、ここで演奏はやめてな」

とか

「何する気?」

とか、凄まれるのだ。
これはいったい、どうしたものか。

だがしかし、柳ヶ瀬もまだ夜の顔を出してはいない。
もしここに、夜の娯楽を求めた岐阜の酔っ払いが多勢で闊歩しようものなら、路上の歌唄いも

「あら、良い雰囲気ねえ」
くらいに落ち着くかもしれないのだ。
夜の魔法というのは、ネオンの魔法というのは、そういうものだ。
そして時刻は21時。


魔法は、掛からなかった。

いや、魔法はとっくの昔に、昼間っから掛かっていたのだろう。
夜の柳ヶ瀬に増えたものは大挙する酔っ払いでなく、貫禄に溢れたおっかなそうなオジサンばかりだった。
更に凄みを増した岐阜の不夜城では、店外で談笑する関係者の姿さえ、どこか余所者を受け入れない魔法に満ちていた。



苦手な解決策だったが、ひとつの案が閃いた。
ここはひとつ、単刀直入に訊いてみればいいのだ。
何も、取って食われる訳じゃなし。

僕は不夜城を真っ向から攻めるのは敬遠して、脇道を使って通りの半ば辺りまで入り込み(すでに弱気)、夕方と変わらず腕組みをしている竹○力によく似たダークスーツさんに声をかけてみた。
この界隈で唄っていいのか、単刀直入に聞くだけだ。

「あの、この辺で・・・(旅唄い)

「アァ!?(竹○力)
「こ・・・この辺で・・・ギターで唄って・・・る人とか、いいいませんよね?」
全然、単刀直入じゃないし ( ´,_ゝ`)プッ
すると竹○力は、僕の頭のてっぺんから爪先まで睨みながら

「いねえよ、そんなの」

と吐き捨てるのであった。
僕もその力強さに言葉がつまり

「そ、そうですか。いや、僕は、よそから来たもんで、ここで、こっちの、地元の知人が、唄ってるって、聞いたもんで」
と冷や汗を流しながら、どうでもよさそうなウソで取り繕った。

訝しげな眼が、僕を捉えて離さない。

ひ~っ! 取って食われそう!
まあ、僕の貧相な身体じゃ不味いと諦めたのか、食われることは免れた。
免れたが、最後に竹○力は

「お兄さん、そういうのやりたいわけ?」
と、 「わけ?」 に最大限の睨みをきかせて言い放った。

無理です。
柳ヶ瀬。


21時30分。
僕の姿は、道路を挟んだ向かいのラーメン屋にあった。
この苦境をどうやって乗り切るか、今夜の相棒 キリン・クラシックラガー と相談しなければいけなかったからである。



「ねえねえ、ラガーくん。きみ、どう思う? 恐いよね、ナニワ金融の人。んぐんぐ・・・ぷはぁ」
「そうだねえ。恐かったねえ。ほら、もひとついかが? とくとくとく・・・しゅわぁ」
「おっとっと、ありがとう。じゃあ、今夜は、仕方がないからやめようか? んぐんぐ」
「そうだねえ、しゅわぁ」



そういう事で会議は終わりかけたのだが、テーブルの傍らでまだ一個残っていた シューマイくん が痛いところを突いてきた。

「で、どこで稼ぐのシュー?」


更に知りたくもない現実に触れてくれた。

「ぼくらのお金を払ったら、もうないよ。さっき、鬼ころしさんが二人も増えたシュー」
鬼ころしさん達はキャリーの中で、出番はまだかとワクワクしている。

彼女達(男を酔わすのは女性かと)は、いつも路上の友だ。
逆に言えば彼女達は、路上演奏時でないと登場できないのだ、
キャッキャと無邪気にはしゃぐ声は
憧れのマナカナさん(主にマナさん)を思い起こさせた。
マナカナさん(特に、TVで向かって左の方)が、僕の歌を待っている・・・。


「そうだな・・・」
僕は呟くと、決意したように、ラーメン屋のオバちゃんに告げた。

「ぷはぁ。ビールもう1本ください」




ああ!!

どうなってしまうの柳ヶ瀬!!

知っているのミユキちゃん?

その追加オーダーは、さっき鬼ころしを買うまでの手持ち計算の上で行ってしまった事を。。。



~続く~



Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=35.419423,136.757142&spn=0.000839,0.002199&z=19

津 その2

その2どころか、書こうと思えば3でも4でも際限なく飛び出す津での話。
それでも前回の予告どおり、ここは津のアニキの話を少々。

少々・・・。
いや、無理か。
何せ、話題が尽きないから。
なので、馴れ初めでも話しておこう。

津での初日、ラウンジ・ジュネスさんにて営業を終えた事は前回に書いた。
話は、そこからになる。
楽しく飲んで唄わせて頂き、Kビル前で再びギターケースを開いているところに話しかけてきたのが、ごっつい顔の尾上さんだった。
えらく興味津々の顔つきで

「自分、津の人間ちゃうやろ? へえ~、ここで唄うん? いつまでおる?」
といった具合。
出会いから今も変わらず、言いたい事だけをマシンガントークで畳み掛ける

そんな尾上さんの口癖は 「聞いて!」 だ。

だから、その日もやっぱり言いたい事だけを熱く語った。

「明日、近くでな、俺らライブやんねやけど、けえへん? いやいや唄うてよ、な!」
彼の暑苦しいほどの勧誘に折れるまでもなく、そうでなくてもこの街でもう少し唄って行こうと思った矢先だったので、僕は不案内な土地柄、場所をよく聞いてから承諾した。
連れの女性は 
「そんな急に言うても迷惑やん」 と、彼を制していたが 「いえいえ、出会いですから」 と、僕は約束した。

朝の10時くらいに集まるというので、昼間のイベントだろう。
今晩を、昼間に過ごした野外舞台で寝転がって過ごせば、どうやら会場は遠くなかった。
僕は1時過ぎまで唄い、荷物をまとめた。
深夜だというのに、寝ぼけたようなセミの声を聞きながら、コンクリートのステージ上で眠った。
ひんやりとした感触が心地良いが、明日の朝、背中は痛いだろう。



夏の早朝なので陽は早くから照り付ける。
汗ばんだまま目覚め、気が付けば数日風呂にも入ってない僕だったので、せめてもの礼儀として体をキレイにしたかった。やっぱり、背中も痛い。
ただ、蚊には、それほど刺されていない。これは、夏場の野宿でラッキーというべきだった。

新しい着替えは底を突いていたが、公衆トイレの水道で体中の洗える場所だけはタオルでゴシゴシ洗って、ついでに長い髪もグシャグシャに洗って準備を整えた。
その光景は、海辺やキャンプ地でなら様になるのだろうが、街中の公園ではちょっと目立つ午前6時過ぎ。犬を散歩させていたオバさんの視線が、僕の狭い背中に刺さる。
それでも

「おはようございます」と挨拶すれば「おはようございます」と返ってくる、この嬉しさよ。すると

「これ食べる?」
とオバさんが菓子パンを差し出したので、恐縮しながらも頂いた。
時々、電車で隣り合った方や道を尋ねた方など、特に年配の方から頂き物をするのだが、いったい、どういう基準で人を選んでいるのだろうかと不思議に思う事がある。
ある時

「たまに、その辺のオバちゃんから飴とかミカンとかもらうじゃん」
という僕の何気ない一言に、知人は

「それはない」

と事も無げに言い切った。
ないのか?

「よく道を尋ねられる」とか「よくアンケートに引っ掛かる」とか、声を掛けられやすい人がいるけれど、そういうのと同じなんだろうか。
もし、物を頂きやすい人というのがいるなら、僕はそっちの方だと思う。

午前も8時を回り、更に陽が高くなってくると、今日も1日暑い事が予想された。
これなら、さっきTシャツを洗って干してても乾いたんじゃないかと悔やまれた。
しかし、手で絞った衣類の乾かなさを僕は知っているつもりだ。
もしもTシャツ1枚をあと2時間で乾かそうと思うなら、延々と手に持って振り回し続けなければならないだろう。
その作業でくたくたになるし、何より、朝のシャワータイムより目立つ事は受けあいだ
東京の旅ミュージシャンは、車のドアにタオルを結んで走りながら乾かしていたっけ。
なるほどと思ったが、あれも排ガスにまみれそうだな。

暑さもあったが、時間を潰す作業もなくなったので、コンビニを物色に歩いた。
この街で、いちばん最初に入ったコンビニだ。
道中、その対面に本日の会場と思しきお店の看板が見えたので、なんだこんなに近くなのかと気が抜けた。
昨夜の尾上さんが一生懸命に地図を書いて説明してくれた場所は、彼の

「いや、近いねんけどな」
という言葉とは裏腹に、天竺への道のりほど遠く感じられていたからだ。

知らない街で道順を説明されるというのは、心細さも手伝って、どうにも距離感がつかめない。

会場が分かったので、後は安心だ。
僕はコンビニでお茶のボトルを買い、さっき頂いた菓子パンを頬張った。
こんな時、不健全で有名な旅唄いは、朝から缶ビールなんて飲んだりするのだが

「まあ、ちょっと唄ったら、後はビールでも飲んでて」

という、やはり昨夜の尾上さんの言葉を信じたからだ。
駄目なヤツだ。

指定時刻の10時にはまだ時間があったが、僕は会場になるお店へ到着していた。
「さわ」さんというスナック営業のお店だが、場所を借りたという。だから、機材からアンプからを搬入しないといけないらしい。
誘ってもらったんだから、そのくらいは手伝わせてもらう。
僕は参加したイベントは、なるべく最初から最後まで居合わせたい。

しばらく手持ち無沙汰に煙草を吹かしていると、車が1台やってきた。尾上さんだった。
早いな~! と言われながら、挨拶を交わす。
本日の演奏メンバーも一緒だ。
昨夜、尾上さんと一緒だったキーボードのサツキさん
それから、ギター・ボーカルのユウコちゃん
大人しそうな女性二人に、ごっつい野郎が1人加わって、『文音(あやね)』というバンドだという。

