長崎

誰しも、生まれた町があり、育った町がある。
まあ、村だったりするかも知れないが。




僕にとっての産まれた町は、九州の最西端に位置する、小さな町だった。
こう書くと、僕の事を多少でも知ってる人は 
「え? 広島じゃなかったの?」 と思うだろう。
それはそれで、また違う話がある。

今回は、紛れもなく生まれ育った長崎の話。


高校をあっという間に中退してバイトなんかもあっという間にやめ続けては
一生パチンコで暮らせていけりゃ楽だなあぐらいにグダグダしてた僕は
その頃、楽器なんてまったくやっていなかった。
まったく、は言い過ぎか。中学で習ったクラシックギターで、CとAmとFとGは辛うじて知っていた。Fにいたっては、初心者が誰でもつまづくレベルで、つまづきっ放しだった。思えば今も、つまづいたままだ。


音楽といえば、もっぱら聴くのが専門で、それもアニキがステレオで流す

松山千春や長渕剛やユーミンや甲斐バンドや中島みゆきや中森明菜だった。

中森明菜は異端に思えるのだが、アニキも二人いれば、まあ、そんなものだ。
僕が自主的に聴いたのは、中学の悪友の間で流行ってたスネークマンショーやそれに付随するYMOのコミカルなおふざけ盤で、おおよそ今の音楽性を表立っては支えていない。ただし、人間性としては堂々と表を支えている。




そんな僕だったから、そのうち家族から飛び出して、好き勝手にやった。
好き勝手な生活のBGMは、尾崎豊でありアルフィーだった。
なんでまた・・・と、この取り合わせに驚く方もいらっしゃるかも知れないが、なんだかそうだったのだから仕方がない。酒飲みは、ビールも焼酎もカクテルも同じ様に飲めるものだ。混ぜはしないが。


ああ、その頃の事を余すことなく書こうとすると、本題にまったく触れられない・・・。


なのでここは端折って、そんなだらしない生活のイラストレーター志望の世間知らずが家を飛び出して借金でも作ってあちこちに迷惑をかけて、それでも懲りずに飛び出してガッカリさせて、なのにまだ飛び出してこれでもかと言わんばかりに迷惑をかけて 「帰ってくるな」 と言われた後から、物語を始めよう。




僕が歌唄いを始めて、2~3年が経っていた。
それは今の本拠地(それさえも最近じゃ戻っていないが)広島であり、当時は彼女の実家の店を手伝い、二束のわらじだった。この二束のわらじが、一生涯の曲者である。


成り行きではあったが、風来坊の身の上をやめる決心で、僕は長い事連絡を絶っていた家族に電話をした。今では仕事も任されている身だし、広島にきちんと身をおいて生活していくと。
実はその時すでに彼女に振られており、借りているアパートの名義を自分にしなければいけなかったからだ。親不孝も限りを尽くした上に、まだ脛を齧るというのかコイツは。


なのに、だ。
それまでやりたい放題だった僕に相当の憤りもあったにも関わらず、両親が家族が許してくれたのに

僕は、そこをやめた。


逃げた。
彼女がいなくなった今となっては、続ける意味を見つけられなかったからだ。
なんて子供染みた、身勝手この上ない話だ。
しかも、それは初めてでなく、そうやって同じ様な状況で広島のバイト先を辞めるのは、これが3回目だった。
毎回、親が頭を下げたはずだ。




僕はもう、やりたい事しか出来ないワガママな人間だと、自分をあきらめた。
どれほど誰かに頭が上がらず、何かを我慢し続けていようと、絶対にどこかで限界が来る。
逃げ場が、酒だったり薬だったり血を流す事だったり、中途半端な逃げ道ばかりだった。
いっそ、キリストを裏切って銀貨30枚で売り渡したイスカリオテのユダみたいに首を吊って死んでしまえばいいのにと、家族ならずとも思ったはずだ。僕が思ったのだから。