会場になるのは階段を上がった2階で、機材セッティングは当人達の都合があるので任せて、僕は更に集まりだした手伝い兼お客さんたちと荷物を運び入れ、椅子を並べ、窓に遮蔽用のアルミホイルを貼った。
アルミホイル作業が気に入った僕は、1人でひたすら、その作業を続けた。
まだ知人と呼べる人はいないし、雑談の糸口も少ない。
黙々と作業を続ける事でしか、皆に認めてもらう術が僕にはなかった。
3人のミュージシャンが音合わせを続ける中、暗幕の隙間から漏れる光をさえぎるため、窓にアルミホイルを貼り続けた。
そんな作業のせいあってか、集まった方々も僕に話しかけてくれ始めた。

なのに、だ。
作業がひと段落したところで挨拶がてらの缶ビールを開けた瞬間、僕はいつものお調子者になっていた。駄目なヤツ。
ともあれ、尾上さんの知人は誰も温かい人達で助かった。



お陰で、緊張しがちなライブ演奏も事なきを得て、反応は上々だった。
まあ、そんな感じの出会いだった。


それから津が気に入った僕は、年に数回、春、秋の辺りを狙って唄いに出掛けていた。
更には、どこで唄っていても難しい正月三が日を、無理やりに津の飲み屋街で唄っていた事もある。

「正月なんて、神社の入り口でも行けばあっという間に稼ぐだろ?」

とは言われるのだが、こちとら夜が専門商売。
しかも、そんな日にそんな場所で唄ったりしたら、きちんとしたくじ引きで営業してる玄人さん達がただじゃおかない雰囲気。夜の街なら見逃される事も、昼日中というのは勝手が違う。

正月と限らず、真冬はどこにいても大変なもの。
どこで唄おうと、実入りと寒さの厳しさで挫けそうになる。
だから、ひたすら動き続ける。
宿泊費に満たない飯代を移動費につぎ込む代わりに、電車でひたすら眠った。
始発から電車で眠りこけて同じ路線を何往復もするなんて迷惑極まりない行為なんだろうが、死にたくなかったというのが現状だ。

好きで選んでいる道。
弱音は吐きたくないが、非常手段で生き延びる事は多々ある。


その翌年から年末は東京のライブハウスで過ごす事にしているが、直前は大抵、津にいる。

だから大晦日に
「良いお年を」 と言った相手に、年始早々から出会ってしまうと
「東京、行ってないの!?」 と驚かれる。

行ってるのだが、1~2日で戻っているのだ。
拠点を決めて短期間にあちこち動く僕は、いつも

「実は、ここに住んでるんだろ? 旅してるとか嘘はつくなよ」
とお叱りを受けたりもする。
多くの人は

『昨日は広島で唄っていて、今日は三重にいて、明日は静岡で唄うつもり』

といった、僕なりの旅唄いのやり方が理解できないのだ。
どうしても、金持ちのボンボンだと思われる節がある。


気軽な身軽な旅唄いのように見えて、その裏には、留まるより動いた方が楽な事実があり、数日の雨を避けるために、せっかく昨夜稼いだ金を全額つぎ込んで、数百キロの旅をする事だってある。
人間、生活において何を優先するかだけだ。
僕にしてみればデザインに飽きたからと、新しいキャリーケースを買う人達は理解不能なのだ。
しかしそれもまた経済を回している事実。


さて。
津のアニキの話が反れてしまった。

津のアニキ・尾上さんは、僕と出会ってからというもの、度々一緒に路上で唄っている。
元々が長渕剛好きで、嘘か真か、僕と同じ場所で路上演奏もやっていたという。
それはそれで構わないのだけど、僕がついつい酒を飲みながら唄うという、これまた見る人から見ればけしからんスタイルでやってるものだから、酒好きには定評のある彼も付き合わないはずがない。
昼間のたこ焼き屋に入って、3人で1万円払ってしまった事もある。もちろん、ほとんどが酒代だった。
しかも彼と来たらその辺の飲み屋は飲み尽くしているような男で

知り合いの若いママさん連中に平気で差し入れを頼む。

挙句、見かけだけはストイックな雰囲気で演奏を行いたい僕の周辺には

飲み屋から直の水割りと
飲み屋から直の灰皿と
飲み屋から直の乾き物と
ギターを持った酔っ払いが2人並ぶ

という、恐ろしい光景になってしまうのだ。

「ちょっと尾上さん・・・これはやり過ぎじゃないん?」

と制止しても

「いい、いい。皆、知り合いやに」

と聞く耳を持たない。
しかも、多少は知らないお店の方が驚く様子を見せながらも、津の飲兵衛たちはその光景に対して寛容なのだ。
同じビルのお店から困った顔をされる事があっても

『よそ者が土足で上がりこんできてやりたい放題やってる』

というのは、尾上さんがいる限り通用しない。

だから、僕一人の演奏の時、その目は冷ややかに突き刺さる。




ただし。
それでも、僕は彼と唄うのが好きだ。

実は、僕の方も年上の彼に慣れ過ぎたのか、酔っ払い同士つまらない喧嘩で別れてしまう事がある。
だけど、数ヵ月後にまた津で唄っていると、どこからかボロボロのギターケースを抱えた尾上さんがやってきて

「いつ来たん? 久しぶりやん」

と、いたずらっぽく笑うのだ。
前回の喧嘩の気まずさに渋い顔をしてる僕に

「まあ、乾杯しよや!」

と、コンビニでいちばん安い酒を手渡し 「さあ、稼ぐで~」 とか言いながら、ドッカと隣に座り込む男なのだ。
僕の分まで手土産を持ってきておいて、何が 「いつ来たん?」 なものか。
実は僕が来たらいつでも連絡するよう、後ろの店の知り合いに頼んでたらしい。


そんな津に、今年はついに出向かなかった。
昨年の盆に行ったきりだ。
生活の仕方と拠点が変わったせいで、動きが取り辛くなった。

来年の1発目は、津にするか。。








Googleマイマップ「西高東低~南高北低」


http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.090698,136.400757&spn=0.95288,1.755066&z=9

津 その1

夜を適当に過ごす事が難しい町だった。

日本一さみしい県庁所在地として名高いらしい、三重県は津市での事だ。

今時、大抵の町に行けばネットカフェや24時間体制の飲食店が多い中、津は夜の闇を捨ててまで経済発展に走ろうとはしていないようだ。
実際は、ニーズの問題なんだろうけど。

今はもう、そう困る事もない。
イカガデスカ~のマサージ屋さんが、マサージの後に仮眠させてくれるからだ。
マッサージはいらないのだが、とりあえずなんか悪いので、30分だけ頼む。
これはあくまで顔見知りになったから世話になってるだけで、宿泊施設として利用してるわけじゃないので悪しからず。
そうなると、風営法に引っかかる。保健所か?

しかしだ。
最初の頃は大いに困ったものだった。

何せ、ビジネスホテルの門限が、0時なのだから。

0時なんて言えば飲み屋路上演奏の人間には稼ぎ時の時刻で、出張のビジネスマンだって、ちょっとお酒がはずめば過ぎてしまう時刻だ。
僕だってビジネスで遅くなるんだから少しぐらい柔軟に対応してくれてもいいはずなのに、そのホテルときたら、たった30分過ぎてインターホンを押すだけで、誰も出て来やしない。
客が帰ってないのは分かってるはずなのに。
5分ぐらいインターホンを鳴らし続けても誰も出ないものだから、ちょっとイラッときて、入り口のガラス戸を蹴ってみた。

割れた・・・

いや、割るつもりなんてサラサラないのに、苛立ちが足先にこもってしまい、ちょっと加減が出来なかった。
それは僕が悪いとしてもだ、その宿直だか従業員、なんとガラスが割れるや否や5秒で飛んで来た。

ならすぐに、インターホン出んかい!!
ザマミロって、クスクス笑っとったんかい!!

その後、割れたガラスは保険にも入ってないと言うし、僕も手持ちがないしで、とりあえず翌日、知り合って間もない現地の知人に相談して、なんとか対処してもらった。
その後は、絶対にそこのホテルには泊まらない。

それから後は、小さな旅館に泊まるのが定番になった。
名を、夕凪荘という。

そこも最初は

「帰りが遅くなるんです・・・」という僕に

「うちは23時が門限なんですよ」と渋られたのだが

僕が「仕事でして」と言うや

「まあ! お仕事なら、どうぞどうぞ!」

と、宿のお母さんも恐縮してくれるほど。
僕の方も無理をお願いしてる身なので、さらに恐縮して、お互いにペコペコと頭を下げ合った。
人間、売り言葉に買い言葉より、魚心と水心でありたいものだ。


そんな魚心と水心が様々に絡み合い、僕の旅唄いにおいて最大の訪問地である津との縁は始まった。

ちらっと書いたが、津市での演奏場所は大門という、アーケードのそばに並ぶ飲み屋街だ。

アーケードにおける大門というのは旧名であり、本当は『だいたて商店街』が正式名称らしい。
けれど地元の誰も、ほとんどがそう呼んでない様子だ。
下りたシャッターが目に付く商店街ではあるけれど、僕がマッサージ屋さんを起き出す頃には元気な朝市が並び、決して商店街として機能していない事はない。
周囲はやっぱり市内最大の繁華街だし、だけど細い路地を抜けると
日本三大観音像(最近知った)が置かれた津観音寺があったり
手狭な中にも魅力はいっぱいの町だ。

ちなみに名古屋名物になっている『天むす』は、この界隈の小さなお店が発祥だ。
愛知を挟んだ静岡の名物であるウナギも、消費量でいけば、ここ津市が全国一らしい。
そういや結婚披露宴に呼ばれて唄った時も、うな重を出されたっけ。
それから、誰もが1度は食したベビースターも作ってる。
なんだかこう書いていると、僕は、津の観光大使になれそうな気までする。

しかし、なんと言っても街の魅力を語るのが旅唄いとくれば(手塚幸とくれば)、話題は飲み屋街になる。
たかだか広島から流れ着いた無名のギター弾き語りに、この街は最大限の魚心で応えてくれた。

一番のきっかけは、場所に尽きるだろう。
アーケードを23号線から横切ると、宵の口ならずとも見えてくる、チカチカと光る立て看板。
立体駐車場の脇には、一段高くなった敷地に3階建ての(イニシャル)というテナントビルがある。
毎回、初上陸地での場所探しに悩む僕としては、珍しく「ここしかない」と思わせた場所だ。

2004年が最初の年だったろうか。その当時、大門のアーケードにも弾き語りの若い子はいたけれど、飲み屋街の敷地に入り込んで唄う人はいなかった。
ただ、その場所で知り合った金丸君という旅唄いも、やはり同じ場所をチョイスしていた。しかもその後に訪れた飛騨高山で現地の方に聞いたのだが、どうやら彼はそこでも僕の座った場所で演奏していたらしく、飲み屋路上を唄う人間の勘とは似たようなものなのだ。
ちなみに金丸君は日本を一周した挙句、本を出版している。
頂いた本は『青春の放浪』というタイトルだった。


とにもかくにも僕には現在、津といえば大門、大門といえばKビルという図式が出来上がっている。
初めて訪れたのは、東海道を西へ、東京から広島へ戻る旅の途中だった。
聞き覚えがあるだけの三重県。
失礼だが大都市とは聞いていなかった僕は、真っ先に県庁所在地である津に降り立った。
そして、駅のロータリーから二つ目の信号が年中点滅しているこの街に、すでに安心感を覚えた。
7月昼間の繁華街をのんびりと歩き回り、その時はまだ日中の過ごし方を上手に知らないため、先に書いた観音寺の横のだだっ広い草むらに広がる、子供の絵が書き並べられた野外ステージの上で日陰に寝転び、蚊に刺されながら汗だくで夜を待った。
唄うなら、あそこだと決めていた。

午後9時過ぎ。
いつも通り、初めての街に着いたら小銭だけの僕。
持てる限りの小銭をふりしぼった缶ビールを手に到着したKビルには、スナックや飲食店の看板が灯っていた。
雰囲気といえば、少し静かだけれど逆に僕の好みな寂れた空気。
よし、と、いつもなら空元気のセリフを、この時だけは自然に口に出して僕はギターケースを開いた。

飲み屋さんばかりのテナントなので、やや人の出入りは多い。
だけどそれも、10分に1回くらいのペースだった。
エントランスはそのまま階段に繋がるKビル前だったが、入り口はすべて向かって左側にあり、僕が唄う右手の外周は全く通行の邪魔にならないのが助かる。
迎えのタクシーを少々ジャマしてしまうのが申し訳ない。

この場所で唄っているミュージシャンは珍しいのか、通行人はほとんどが僕に目を留めて行く。
世は、どんな街でもストリートミュージシャンが大手を振って唄う時代。どれほど声を張り上げて唄っていても半数が目も合わせず通り過ぎるばかりの街で、大門は僕に新鮮だった。
そして最も嬉しい事は、怪訝な目つきで睨んでいく訳ではなく、ものすごく笑顔で好意的だった事だろう。
路上で唄うミュージシャンは他人の目に曝され、そしてその視線に耐えられなければ演奏は出来ない。
あらゆるストリートミュージシャンが無遠慮に投げられる視線に耐え、それがもしも笑顔であれば、あらゆるミュージシャンはまた、感謝の思いに溢れる。
それは、投げ銭が入らなければ生きていけない僕のような身であろうとも、同じ事だ。

投げられる視線にも笑顔を返す余裕が出来て1時間ほど唄っていると、右手のアーケード方面から、男性の集団と、着物姿の女性が1人、賑やかに近づいてきた。
どうやら背にしたビルの、ママさんとお客さんの集団らしかった。
1人の人懐っこいオジサンが、すでに良い感じの酔いで僕に話しかけてきた。

「おっ、流しのおるやなかね!」

言葉は、九州弁だった。
ほらほら困らせんのよ~、と明るく近づいてきたママさんも実は熊本の生まれで、なんと今夜は九州人会の集まりだという。

広島からの旅唄いも、元を質せば九州の端っこの生まれ。

こういう時には躊躇している場合じゃない、

「実は僕も・・・」

と切り出せば、後はビルの3階に出張営業は決まり、あちこちのテーブルを回っては飲んで唄い、初め良ければなんとやらの逆をゆく、津市の初日にして大酔っ払いが出来上がった。いや、頂いたチップでゆけば全て良しだったけれど。

これが、ラウンジ・ジュネスさんとの出会いだった。
この後、僕は大門に唄いに来る度にジュネスさんに世話になるのだ。
それは大晦日のスタッフの忘年会だったり、毎回頂いてる差し入れのウイスキーロックだったりと、挙げ連ねればキリがない。
なので1つだけ、僕がすごくすごく笑ってしまい、ちょっとだけ涙ぐむ、今も新鮮に覚えている話をしたい。

その年の大晦日、路上の焼き芋屋さん(この方とも仲良くなった)と共に、ジュネスさんの忘年会へ招かれた僕は、散々に飲み食いさせてもらい、そしてお返しに唄わせてもらった。
Yさんというスタッフの方がものすごい長渕剛のファンで、僕はオリジナルなんてそっちのけで、とにかく長渕剛ばかりを唄わせてもらった。
その時に僕は、整理整頓の出来ぬ荷物から、思わぬ落し物をしてしまっていたのだ。
じゃあまた来年は暖かくなったら来ぃや! と言うママさんにお辞儀をして、言葉通り、僕が津を再訪したのは翌年の春だった。

長い長い、寒い冬を越えて訪れた津市・大門。
すっかりコートも脱げて身軽な僕は、お久しぶりです! とまずはジュネスさんへ挨拶に行った。
すると、去年のままの笑顔で迎えてくれたママさんが

「お~! お帰り~! あ、そういえば去年、忘れ物しとったに」

と言いながら店の奥へ消えた。
しかし、僕には覚えがない。
そこまで大切なものだったら気がついているはずなんだけど、と思っていると

「これぇ、酔っ払って忘れたろ!」

と、小さな包みを渡してくれた。
それでも思い出せない僕が中を開けると

そこにはギターの弦が入っていた。

しかも、錆びて不要になった、交換した後のギターの弦が。

包みには 『長渕剛 忘れ物』 とメモが貼られていた。

「また、しっかり稼ぎや! 後で差し入れ持ってってやるに!」

僕は笑顔とでかい声で、頑張ります! と答え、やがて定番になる場所へと向かった。
数分後にお店の女の子から、ウイスキーのなみなみと注がれたグラスが運ばれてくるのだけれど、それもやがて定番になり、大賑わいでグラスを割ってしまった翌日からは、マグカップが僕の専用グラスとなるのだ。
『長渕剛様』 のメモは今もきっと、乱雑にまとめられた荷物のどこかに紛れている。



そうそう。
津市の初日、九州人会の集まりで唄った後に話を戻そう。

僕は酔っていたけれど深々と頭を下げ、九州人会のオジサン達とママさんにお礼を述べて表に出た。
ひとまず酔いを醒まそうと夜風を浴び、とりあえずする事は他にないのでギターケースは開けていた。
するとそこに、僕とそう変わらない年の男女が現れ、リクエストするのだった。
『津のアニキ』と苦笑いを込めて呼ぶ事になる尾上さんとの初対面だったのだが、この人の話は恐ろしく長く大量になるので、次回に持ち越そう。








Googleマイマップ「西高東低~南高北低」

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松山

広島に在住(必ずしも家があった訳ではないが)しているにも関わらず、四国にはなかなか渡らない旅唄いだった。

よく唄いに出ていた呉からフェリーで2時間ほどの距離なのだが『いつでも行ける距離』という気楽さと、逆に『海を渡る』という言葉の重みに打ち負かされ、気がつけばたかだか瀬戸内海を渡る決意に4年をかけてしまっていた。

広島の知人複数が「四国、良かったですよ~」と言うのを、フ~ンと聞き流すだけの4年にピリオドを打つべく、僕は2003年に海を渡った。
重ねて言うが、たかだか瀬戸内海である。

ところで、これを書きながら「あん時のフェリーってなんぼだっけ」とネット検索していたら、片道1600円だった『呉・阿賀~松山・堀江』の航路は2009年6月で
なんと高速ETC1000円の功罪にて廃止されていた。
1600円という片道運賃が廃止当時である事を考えると、僕が使っていた当時は、もう少し安かったのではないかとも思う。
なんにしても、同じ交通手段を使っては二度と旅が出来ない事になった。


旅唄い初となる松山市の上陸地は、堀江港だった。

『みなと食堂』なんていう安直でありきたりな古い看板が見えて、僕はいつもそんなものに嬉しさを覚える。どんなに有名な観光名所よりも、人の生活が息づいている実感に安心する。
初めての町だけれど、ここも日本なんだと、きっと音楽が大好きな人がいるんだと。

JR予讃線で駅をいくつか南へ下り、松山に到着した僕を迎えたのは、やはり城下町の佇まいだった。
標高132メートルの勝山(城山)山頂には言わずと知れた松山城があり、城山公園の堀を西堀から南堀へ黙々と歩いた。広い、閑静と呼んでもいいほどの道路を、ゆったりと路面電車が走っていく。堂々として、なおも微笑ましい光景だ。
同じ路面電車でもこれが広島の場合は、市街地の込み入った大通りを過ぎると、途端に住宅地をこれでもかとすり抜けていくので、どことなくせせこましい感じがする。嫌いじゃないけど。

すると次に僕を迎えたのは打って変わった喧騒で、伊予鉄道の松山市駅に近づくと、途端に松山は大都市の顔を見せた。
松山市駅は、JRを差し置いて四国一の乗降者数を誇るらしい。
道後温泉を有するこの町は、観光地としても有名。
『城下町』『温泉街』なんて、日本人をたぶらかすには持って来いの町じゃないか。