家族のためにも、もう、家族とは別れよう。
まるで、浮気相手に本気になった男の、出来損ないの言い訳みたいだけど。





それから僕は、本物の宿無しになった。
宿無しになって2年後、久しぶりに九州の地を踏んだ。
福岡から始まり、佐賀へ行き、順路として長崎に辿り着いただけだった。
よそよそしい、だけど知り尽くした街で、僕は旅人になって唄った。
時間を潰す場所なら、いくらでも思い浮かんだ。
そして、その一つ一つの場所に、誰かの記憶があった。
そして日本中のどこへ行こうと、この町の記憶は僕の心の片隅で、意地の悪い神様みたいな邪魔をする。

大波止、といえば長崎の港だ。
僕は、昨夜眠りこけた港の倉庫街を抜け出し(追い出され)、ギターを担いでは当てもなく街中へ歩き出していた。
一晩中唄っていても知り合いなんか会わないくせに、なぜか道端で、昔のバイト先の先輩に会った。やっぱり同じバイト先で知り合った人と結婚したが、噂では何らかの借金で負われて、挙句、病んだ人だった。病んだ内容までは知らない。
そういえば1度、金を借りたいと電話があったっけ。
でもその人はもう、大学時代に柔道部の主将で大らかだった頃と違い、なんだか卑屈で嫌だった。
やつれた頬で卑屈に笑い、宿無しの歌唄いを 「いいなあ」 と羨み 「ボクなんか、本当に明日死ぬかも知れないしさあ」 と、やっぱり卑屈に笑った。我が身の不幸を寂しそうに口にして、何か少しでも自分の手にしようと一生懸命だった。
僕は、身の不幸を他人のせいみたいに話す彼に 「まあ、みんな大変だから」 と、よくあるセリフを口にして、早々にその場を去る事しか出来なかった。
よくあるセリフなんて、大嫌いだったはずの僕が。

彼の披露宴以来、数年ぶりの再会は、大声で笑うでもなく、肩を叩きあうでもなく、お互いの不遇をそれとなく口にしながら懐を探り合う、みっともない再会だった。
仕方ない。僕は僕でその時、昨夜入った大事な千円札2枚がポケットに無い事に気付いて愕然としていたのだから。

彼と別れ、僕がいた頃にはなかった港の近くのでかい遊歩道に行き、なけなしで買った缶ビールを飲みながら、暗い気分は抜けなかった。
だからそれ以来、彼の事は嫌な思い出として忘れたがっていたし、そのうち忘れた。
そして、ある日思い出す。


数年後、僕はまた九州にいた。
その街との相性は最高に悪いのか、どこで唄ってもダメだった。
毎晩10時間ほど唄っても300円がいいとこのある日、僕は最後の10円玉で電話をかけた。
中学からの友人が、この街にいるからだ。
思い立った時、更には金に困った時だけたまたま電話するだけの友人。
惨めだったが、なんだか心細くて、来てくれとは言わないまでも声が聞きたかった。10円玉一枚で実のある話など出来るはずはないのだが。
それでも彼は、いつも精一杯の優しさで僕を受け止めてくれていた。だからこそ、その優しさに触れたくて電話をかけたのだ。

繋がった電話は相変わらず突然の僕に、いつもの驚きようだったが、声が重苦しかった。

「あの・・・さあ・・・今・・・転勤で横浜にいるんだ」

そうかゴメンゴメン、という、僕の強がった笑い声は、彼に届く事なく通話は終わった。
僕は、長崎で会った変わり果てた先輩とのやり取りを、なぜか思い出した。
同時に、時の流れと自分の不義理を嘲笑った。


長崎は今や僕にとって、よく知っているが、よその土地だ。
なのに、夕方の西坂公園から見下ろす駅前も稲佐山のシルエットも、路面電車のブレーキの音も、コンビニの店頭さえ、何もかもが空間を越えて、記憶に埋もれたはずの誰かの面影に繋がってしまう。
時間だけが、それを越えきれないまま。