ついでに言うと、松山は『文学の町』でもある。
ちょっと前に司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み終えていた僕は、実はそれも手伝って松山へ渡ってみようと思ったのだ。
その割に、文学めいた行動は何ひとつ行わなかった。
飲んで唄っているだけという、文士崩れみたいな行動だった。


松山の紹介も尽きないのだけれど、前回の続きを思い出した(忘れていた)。

市内の大きな繁華街である2番町だか3番町だかで唄っていた僕は、肉まん売りの中国籍らしいお姉さんに冷たい水を差し入れられてウキウキしていたという話だ。

その前にひとつ、エピソードを追加しよう。

時系列でいくと、その前日、つまり初日には少し離れた別の所で唄い、嫌な思いをしていたのだ。
初めての街では緊張のあまりに誰も通らないような薄暗い通りで唄っては通行人を驚かす事の多い僕なのだが、松山初日もそうだった。
天候のチェックを怠っていた僕は、まず初日の夜に雨に遭った。
ポツポツと、どうにも止まない雨の中で、繁華街の中心には程遠い街外れのテナントビルの下で唄っていた。屋根が広かったからだ。
傘を差した通行人は、どう対処して良いのか理解しかねるといった気まずい視線で過ぎていくばかりだったが、テナントにセレブなお店が多かったのか、ビルを出入りする社長さん(注:手もみ発言)やお姉さん(同)には、すこぶる反応が良かった。
味を占めたので、天候が回復した翌日も、午後9時あたりから、その場で唄っていたのだ。
しかし、苦情が出た。

苦情は、車道を挟んだ、向かいのお寺からだった。
最初、渋い和装のお父さんが悠然と近づいて来るのを見た僕は
「あらまた社長さんかしら」
と、媚びた笑みで迎えた。
すると無表情に

「あなたのせいで、私の娘が非常に苦しんでいる」

と言われ、話が読めずにいると、更に

「あなたは昨夜もここで歌を唄われていましたね。なかなかにお上手で素敵な事だと思います。でも、私の娘は、あなたのせいで眠れなくて困っているのです」

と補足説明があった。
なるほどそれはいけない、と合点がいったので謝って早々に撤去しようと思ったら

「あなたの音楽は素晴らしい事だと思います」

と、またこちらを気にしてか、帰り支度の僕に言葉をかけてくれた。
いえいえ僕も初めての街で要領が悪かったです、申し訳ありませんでしたと詫びた。
しかし、お父さんはまだ言うのだ。

「娘はあなたのせいで、薬を飲まなければ眠れないのです」

・・・・・・。

エンドレスと思われたが、15分で帰してくれた。
こちらが悪いので言い返す事は出来ないのだけど、それにしても、その、なんか、長かった。

そういった事があり、僕は前回記述の通り、苦手な大通りでの演奏に踏み切ったのだった。
結果的には、それが一番で、苦情も出難い訳だ。
最初からそうすればいいのに、僕もまた、なんか、それにしても、だ。


よし。本題に入ろう。
中国籍のお姉さんにねだられてデヘヘな僕は、しばらく唄っていた。
空気をモノにした感じが、僕の調子も上げていく。
時刻も0時を回るかそこらの、松山最高潮な夜だ。
信号待ちの人から投げ銭が入り、肉まんを待つお客さんがリクエストをくれたりと、僕のギターケースも賑やかになってきた。
そこにだ。僕の演奏には似つかわしくない、若くてちょっとカッコイイお兄さんが2人近づいてきた。

「あの、お店で唄っていただけたりしますか? ここを通られたお客様が、聞いて欲しいとおっしゃっているので」

なんと、営業の誘いだった。
こんなカッコイイ黒服のお兄さんがいるんならホストクラブだろうかとか考えながらも、断る手はない。
是非お願いしますと答え、僕はまた荷物をまとめた。

案内されてすぐ目の前のビルへ向かうと、2階へと階段を上がるようだ。
階段の手前で、僕は少し違和感を感じた。
生地の薄い、ヴェールのような大きな布切れが、所狭しと行く手を阻んでいるのだ。
僕の浅い経験値によれば
これはエッチ系のお店じゃないのかと
頭に黄色のシグナルが点滅し始めた。そんな所で、演奏なんか必要なのか。

しかし引き返せない僕は、それでも丁寧に案内する2人のイケメン(当時は言わなかったが)に従うしかなく、明らかに桃色な字体で書かれた店名を記憶する暇もないまま、ご入店した。

薄暗い店内は、上ってきた階段と同じ薄布がカーテン状に仕切りを作り、そのひとつの席に
僕は生のセーラームーンを見つけた。

これは  噂の女子高生パブか…。

頭のシグナルが、真っ赤に点滅した


が、演奏のお願いはお客さんから確かに入っていたため、ステージ代わりになる場所もなかったけれど、キャッシャー前という不自然な位置で、明らかに場の空気を読めない長渕剛(リクエスト)を演奏し、足元の灰皿に千円札を入れられ、極度の緊張のために2回も弦を切り、繋ぎ、茶を濁し、散々で逃げ帰った。
まあ、それでもお兄さんに「ありがとうございました」とは言われたが。

という事で、恐らく僕は人生で後にも先にもないだろうという、女子高生パブでの演奏を経験した。
呉・松山フェリーと共に、これは忘れられない思い出だ。


その翌日に、昨晩唄っていた場所が関係者によって防護策を講じられていたりと、なかなか一筋縄ではいかなかった松山だが、最後にもうひとつエピソードを。

翌年に再訪した松山で、夜の路上もうまく行かずに昼間の演奏を余儀なくされた僕は、地下道でギターを出していた。
昼というのは本当に僕のエネルギーを奪い、それでもせめて広島へ戻る交通費は、と頑張っていた。
夏の盛りで、吹きぬける風もほとんどなく、汗が額を流れた。
1人、また1人、と、年配の女性を中心に少しの小銭をいただき始めて1時間。
もっさりと荷物を背負った眼鏡のギター弾きが脇に立った。

「ええ声してはりますねえ」

とか何とか言っただろうか。
少し話をすると、彼もまた旅の途中であり、他県からの瀬戸内流れ旅真っ最中らしい事を聞いた。

僕は普段、滅多な事では旅人や路上ミュージシャンと交流はおろか言葉も交わさない。
そんな僕が、なぜか記憶のどこかで

「思い出せ、思い出せ、こいつは知らない奴じゃないぞ」

と叫んでる。

実は向こうも何かを感じていたらしく、お互いに探り探り話していたが、僕の方が先に思い出した。
3年前あたり、広島路上で知人に紹介されて一緒に唄った[ひ](そんな名前なんです)だった。
その時は大事な譜面のファイルに缶ビールを倒してすんませんでしたとか挨拶して

「次は北国で会おう」

と意味不明な約束を交わして別れた。
実際には彼の本拠地である三重県で会ったりするのだが、その後、今に至るまであちこちで再会しては唄っている、数少ない古くからの友だ。
彼=[ひ]~ちゃんも、その時の旅の事をブログに書いてるので、是非とも読んで欲しい。

[ひ]暮庵 ストり旅日記書庫【'04夏!ストり旅日記 -瀬戸内開眼編-】
http://hp.kutikomi.net/higurashian/?n=column4&no=5


[ひ]~ちゃんとの再会がエネルギーをくれたのか、その後、昼間のチップとしては破格の5千円札を頂いた僕は、夜を待たずに松山を後にした。
[ひ]~ちゃんも、少し離れた地下道で唄っていたらしいが、僕にメインストリートを奪われた彼は散々だったようである。
そのお返しは、後に四日市でのモツ鍋になる。







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どこ、という訳でもなく

人の思いや親切を頂く事は多く、たとえばこのブログを書いてる今も、昨夜の路上で頂いたたこ焼きをつつきながら、発泡酒を飲みながらだったりする。
とか書くと、なんか即物的だな(苦笑)。

今回は少し趣向を変えて、街の住人を書いてみよう。


どの街に行っても非常に大きな問題は、唄おうとする周辺に誰がいるか。
誰、というのは客引きさんだ。
ポン引き、キャッチ、黒服、呼び込みと言い方はあれど、締め付けが厳しくなる一方の風営法を横目に、客引きさん達は毎晩、頑張っている。頑張ってる感じに見える事は少ないけど、頑張ってる。
ちなみに『ポン引き』というのは「はい! らっしゃ~い」と、ポンポン手を叩いて客を呼び込む所から付いた呼称だとか(追記:・・・というのは僕の情報不足で、ボンヤリした人に声を掛けて引き込むところから付いた名前だとか)。

僕は歌唄いであり、決して呼び込みではないのだが、客を引こうとする行為は同様に行ってる訳で、パワーバランスの整った繁華街に妙なギター弾きが突然現れると、周囲はけん制するのが当然。
街の自警団のような意味合いも持った、この方々。
唄い出す前の準備段階から、チラチラと様子を伺われてしまう。
そんな方々の視線をいっぱいに感じながら、小心者の旅唄いは胃が痛むのだ。

ただし案ずるより産むが易しで、ほとんどの場合は杞憂に終わり

「お? お兄ちゃん、流しか?」

などと気軽に声を掛けてもらう事が多い。

決して、その客引きのオジサンが地域をまとめてる訳でも親分でもないのだが、ひとつの場所で唄うのが1日や2日の旅の中では、そういった方に声を掛けてもらえるだけで十分に心強いのだ。

ここで興味深い事がふたつある。
ひとつは、これが歌唄いでなく未認可のアクセサリー売りなどの露店の場合は、即座にどこかへ連絡が行き、なんだか怖そうな人達との問答に変わる事。
歌唄いなんかは、きっと街の治安維持において問題にならないのだろう。
はたまた僕の選曲が『オヤジ殺し』の異名を持つからなのか。

そしてもうひとつは、若い客引きさん達はほとんどの場合、声を掛けてこない事。
特に嫌がってる風でもなく、かといって会釈さえする訳でもなく、中立的な感じが多い。
これは単に、世代の問題なんだろうか。
金にならない会話はしない、ドライな雰囲気がある。
もしくは僕など眼中にないか。

そんな訳で、初めての街で声を掛けてくれるのはオッチャンの客引きという事が多い。
そして僕にとってそれは、その街で唄うための重要なポイントになる。
興味本位で話し掛けてくれれば、それは幸い。

さて。
次に声を掛けてくれるタイプが、今回のメイン。
2番目に多いのは、なんと女性なのだ。

僕の路上演奏風景を1度でも見た事のある人は分かるのだが、僕の客はオヤジか悪そうな兄ちゃんが多い。
女性率は、非常に低い。
女性好みの曲が少ないのと、なんというか暗い雰囲気のせいだろう(くうっ・・・)。
なのに、しばらく唄っていると、女性から声を掛けられる。
それは大抵、こうだ。

「アナタ、ジョーズネエ」

別に「あなた鮫ね」と言われてる訳じゃない。
歌が上手ですね、と言われているのだ。
言い方がぎこちないのは、多分に異国の方なので仕方ない事なのだ。

そう。2番目に多いのは
中国人エステのお姉さん。

エステというより、マサージのお姉さんだ。
飲み歩く世の男性なら一度ならず聞いたことのある
「マサージ、イカガデスカ~」のお姉さん。
マサージはマサージ。決して、マッサージではない(はず)。

彼女らの勤務時間というのは非常に長く、そして厳しい生活状況の事が多い。
こんな道端で唄ってる貧乏臭い兄ちゃん(オッサンですが)に声を掛ける本意は何だ、といつも思う。
単純に暇つぶしかも知れないし、あわよくば客になるかも、と思ってるかもしれない。
彼女らはギターケースに千円札が2枚くらい入ってると

「アラ~、モウカッテルネ~」

と、臆面もなく興味津々の顔をする。
日本人は気になっていても、横目でチラッと盗み見る程度だ。
文化の違いか。

何にせよ、これもこれで、初めての街ではやり易さに繋がる、ありがたい話ではある。


道後温泉で有名な愛媛県・松山市には、一番町から始まり三番町まで、バラエティーに富んだ繁華街が続く。
僕がこの街で初めて唄ったのは、大街道アーケードから近い二番町と三番町の間あたりだった。
中四国最大の飲み屋街と言われる広島の流川で唄ってた僕も、松山の大きさには緊張したものだ。
車の往来も多く、飲み屋ビルの占有率も高い街だった。
なるほど、温泉街だなといった雰囲気。

思いがけず大きい街となると、当然のように緊張する訳で、僕は唄い出すより何より酒ばかり飲んでいた。
しかし、呉の港からたどり着いた僕の残金はもう数十円であり、早く唄い出さないと明日が迎えられない。
はてさて、どこで座り込もうかと考えて、車道を挟んで斜向かいには占い師が鎮座するという、交差点の角にした。背にするビルは大型の飲食店跡のようで、営業はやっていない様子だ。
すぐ前では、中華まんの屋台がモクモクと白い蒸気を吐いている。

自転車が2台ほど止められたその場所で、僕は意を決して唄った。
何せ、ひっきりなしに車が通る交差点では信号待ちの人垣が出来るし、大好きな飲み屋街とはいえ、僕には荷が重すぎた。所詮、裏道唄いには裏道が似合う。
唄うには唄い出したが、人の流れが多過ぎて箸にも棒にも引っかからない1時間が過ぎた。
そのうち深夜と呼ぶにふさわしい時間が訪れ、なぜか占い師が荷をまとめ始めたので、そちらに移ろうと思った。
少しひっそりとしたその角は、歩道の幅も広く、のんびり唄うにはもってこいだったからだ。

向かいへの移動のため、とりあえずギターをまとめ始めた時だ。

「オワリマスカ!?」

という声と共に、白い中華のコック服を着たお姉ちゃんが目の前に立った。
中華まんのお店のお姉ちゃんだった。

「ミズ、イリマセンカ?」

手には、氷の入ったグラスがあった。
僕は少し驚いたけど、ありがたく飲んだ。
キンキンに冷えた水は、酒ばかりで焼けた喉に甘露の潤いだった。「タイヘンデスネ~。スゴクスキデス。モットキキタイ」

と、箇条書きのようなセリフを、それでも満面の笑みで告げられると、僕も移動しにくくなってしまった。

「ここで唄って邪魔にならない?」

と尋ねると、大きく首を振り

「ウタッテクダサイ!」

と答える。
僕はグラスを返すと、ギターケースを再び開いた。
お姉ちゃんは「お~い! 肉まんちょうだ~い!」という声に慌てて走っていった。

せっかくのファンが出来た(ちょっと可愛らしかったし)。
今夜はもう、ここで唄おうと決めた。
決めた事により、その直後、すごい経験をする。

なので、次回は松山の話を詳しく。

舞鶴

フェリーで北海道へ渡るのに、毎回通っていたのが京都の舞鶴市だ。
海軍で有名な事は広島の呉市と同じで、いまだに『肉じゃが発祥の地』とか『海軍カレー発祥の地』とかで、双方言い争っている様子。まあ、その程度の争いなら笑って見過ごしておこう。


初めて舞鶴に行ったのは、恐らく2000年の6月だった。
それはもちろん、初めての北海道行きのため。
京都市内ならば、大阪時代に友人と唄いに出たりしていた。
ただ、そのころはまだ日本地理に疎い旅人だったので

「え? 京都に海とかあったっけ?」

といった知識のみでの舞鶴入りだった。

もちろん京都には海があり、天橋立で有名な宮津市を西に置き、福井県の小浜市に挟まれた場所に位置するのが舞鶴市だ。
舞鶴港は、鯨の尾の様に入り込んだ湾が特徴的で、北を上に尾っぽの左が舞鶴西港、尾っぽの右が舞鶴東港。僕が今も使う新日本海フェリーの入出するのは、東だ。
ただその頃の僕としては、北海道に渡る船があるのなら、京都だろうが福井だろうがどうでもよかった。
なんとまあ、旅情のない旅人だったと思う。


前日の大阪から京都を経て移動した山陰本線は、次第に里山深くなる景色の中を進んだ。
走行距離にして80キロ超くらいだろうか。
それを乗り換え2回。
時間にして2時間半のゆっくりとした移動。
季節や天候さえ良ければ、山奥を走る列車は色とりどりの紅葉に包まれたり、緑の中で不意に現れる小川に目を奪われたりと楽しい丹波山中なのだが、折り悪く、梅雨空・・・。

実はこの旅、梅雨を避けての移動だったのだ。
北海道に行けば雨に遭わないだろうという安直な思いを乗せて、僕は初の船旅を舞鶴から始めようとしていた。
そして、北海道では雨に遭わずとも寒さに遭った。
全体を通して、苦しい事の多い旅だったと思う。
苦しさの裏には、マンネリから安易に逃げた自分自身の弱さがあり、知人一人いない旅先で唄う事の難しさを知らない無知があった。

何も考えず、知らない所に行けば何かが変わるかも知れない、と考えていただけの旅だった。


当時、舞鶴から小樽へのフェリー出航時刻は、23時30分。
規定である1時間前に乗船手続きを済ませるため、22時には、ここから港へ向かわざるを得ない。

町中で唄えるのは、21時30分くらいまでの事だ。時間が早くあまり気乗りしないが、仕方がなかった。
僕は駅からほどなく歩いたパチンコ屋の角を右に入るアーケード入り口を演奏場所に決め、閉まり始めた商店のシャッターの音を聞きながら、座り込んだ。

飲み屋街でもないアーケードでは、身を小さくして唄う滑稽なミュージシャンへの反応も少なく、しばらくは自転車で何度も通りかかるオジサンが、その都度不思議そうに眺めていくだけだった。
僕にとっては早過ぎるほど時間も早い。
どうやらこの分ではここで稼ぐのは無理だろうとあきらめた。
手持ちは少なかったが、フェリーの切符はすでに昼間に購入した。
そのために往復4キロを大荷物で歩いて、汗だくにもなった。
今夜は唄った事実だけでいいやと、僕はあきらめた。あきらめの早い僕だった。

だけど30分ほど唄ったところで、遠巻きに眺めるだけの通行人に変化があった。
女性が二人、近づいて来るのだ。
歳で(僕はいまだに女性の歳が見かけで分からない。男性でも、分かりにくい)20代後半だろうか。
僕が


「こんにちは」

と愛想を浮かべると、背の高い細身の女性の方が笑顔で応えた。
なんというか、高い声だった。とても失礼だが
漫才のピンクの電話のような組み合わせだった。
(この書き方は、ピンクの電話にも失礼だが)。

「旅行されてるんですか~」

と、再び高い声で尋ねられ

「旅行・・・というか、まあ、そんなもんです」

僕は、旅行ってどういうんだっけと思い出しながら、困りながら答えた。
それでもせっかくのお客さんだしと、僕はいつものように唄おうとしていたのだが、高音の女性(着ている服から表情から話し方から、ピンクの電話のヨッちゃんだった)は、なんだか非常に話したがった。しかも

  ありがたいイエス様の話だった。

高音の女性が熱心に話す横で、ポッチャリな女性がうつむいて、ニヤニヤしていた。

ありがたいイエス様の話を聞かされながら、僕は早々に帰って頂くため

「僕もまあ、カトリックの生まれなんで」
と、自分の不信心を棚に上げて言った。
あきらめてもらおうと口にした僕だったが、ヨッちゃんは歓喜の表情で

「なんだ~! イエス様の事、ご存知じゃないんですか~!」

なんて興奮し始めた。完全に逆効果だった。
不信心が、いっぱしのカトリック教徒みたいな顔をするから、天罰がくだった。

その後、ものすごくありがたいイエス様のお話は止まるところを知らず、僕ももうムキになっていた。
結局は、どうぞ私達の集会に顔を出してくださいという話に、必死で抵抗していた。
ヨッちゃんが嬉々として語る