それを人が故郷と呼ぶのならば、時間を取り戻せない僕に、故郷は無いのだろう。







Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=37.405074,138.867188&spn=16.275379,28.125&z=5

熱海

昨夜に秦野駅前で頂いた虎の子の千円を頼りに、古くからの温泉街・熱海に到着した。


まだ時刻は朝の7時前。
曇り空のせいで8月の暑さも和らいでいるが、蒸し暑い。
夜までは何ひとつ行動予定はないので、駅前で時間を潰すのみだ。

僕の目的はひとつ、今夜の稼ぎで、翌日には金沢まで移動する事だった。

行くよ、と、友人に約束していたのだ。
実際問題、ここから金沢までがどんなルートか幾らかかるのか詳しく考えてはいない。
それを考えるのは、今夜を唄い切った後の事だ。
考えたからといって、何になるわけじゃないのだし。
とりあえず、一万円あれば足りるだろう。



熱海は二度目だ。

数年前に初めて訪れたこの町でのお気に入りは、駅前のバーガーショップ。
このご時世に、大きく 『コーヒーおかわり無料』 の横断幕が心強い。
歩いて日本一周中の旅人にも是非、その折には満喫して欲しいものである。



100円のコーヒーを、更におかわりしながら粘る早朝。
よく見れば、周囲にも同じような一人旅風の客がまばらに見える。
大きなデイパックを床に置き、地図を枕に眠りこける男性。
可愛いピンク色のキャリーバッグを仲良く並べて、携帯電話に見入る若い女の子達。
そして、同じくキャリーバッグとギターケースを放り出して、ただただ昨夜の眠りを取り戻す旅唄い。
駅のベンチは、さすがに背中が痛かった。


キャリーバッグは神奈川の大事なファンの方から譲ってもらったものだ。

車輪が一つダメになってたのを見かねて、引越しの荷物整理と称して僕にくれた。ありがたい事だ。
おかげで標高の高い熱海の駅前から海岸線へのクネクネとした急な坂道を、なんとか下りきることが出来た。
それでも帰りの上り坂では腕もパンパン、汗だくになり、これが車輪の足りない3輪キャリーだったらどうなった事かと背筋が凍ったものだ。改めて、感謝した。

午前9時半を回ると、バーガーショップの2階も少しずつ賑やかになってくる。
僕は深い仮眠から目覚めて、取り出したまま埋まる事のなかった白紙のノートをしまい、もうすっかりやる事がなくなったので駅前を後にすることにした。
以前に訪れた時、一度だけ駅前の土産物屋が並ぶ場所で昼間に唄ったのだが、良い反応ではなかったからだ。良くない反応とは、お店の方々の視線の事で、とりあえず大阪からの観光客にリクエストはもらった。

だけど、やっぱり僕の演奏は夜の街のものだ。
前回は踏ん切りがつかずに見送った熱海銀座での路上演奏を、今夜だけは、どうしても決行しなくちゃいけない。



熱海銀座へ下りて行く、まるで断崖を転げるような道すがら、煙草屋の店先にゴールデンバットを見つけた。
ゴールデンバットは、1個20本入りで300円が相場の煙草市場において珍しい140円の両切り煙草だ。
貧乏ミュージシャンには、なんとも嬉しい安煙草。
ポケットの小銭は、狙ったように残り140と数円。
バッグ内に、お茶のペットボトルとウイスキーはキープしてるので、これで夜を待つとする。




する事がないと言い切ると本当になくなるもので、それではまだまだ夜は待てない。
時刻は、ようやく正午。
のんびりとした街中風景を眺めるのは、利用者も少ないバス停の古びたベンチ。
ぼんやりと煙草の残り本数を計算しながら火をつけて仰ぎ見る空は、相変わらずの曇り空。
海へ吹き抜ける風は湿り気を帯び始め、どうやら雨は避けられない予感。
このまま夜を迎えて、金沢行きの移動費を稼げというのか。
一万円あれば足りるだろう。