「私達の集会では、泣き出したり倒れたりする人が続出で」

という恐ろしい集まりに、どうにか連れて行かれないように頑張った。
いっそ相手にされまいと「ま、僕も神様なんて本当に信じてるわけじゃないし」なんて棄教発言まで飛び出したが、火に油を注いだ。
口数少ないポッチャリの女性(ミヤちゃんか・・・)は終始うつむき加減で含み笑いをしながら
この人なんにも分かってないわwww 的に首を振っていた。
それはそれは、腹の立つ光景だった。

僕はもう神様に謝って、さっさと逃げたかった。
フェリーの時間があるので、と何とか頭を下げ、見逃してもらった。
酔っ払いには強かったが、宗教や自己啓発の方々には弱かった。

話し始めて、ようやく30分。
ヨッちゃんは「戻られたら是非」と連絡先を残し、相方と名残惜しそうに去っていった。
まだ多少の時間はあったが、僕はこれ以上その場にいたくなかったので、逃げるようにフェリー乗り場へと向かった。
お陰で、人生初の舞鶴のイメージは痛いものになった。


市役所を大きく迂回して歩く夜の移動では、昼のように汗だくにはならずに済んだ。
時折、街灯の他には何もない道を大きなトラックが走り過ぎ、背中をライトに照らされながら、僕は前島埠頭への道を歩いていた。
黙々と歩く、港への真っ暗な道。
それは独りぼっちであったけれど、小樽という目の前の目標があるだけに寂しさはなかった。
なのに付き纏う寂しさは、さっきまでの忙しい会話のせいだ。

あのまま誰も声を掛けず、一人で演奏を終えて荷物をまとめられたら、まだ穏やかな心で船に乗れたはずだった。
あの2人が近づいて来た時、僕は結局、あらぬ期待をしていたのだろう。
何やら憐れみの目で近づいてくる彼女達に、優しい言葉のひとつや、餞別でも期待していたのだ。

楽しく唄って、楽しく話して、優しくしてもらって、楽しく別れる。
そんなもの、ある訳がないのに。
水無月の空は鈍く低く、垂れ込めた雲に、ぼんやりと遠い街の明かりが映っていた。


予定より早い22時前に港へ着くと、大型トラックの乗り込みが始まっている様子だった。
僕は待合室の2階に上がり、缶ビールを1本空けた。

荷物を床に置いてソファーに寝転んでいる人は、昼間にも見かけた。
それが来年の自分の姿だとは、まだ知らなかった。

港に横付けされた大きなフェリーが見える窓際では、老夫婦が外を指差しながら、何かを話している。

4時に着いたら電話する、と話しているのは、若い女の子と見送りの家族だ。

そうだった。この船は30時間以上をかけて、早朝の4時に小樽へ到着するらしい。
今では新型のスクリューを搭載した高速船に変わり、20時間で到着する。
その代わり、乗船券の値段は上がった。
時間が短くなったのに高くなるなんて、と憤っている僕は、フェリーを遊園地の乗り物と勘違いしているようだ。


30時間の孤独な船旅。
とはいえ、広島からだって大阪からだって、移動中はいつも独りだった。
街中で唄って誰かと笑っても、夜が終わる前には独りに戻っていたはずだ。
なのに胸に引っ掛かる不安は、目的地の遠さと、本当に誰も知人のいない心細さだった。
仲間との馴れ合いにウンザリして逃げ出したのに、ここにきて自分の意気地のなさを知った。

15分が経ち、まばらだった待合室に乗船客が増え始めた。
あちこちで、しばしの別れを惜しんだり、身体に気をつけて、と言う声が聞こえる。
お車で乗船のお客様は・・・とアナウンスも流れ始め、周囲は急に慌しくなる。
慣れた様にのっそりと身を起こしたソファーの男性と目が合い、一瞬、不思議なシンパシーを感じた。
お互い独り者だな、という、暗黙の会釈を交わした。
その時だった。

「あ~、間に合いました~」

耳に響くその声は、長々とイエス様のお話を聞かせてくれたヨッちゃんだった。
ピンクの電話(違うけど)の2人が、なんと見送りに来てくれたのだ。
あの後フェリーの時間を調べ、まだ僕がいたら車で送ろうかと話していたらしいが、もういなかったので直接来てみたという。
僕は思いもかけなかった事態と、苛々しながら話していた事実に気まずさがあったので、これ以上ないくらいに恐縮していた。

「わざわざ・・・すみません」

わざわざ、といえば、なぜか真っ赤なワンピースに着替えてきたヨッちゃんは

「せっかくなんで、見送りに来ようと思ったんです」

と、照れくさそうに笑っていた。
僕も同じように照れ笑いで

「見送りって、嬉しいもんですね」

と、答えた。
そのうち、徒歩でご乗船のお客様は・・・と、乗船を促すアナウンスが始まり、フェリーへ続くタラップ前には列が出来始めた。
ソファーから起き上がったあの男性が、不機嫌そうに僕らの横を通り過ぎた。
僕が悪いわけでもないのだが、なんとなく申し訳なく思った。

見送りに来てはもらったが、さっきが初対面なので、そうそう話す事もない。
僕は不自然に黙り込んで、ヨッちゃんも黙っていた。ミヤちゃん(この例え、本当に失礼だな)に至っては、最初から喋ってない。

これ以上は間が持たないので、僕も乗船口へ向かうため、じゃあ、と断って荷物を抱えた。

「じゃあ、わざわざありがとうございました」

僕が言うと、ヨッちゃんは恥ずかしそうにミヤちゃんと顔を見合わせて

「ええ。神様が、行くようにおっしゃってくれたんで」

と笑った。
その時の僕が、いったいどんな顔だったのか知りたい。
漫画かアニメだったら、フニャフニャフニャ~、と情けない効果音と共に崩れていただろう。

もしも彼女が
「どうしても見送りに行きたかったんです」
と言ってくれてたら、僕は帰りにまた、聞きたくもないイエス様の話を聞くためそこを訪ねただろう。
だけど実際に僕がその場を訪れたのは翌年で、自分達で出したお店をやってる、と教えてくれたそこは閉めてあり、赤く塗られた木製の格子だけが、張り紙と共に埃をかぶっていた。
破れてめくれた張り紙には 50%off と書かれてあった。


《追記》
フェリーに乗り込んだ僕は『フェリーには必ずカップ麺を買って乗り込む事』という勉強をした。
それから北海道では、6月でも凍え死ぬかもしれないという勉強をした。

その後フェリー慣れした僕は、カップ麺用意に周到になっただけではなく、大浴場1番乗りとコインランドリー1番乗りの記録を続けるのだった。








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米子

「だんだん」といえば出雲地方の言葉で「ありがとう」なのだが
それを知ったのは出雲より先に米子だった。
思えば朝日町通りの住人は、しばしばこの言葉を使っていた。

米子市は鳥取県でも西の端。
安来節で有名な島根県安来市と隣接しているため、言葉も良く似ている。
出雲弁も米子弁も、元を正せば『雲伯(うんぱく)方言』と呼ぶらしく、兄弟のようなものだ。
だからJR駅前の広場は「だんだん広場」だし、市内を走るバスも「だんだんバス」だった。
だんだんバスは米子の中心部を回る巡回バスで、どこまで乗っても一律150円。出会った当初は100円じゃなかったか。



米子初体験の僕に軽妙な 「だんだん!」 を教えてくれたのは、タケさんだった(マナカナさんでは、なかった)。

タケさんは朝日町ビルの目の前にふてぶてしく陣取ってギターで唄う僕の、米子での最初のファンだった。応援してくれる人々を『ファン』と呼ぶなら、この人ほど心強い応援者もいなかったろう。
とにかく音楽・・・ギターが大好きで、愛用のストラトキャスターをアンプ付きでスナックに置いている強者だ。
まずこの街でそんな人に惚れられた僕は、一発で米子が好きになった。


以前『佐賀』の項で書いたロクデナシがこの町の生まれだったが

「お前が行きたい言うならええが、終わっとるで、あの町は」

と事前に吹き込まれていた流言も、あっさり吹き飛んだ。
それくらい愛してもらった街だし、お世話になり続けた。
そのうち通い始める出雲とのコンボで移動なんかした日には、次の目的地を決めるより、ここに1ヶ月くらい滞在したい気持ちになったものだ。
実際、長い時にはホテル暮らしを重ねながら3週間は滞在した。
稼げそうで稼げなかった熊本3週間とは訳が違う。ただし熊本は熊本で楽しかったので、それだけは書いておこう。
今回は、とにかく米子だ。

タケさんは、ビルの1階にあるスナック『優香』さんの常連だった。
いや。間違えた。その辺にあるスナックや居酒屋、そこかしこの常連だった様に思う。

『けい子』さんも常連だったし、そのうちオーナーさんに声を掛けられて行く事になるナントカという外国人パブも、やっぱり知っていた。

どんな街でも、どんな酒飲みでもそうあるように、飲み方の決まった人は次第と、同じ雰囲気の店に落ち着いていくものなのだろう。タケさんの紹介してくれるお店は、決まって僕に優しかった。


タケさんは、21時くらいから朝日町ビルの前で唄い始める僕を見つけると、まずは嬉しそうに腰を下ろした。
そして1曲2曲聴き終えるとチップを渡し

「じゃあ、終わったらおいで。早めに」

と、ニコニコしながら後ろのお店に消えていくのだ。
そんなタケさんが開いたドア越しに1度だけ振り返って口にするセリフが

「だんだん!」

だった。
こちらの方こそ「だんだん!」なのにと、いつか自分も「だんだん!」を使ってみようと思うのだが
広島に10年以上いても自分の事を「ワシ」と呼べない僕に、よその方言はハードルが高かった。
結局、1度も使った事がない。





家へ泊めてもらったり、迎えに来てもらったり、年末にはスナックの忘年会に紛れ込ませてもらって温泉まで浸からせてもらい、僕の胸にタケさんへの「だんだん!」は溢れるのだが、なかなかタイミングはなかった。
そのくせ、僕はそのうちにタケさんを困らせてしまう。


広島での活動も雲行きが怪しくなったとある夏。
ここは一旦、山陰に抜けて態勢を立て直そうかと思い、そして僕は昨夜までの稼ぎを全部つぎ込んで高速バスに乗った。
目指すは、米子である。
バス代を取ってしまえば、後は缶ビールも買えない手持ちだったけれど、何の不安もなかった。
案の定で広島の1週間の稼ぎを1晩で取り戻し、僕は祝杯がてら背面のスナックのドアを開けた。

「タケさん今日、来てないのよ~」

とママがビールを注いでくれる。
僕は、珍しく一人きりのカウンターでボーっと飲んでいた。
飲んでいるうちに、素朴な疑問が浮かんだ。

なんでオレ、ここに落ち着かないんだろう。。。

情けない話、僕の旅は女に振り回される事が多いのだが、その時もそうだった。
別に、米子に彼女がいる訳じゃない。
広島だった。
広島に

「唄ってちゃんと生活出来るんだったら、証拠を見せてよ」

と言う女がいた。
女というのは半ば付き合ってる子であり、証拠というのは部屋でも借りてみてよ、という事だった。
その子は訳あって、住んでいる広島の家を離れたがっていたからだ。

別に・・・ここでいいんじゃないか。
僕の胸に、そんな想いが込み上げた。


翌日、彼女にそれを提案してみた。
第一声

「え~!! どこそれ!? 都会なの?」

だった。
思えば僕も、よくもまあそんな女と付き合いかけていたものだ。
九州最大都市のど真ん中で生活していたその子にとって、どう考えても米子は田舎だ。

「都会って都会じゃないけど・・・住みやすいと思うよ」

とにかく彼女は、部屋はどうなの? 借りられるの? と、そればかりを気にして電話は終わった。
僕はもう一度、公衆電話に小銭を投げ込みながらタケさんの番号をダイヤルしていた。


昨夜は仕事がねえ、と詫びる様に現れたタケさんに僕も頭を下げ、まずはとお店に入った。

ちょっと相談がありまして、と切り出す僕にタケさんは、僕なんかに何か出来るならねえ、と笑顔を崩さなかった。
が、話し始めてものの1分で、いつもニコやかなタケさんの相好は崩れた。

僕の相談は、単刀直入だった。
実家を追われてる様な自分には、今は一人で部屋を借りられない。生活の方は二束のわらじでも頑張ってみるので、なんとか最初だけでも保証に立ってもらえないかという、なんともまあ世間知らずで自分勝手な相談だった。

なかなか、タケさんの返事は出ない。
困った様に、う~ん・・・とか、そうだねえ・・・、と繰り返すばかりで、酒ばかりが減った。
僕はようやくそこで、つまらない事をした自分に気付いた。
せっかくの応援者が、たった今、離れていこうとしている。
僕は自分を甘く見積もっていたのだ。
タケさんの応援に答えられる自分だと、路上演奏なんかでチップを稼いでるだけの風来坊のくせに、一人前の男でも相談するに忍びない事を、簡単に口に出してしまった。

「いやね・・・」

ママがこっちの話に気付かないフリをしている中、タケさんが、ようやく重い口を開いた。

「ミユキちゃんの事を信用してない訳じゃないんだけど、だから逆にね、う~ん・・・」

タケさんは先を言いにくそうにしている。
僕はもう、この話をあきらめて、早く謝りたかった。
すみません、こんな生活力の無い人間がこんなお願いして、申し訳ありませんでしたと。
でも、言い出せなかった。タケさんの人の好さに、まだなんとか賭けようとしている、みっともない自分がいた。
タケさんが、長い長い「う~ん・・・」の後を続けた。


「ミユキちゃんに、そうやって終わって欲しくないんだよねえ」


僕は、タケさんの言う『終わり』がなんだか分からず、しばらく黙り込むしかなかった。
ただ、そこからのタケさんは言葉が滑らかで沈黙は続かなかった。

「僕みたいにねえ、やっぱり生活に追われると、出来なくなるからねえ・・・ミユキちゃんの魅力は、日本中を庭みたいに旅して、そして生活してるところだし・・・」

タケさんはそれから音楽を止めていった人の話や、自分だってその一人だという事や、とにかく応援したいんだよねえ、という話を延々と続けた。
沈黙の間に減らした酒の分だけ瞼を重そうにしながら、一生懸命に旅唄いの魅力を語ってくれた。


タケさんは、別に僕を信用してない訳じゃなかったのだ。
旅唄いの魅力を、そして背負っている責任を、僕よりも理解していたに過ぎないのだ。
皆が出来ない事をやっている。それは皆の憧れであり、受けた応援は責任だと。


「すみませんでした・・・」

と僕が謝る頃には、タケさんはいつもの調子に戻ろうと一生懸命で「まあ、飲みましょ!」と僕のグラスを満たした。


その時から僕は、落ち着く場所を持たなくても良いと思い始めた。
一生、風来坊の生活でも、貫いてみようと思った。


すべてを潔くあきらめて飲み干したグラスを見て、タケさんも安心したのか、また酒が注がれる。
そして一言。

「でもまあ、やっぱりこういう事はね! ミユキちゃんを信じてない訳じゃないんだけどね!」


なんだ。やっぱり信用は無かったんだな(笑)。



























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茨木 その2

前回に引き続き、大阪府は茨木市の話をしよう。


池上朝士と書いて 『いけがみ ともひと』
今回の主役は、彼だ。


断っておくが、実名だ。
この場に名を出す事は、彼に知らせていない。
「それはマナーとしていけないんじゃないか」と言われてしまうと、その通りだとしか答えられない。
しかし、今となっては彼に知らせる術もないのだ。
彼は茨木での最も親しい友人であったにも関わらず、僕は連絡を途絶えさせてしまったから。

もしかしたら連絡が・・という思いを込め、あえて実名にさせてもらった。



大阪に移り1週間ほど。
まだまだ慣れない土地で、僕は路上演奏者が多い阪急電車の駅付近を避けて、ガード下なんかで唄っていた。
小樽の花園銀座に近いところもあるが、なんせベッドタウン。どうにも通行人の目が痛々しい。
駅から離れた交差点に、いいな、と思う場所はあったのだが、路上駐輪が多くて無理そうだった。
違法なんだから力ずくで動かせばいいものを・・・今も昔も、僕は肝の小さい男だ。

何を唄っていたかは思い出せないが、とにかく引っ切り無しに真上を通る電車のゴーゴーという音に負けない様、がなっていた。
自分でも思うくらいに、路上で唄い始めた初期の頃の様に尖った唄い方だった。
そんなふうだから誰も立ち止まりはせず、僕は思う存分に落ち込めた。

本気で落ち込む事は、僕の歌にとって決して悪いことじゃない。
それは時に、立ち上がる力になってくれる。


電車との格闘も次第に僕へ軍配が上がり始める23時頃、彼は通りかかった。
もう思い出せる人も少ないと思うが、今ではラーメン店をプロデュースしている河相我聞(かあい がもん)によく似た、甘い顔のお兄ちゃんだった。
ついでに、手にしていたのは缶ビールだった。

「すごい所で唄ってますね」

最初の言葉は、多分そんなだったと思う。
普段なら「すごい」というのが皮肉に聞こえて イラッ とくる言葉なんだけど、彼がその顔で言うと許せた。 
しかもそれは皮肉でもなんでもなく「僕の声はすごくその場に合ってると」いう解説付きだったので、完全に許せた。というより嬉しかった。

それは何も、手にしていた袋から

「よかったら・・」

と、缶ビールを分けてくれたからじゃあない。


ギターが好きで、長渕剛や山崎まさよしを好むという彼は、近場のビール工場で働いてるらしい。
黒ラベルで有名な、あのメーカーだ。

「明日、一緒にやってもいいですか?」

と聞かれたので、時間と場所を確認して別れた。
その日から彼と僕は、1週間に4日は一緒に唄うという、半ばユニット的な仲間になるのだった。

翌日。
例の違法駐輪が多い富士銀行の角で待ち合わせていたのだが、彼はすでに姿を現していた。
僕は、デートの待ち合わせに遅れた彼氏みたいに恐縮して挨拶した。
それにしても1人が2人になるというのは気持ちの上でも大きな違いで、僕らは自転車を押しのけて、早速自分達のスペースを確保した。

彼の持っていたギターがタカミネだったかギブソンだったかすら忘れたのだが、良いギターだった。
分かりもしないのに『良いギター』なんて無責任な話だが、申し訳ない、僕は本当にモノに対して無頓着なんだ。
無頓着過ぎて、ギターを盗まれた事もある程だ。
ギターを弾く人間として、決して褒められた事じゃない。

そんな話は自分への戒めとしてさておき、彼のギターテクニックはすごかった。
半分、呼ばなきゃ良かったと思った程に。
なのに気さくな彼は、大雑把な僕のギターの弾き方を

『かっこいい』

なんて言ってくれるものだから、僕の中で池上株は上昇を続けるのだ。

最初の頃は、毎晩を唄った。
そんな時、1日ごとに馴れ合うのが路上ミュージシャンの常なのだが、僕らの場合は違った。
僕の方が一方的に馴れた。
彼は年上の僕にどう振舞っていいか分からない様子で、ある程度の距離を置いていた。
なのに僕の事を呼ぶときは二人称も使わず

「自分さあ・・」

とか呼んでいた。
関西では多い呼びかけだが、心の中では「へ~、なんか近くて遠い奴だな」なんて感じていたのも確かだ。


そうそう。

彼との路上演奏の中で培われて今に続く
『酒を飲みながら唄う』
という、画期的な事が当然になったのも、この時からだ。

僕らはビールがなくなると、すぐに買出しに行った。
冬になると、缶の底をペコッと押して1分間でお燗が出来るお酒を飲み始めたのもこの頃からだ。
路上演奏が終わった後に実入りの多い時は、斜向かいのバーに飲みに行った。