一万円・・・・・・・・・。


鬱蒼とした気分は続く。



気分転換に始めた車の県外ナンバー探しは、思ったより時間潰しになった
さすがは観光地。東北・九州、果ては北海道方面からの車も発見できたが、30種を越えた辺りで重複が分からなくなり、面倒くさいのでやめた。多分、正確にカウントしていれば50はいったんじゃないかと思う。

14時頃から、ポツリ・・・パラパラ・・・と頬に雨を感じた。
ギターが濡れるとまずいので、海岸の135号線に出て、しのげそうな場所を探す。
国道は、ビーチ直行の元気な水着家族で賑わい、老いも若きも楽しげだ。
どこか身を紛れさせるのに都合のいい場所はと物色していると、玄関に簡易シャワーを設置したような大きなホテルがあり、中を見るとフロントでは水着の子供が走り回ったり、老夫婦が腰掛けてじっとしているソファーがあったり、どこかの団体の物なのか大荷物の山があったりで、とってもフリーダムな雰囲気。


ここならしばらくのんびり出来るかと思いきや、ものの2分で


「お客様? お手続きはお済みでしょうか?」


と、顔だけは笑顔のスタッフさん。


「いえ、連れを待ってるだけなんで」 と大ウソをつくも


「本日、大変混雑しておりますので、ロビーのご利用はご遠慮願えますか」


と、一蹴された。

ギターケースを抱えたロン毛の30代はサマービーチに溶け込めないのだと実感した。


雨が思ったほど降らないので、あきらめてまた元の通りに戻る。
時刻は16時。
20時から唄えるとして、まだ4時間。
こんな事なら、まだ駅前にいた方が時間が潰せたかも知れないと軽く後悔するが、今からあの坂道を登る気力はない。それは、最後の余力に残しておかないと。


後は、どうやって時間を潰したんだろう。。
営業前で慌しくしている居酒屋の店先の様子を眺めたり、逆に閉まり始めるシャッターの音を聞きながら、座り込んだ道端で通行人に訝しく見咎められながら、ペットボトルのお茶を3分の1までならいいやと飲んでたりしたんだっけ。
とにかく、なんとかそこで夕暮れは過ごした。ひたすら、雨が怖かった。
だけど空は降り出しそうで降らない状態を保ち、そして時刻はようやくで19時を回った。
すっかり固まってしまったヒザを伸ばすと、僕は今夜の演奏場所に見当をつけるため、小さな川を越え、スナックと思しき看板の並ぶ一角へと向かった。

初めての町ではいつも同じ壁にぶつかる。
どこで唄ってよいのか見当がつかないのだ。
元々、道端に唄ってよい場所というものなどないのだから、仕方がない。それは自力で作るものだ。
かといって、どこでも良い訳でなく、やっぱり人の流れだ店先の環境だと判断材料はある。
そしてそれがやってみないと分からないというのが、最大のネックだ。


商店街のある銀座町から飲食店の多い中央町へは、糸川という小さな川を渡る。
川沿いには、春にはたくさんの花を咲かせそうな桜の木が並んでいた。
桜橋という名の、風情のある石造りの緩やかなアーチ橋がかかっていて、僕はなんだか気に入った。
長崎産まれの僕は、石橋があるとなんだか落ち着いてしまうのだ。
橋の真ん中で唄う、という手もあるにはあるが、車の往来もあるようで、邪魔になりそうだ。
僕が唄う事で街の雰囲気を悪いものにはしたくない。それはいつでも、どんな街でも思うことだった。


なので橋を渡った右手の家屋の並びに、営業されてない様子の店舗兼住宅らしきものを発見したので、そこにしようかと思った。雨は時折パラつく感じで降っており、軒先なら多少は防げそうだった。
何より時刻は20時を30分は回り、そろそろどこかに落ち着くべきだ。
僕は、そこに荷物を降ろし、緊張しながらも荷物を用意し始めた。


譜面台を立てる様子を、タクシーの運転手が不思議そうに眺めていく。
熱海のストリートミュージシャン事情はまったく知らないが、恐らくこの場所で唄うなんてヤツは僕のような旅の歌唄いでもない限り存在しないだろう。
誰も唄いそうにない場所。だからこそ意味があるように思う。
それは決して奇をてらう訳でなく、そこに歌があれば素敵なんじゃないかと思わせる場所で、且つ、若年層のストリートミュージシャン気取り(あえて言わせてもらうけど)が決して立ち寄れそうにない場所。
根性のない若い子は、僕の開拓した場所で真似る事は出来ても、開拓精神は持ち合わせていない。
誰かが必死で市民権を獲得した後、そこを荒らす輩の多い事。
僕はいまだに、それがストリートのメッカ(ああ、書いてて恥ずかしい)といわれる場所であろうと、数組が一斉に音を出して騒音バトルを繰り広げる状態を心底憎んでいる。


と言いながら僕もさして根性の持ち合わせがあるでもなく、初めての場所でいつもそうするように、ウイスキーをあおり、道行く人を眺め、少しずつ勇気を振り絞って唄い始める事になる。
譜面台(もっぱら曲選びのみに使う)を出すと、心なしか 『やらなきゃ』 という気分になるので、心の準備が出来ないときにはなるべく早く出す事にしている。
どんなにそれが見当違いの場違いな場所でも、譜面台を立ててギターまで出したのに何もやらなかったら、見る人は 『何やってんだ』 と思うだろう。
なのに、だ。譜面台を出してギターまで出して 『さあ、熱海よ』 と構えた僕への仕打ちは

いきなりの土砂降りだった。

この上ない程に絶妙な最悪のタイミングだった。

ちょっと道に伸びたひさしでは全く意味を成さないくらいの大雨に、僕は大急ぎで荷物をしまった。
ああ、なんとか日中は持ちこたえてくれていたのに、なんでまたここに来て・・・。
何か始まりそうな予感に足を止めていた人達も、蜘蛛の子を散らすように走り去ってしまい、僕はといえば軒先に身を細く立ち尽くし、恨めしく空を見上げるだけだった。
道路を叩きつける雨粒は跳ねて、1時間も僕の足を濡らし続けた。


熱海・・・あきらめよう。
そうも思ったのだが、あきらめるのは明日の金沢行きであり、今夜をあきらめたところでゴールデンバット2本が増えるわけでもない。ましてや、メシ代が降ってくる訳じゃない。熱海がダメな訳じゃなく、天候がダメになっただけだ。
残りを1本にしてしまう煙草に火をつけて、僕は湿った指で吹かした。
息を吸い込み、大きく吐き出し、まるで雨が上がる儀式のように、土砂降りの空に煙を吐き続けた。


そんなインチキおまじないが効いたか効かずか、雨脚は弱くなってきた。
時刻は、22時前。時間は間に合う。
それでも一度たたんだ荷物を同じ場所で開くのは悔しくなり、僕は橋の向こうにある、煙草屋の軒先へ移動する事にした。
桜橋を渡る時、この界隈の案内でもしているのか橋の上にずっと立っていた年配の女性が、じっと僕を見ていた。情けなかった。


弱くなったとはいえ、まだ本降りに近い雨の中、しまうのに手間取ってすっかり濡れたギターにあきらめもつき、さっきとさほど変わらない軒先で、僕はもう濡れながらでも唄う事にした。
橋の上のおばあちゃんは道行く人に声をかけたり話し込んだりしながら、やっぱりじっと僕を見ている。
別に、構いはしない。だって僕は旅唄い。変わり者の最上級に位置する変わり者の中の変わり者なんだから。


ヤケクソという、もはや感心しない唄い始めにはなったが逆に気は楽になり、さっきまで貧相だったはずの表情も柔らかくなった気がした。
心なしか、たまに通る人達も、笑顔で見ていくようだ。
誰だって不意打ちの土砂降りに遭えば、心の余裕はなくなる。雨が上がれば、笑顔は戻る。大袈裟だけど、急な土砂降りを避ける術があるって事は、すごく幸福な事なんだと思った。