こう書くと、何だか飲んでばかりの様だが、歌もしっかり唄っていた。
長渕剛、しかもデビュー間もない長渕剛の曲が共通点だった僕らは、よくハモっていた。
その当時にハモり、しかも長渕剛をハモるなんて異例の事だったので、評判は良かった。
気を良くした僕らは、次第にライバルの多い阪急茨木市駅にまで足を伸ばしていった。

阪急茨木市の駅は広く、ホームが2階にあった。
東西(南北と呼んでも差し支えない方角だったが)へ抜ける連絡通路は上にも下にもあり、利用者はとりあえず中央の改札を抜ければ問題ない。
だからこそ、その中央の改札を通った乗客のほとんどが降りてくるエスカレーターの、まさに目の前で唄う僕らは、とんでもない奴らだったろう。

僕は今とほとんど変わらぬ枯れた感じのがなり声で、池上は逆に、顔の如く甘くて高い声だった。
それが相まって絶妙にハーモニーを作れた時は、それはもう酒が進んだ(やっぱ酒か)。
たまに駅の方から苦情が出たが、出る時と出ない時の違いが分からないので、やっぱり唄っていた。
屋台のラーメンで温まったり、早抜けした後に他のパンクミュージシャンの所に顔を出したり、時には向こうが顔を出してリクエストをくれたり、僕の路上演奏生活の中で、最も社交的な時代だった。
僕はそこで『オザキの人』になり、池上もまた『ナガブチの人』になった。


そんな風に、彼との路上演奏は楽しかった。
前回出のKちゃんも僕と池上との路上を好きだったし、池上は彼女を紹介してくれたり、路上演奏の他でも親しさが増していた。
池上は僕の作った『置き去りの夏』という曲が大好きで、彼の勤めるビール工場のお祭りで唄ってくれたらしい。
その切なくて甘いメロディーは、僕より彼に似合っていると思った。

楽しい時間ばかりが過ぎれば良かったが、彼と別れる日も近かった。
ものすごく悔しいのは、その時の事をよく思い出せない事だ。
理由は恐らく、池上の転勤だったと思う。滋賀じゃなかったろうか。近江八幡の話をした気もする。
それから彼はその直前に、可愛い彼女と結婚していた気もする。
親しいとはいえ、僕は披露宴に顔を出していない。
だから余計に混乱するのだ。
彼の披露宴に行けなかったのは、僕が広島に戻ったからなのか、それともただ金のない僕を二人が呼べなかったのか、はたまた彼が転勤した後だったのか。。

思い出せないのは、僕の自己防衛かも知れない。
その頃Kちゃんに『ギターかアタシか』と選択を迫られたり、今も続く心の変調を感じ始めた頃だったから。
思い出したくない事が、大阪に集まってしまうのだ。


とにかく、覚えている事だけを書こう。
むしろ、それだけで十分だ。


小奇麗な彼の部屋に招かれた日。
彼女さんもいた。結婚していたなら、奥さんだ。
持て成しは、きっと彼の好きな餃子鍋だったろう。

池上は、僕に(Kちゃんも含めて)贈り物をくれた。
『サミクラウス』という、サンタクロースの名を持つベルギーのビールだった。

ギネスブックに載るほどアルコール度数の強い黒ビールで、4本あったろうか、それをくれた。
保存して熟成させればもっと度数が上がり美味しくなるというそのビールを1本開け、皆で味わってみた。
強い甘さと苦さが口に広がり、僕達は美味いとも言えず「まだ若いのかな」と笑ってみた。
そして

「10年後に、また一緒に飲めたらいいね」

という言葉で、僕らは別れた。

それきりだ。



一度、手紙をもらった事があるので、連絡先は教えたのだろう。
僕が年賀状なり、書いたのか。はたまた、電話か。


手紙の内容は、こんな風だった。

~ 今度、友達の結婚式で唄います。是非、幸さんに曲を書いて欲しいのです。


  長渕の『乾杯』を超える奴でお願いします 



「自分さあ・・」 とか呼んでた奴が、物を頼む時に限って『幸さん』だなんて!
しかも名曲『乾杯』を超えろだなんて!

そう苦笑いしながらも、嬉しかったので引き受けた。
カセットテープと歌詞を一緒に送った。

そして今度こそ、これきりだ。


10年後に飲もうと言ったビールは、もう僕の手元にはない。

Kちゃんも、いない。

長いような短いような歌の旅の中で、沢山の人達と出会っては別れた。
だけどいつも、再会の方法はあったはずだ。
なのにすべてを置き去りにしてあらゆる町を飛び出してきた僕に、もうその方法はない。
たまには本気で自分を恨めばいいのに、それさえしない。

池上朝士と書いて 「いけがみ ともひと」

今も変わらず、黒ラベルを飲んでるだろうか。

僕と同じく歳を重ねてオヤジと呼べる様になった今も、時々、ギター片手にその辺で唄っているだろうか。

約束のビールはなくなってしまったが、もしも会えたら、たまに出る愛知訛りで

「自分さあ、老けたが~」

なんて言ってくれるだろうか。





約束のビールはないけれど、僕は今夜、君を思い出しながら、黒ラベルを飲んでいる。
サミクラウスよりも甘くて苦い、遠い思い出の味がするよ。




Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
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茨木 その1

まだまだ路上2年生の頃。。。

広島で始まった僕の路上演奏だったけれど、一箇所に長く滞在すれば誰もがそうある様に、いつしか馴れ合いとしがらみに嫌気が差していた。


いつも5~6人が集まっての一種暴走状態だった広島・流川の路上演奏には、いい大人の酔っ払い以外にも、若い女の子がやって来たりしてた。
Kちゃんも、その中のひとり。
地元広島のKちゃんは、だけど通っていた高校をわざわざ大阪の高校へ移し、一人暮らしをしているという。

半ば冗談のように

「俺、大阪に行こうかな」

とボヤいた僕に、Kちゃんは

「だったらウチに来ればいいよ」

と、十代の少女特有のあっけらかんとした口ぶりで言った。
でもそれは実のところ、僕も期待していた言葉だった。


当時27歳の僕と、17~18歳の彼女。
身内には『犯罪』と呼ばれた同居生活が、夏の終わりの大阪で、市内から北へ離れたベッドタウン、茨木市で始まった。


茨木市は、僕の生まれた1970年に大阪万博の開かれた都市だ。
万博のシンボル『太陽の塔』のモニュメントで有名な、故・岡本太郎氏と誕生日が同じ僕には、何か運命的なものを感じた。
27歳の僕でさえ、まだギリギリその程度の事にも運命を感じられる歳だった訳だ。
ティーンエイジャー真っ盛りのKちゃんにとっては、尚の事だった。

「大阪、ええ街なんよ~」

と、広島弁のまったく抜けない口調でしきりに言ってたのを覚えてる。

でも彼女が住んでたのは、そんな万博記念公園へと続くJR線から東へ1キロ離れた、阪急茨木市の駅に近く、僕の演奏拠点はそこに決まった。
 
第一次ストリートミュージシャンブームとでも呼ぶべきその時代。
茨木市駅前は、ストリートミュージシャンが常時5~6組は演奏していた。
まだまだ『ゆず』『19』もデビューなんかしてなくて、どのミュージシャンも演目は大抵『ナガブチ』『オザキ』『ブルハ』 (順に、長渕剛、尾崎豊、ザ・ブルーハーツ) だった。
オリジナルを唄う人間は少なく、演奏レベルも歌唱レベルも、まだまだセミプロかそれ以下ばかり。
よって、歌唱力だけには定評のある僕は次第に地元ミュージシャン達にも一目置かれるようになり

『オザキの人』

という、光栄極まりない通り名を頂いた。
ちょっとだけ、いたたまれなかったが。


Kちゃんはといえば束縛時間の少ない高校だったため、週のほとんどをバイトに費やしていた。
とはいえ、そこは十代の女の子。親からの仕送りもあった様だが、それだけでは遊びきれないのだろう。

ただし、Kちゃんの名誉のために書くのだが、彼女は決して当時大流行のコギャルではなく、なんだか素朴さの溢れる元気な少女だった。
遊ぶと言っても友達とプリクラを撮ってまわるだけだったり、カラオケで8時間唄い通したと疲れ果てて朝帰りしたりの、僕から見れば他愛もないものばかりだった。
その頃は夜のバイトだったため、僕の路上演奏にも滅多に顔を出さなかったし、何よりも

『自分が隣にいたら、人が寄れないんじゃないか』

と気にするほど、僕の路上演奏を大切に考えてくれていた。
そんな彼女だったからこそのエピソードがある。

ある日、Kちゃんが僕の事を、嬉しそうに友達に話したらしい。
え~、同棲してんの~! とか、チョー年上じゃない~? とか(想像)、ワイワイと話していたのだが

「ストリートミュージシャンで、お金を稼いでるんだよ」

と、Kちゃんが話した時から

「それって・・・なんか・・・あんたが養ってるんじゃ」

と、友人達の顔色が変わった。
そのひとりが

「パチンコが仕事って言ってる人と同じじゃん!」

と禁断の発言をしてしまったのだ。
今の僕なら「そうですねえ、楽な仕事です~」と笑えるのだけど、後半とはいえ20代の僕には辛い言葉だ。
Kちゃんにしてもそれは同じ事だった様で、部屋に帰ってその話をしながら、悔しそうに

「皆、ミユキさんの事を全然わかってない」

と呟いた。呟いてくれた。

なんとなく好きだからと、広島を出るために半ば彼女を利用してしまった僕は、嬉しかったと同時に、心から申し訳ないと思った。
僕の中にも確かにあったコンプレックスを、彼女の前ではもう見せないようにと決めた。


でも、若さは気まぐれ。


時は流れて1年。

「アタシの事が本当に好きだったら、ちゃんと働いてよ!!」

とは、同じくKちゃんの言葉(笑)。



大阪と言えば、梅田でも道頓堀でもなく、茨木市。
僕にとっては、今も変わらない。

そうそう。
茨木で会った、大事な男の話をまだしていない。
次回は珍しく『茨木編その2』にしてみよう。

では、また次回。


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