ちなみに僕の名前の 『幸(みゆき=しあわせ)』 という漢字は、象形文字だと聞いた事がある。
幸せに形があるのか! と驚いたが、文字の発祥を聞いて更に驚いた。
昔の罪人は木製の手かせをされてたらしいんだけど、それが外れて逃げられる状態を 『幸』 という文字にしたんだとか。
大金持ちでもなく、健康とか名誉でもなく、看守の不手際でまんまと逃げおおせた罪人こそが『幸せ』だなんて、なんて僕にピッタリな名前なんだろう。




ちょっと話がそれたけど、気の持ちようは色んな事の見え方を大きく変える。



橋の上のおばあちゃんから千円もらって嬉しくなっただけなんだけど。


そう、おばあちゃんの話をしよう。

おばあちゃんは、いつも橋の上に立ってるらしい。
何をする、とかは聞かなかった。
でも、道行く夜の方々と親しげに挨拶したり話し込んだり、観光地図片手のカップルにも優しく話しかけたり、街の生き字引みたいな存在なんだと思った。
そのおばあちゃんにして
「28年間ここにいるけど、唄ってる人なんか見た事ない」
と、なんらかのお墨付きを頂いたのは相当に嬉しかった。やっぱり僕は変わり者だな。


がんばってねぇ、と、年配の人特有の柔らかさと大らかさで励まされて、僕は明日も熱海で唄いたくなった。
だって常々、ポン引きに気に入られればその街では唄っていけると思っている僕が、町の生き字引に応援を受けたのだ。これは、何よりも強い味方じゃないか。
それにしても、ついさっきあきらめてた奴が、なんて現金なものだろう。


生き字引のおばあちゃんを味方につけると強かった。
後は雨も上がるし人も来た。
東京からの観光という若い男の子達に唄っていれば、煙草を買出しに来たお店のお姉ちゃんにもお釣りを頂く。
かと思えば、その子が話したのか噂は噂を呼び、あちこちからお店のマスターや重厚な顔つきのバーテンダーや、熱海の業界人が続々と集まり、恥ずかしいくらいの拍手も頂いた。
自販機前というのは意外に小銭が入りそうで入らないというジンクスも打ち砕かれ、熱海ではその夜、小銭王になった気分だった。「お釣りある?」とふざけて言うお客さんに、いつもなら「あいにく」と答えるのに、自信満々で「ありますよ」と答えた。ありますよ、と言われると向こうも出さなきゃ格好がつかず、「ああ、こまかいのあった」なんて苦笑いしながら更に小銭は増えた。


申し訳なかったのが、販売機の売り上げを回収に来た煙草屋のお母さんにまで、ニコニコと笑顔で対応された事。
いやあ、熱海。素敵な町だ。


今も手元で使っているのだが、面白いものも頂いた。
やっぱり煙草を買いに来たおば・・・お姉さん(夜の街なんで、そこはまあ)がずっと座り込んで、心配したお店の人が迎えに来たんだけど、そのお店の方が 


「これ使った方がいいわよ」 と、ザルをくれた。


僕はいつもギターケースを内側にして地味な帽子でも置いて唄ってるんだけど、投げ銭入れはこうあるべし! といったアドバイス付きで、きっとお店で天ぷらでも出してそうなザルを頂いたのだ。
僕はその後、そのザルに日付を入れて使っている。ただし根が小心者なので、帽子の中にこっそり入れて使用させてもらっているが。



いつまでも帰らないGカップのオッパイお姉ちゃんや、「すみません、迷惑かけて」と、そのオッパイ姉ちゃんと今夜知り合ったばかりなのに気を使ってくれるお姉さんがようやくで帰ると、桜橋のおばあちゃんも今夜はおしまいらしい。
どうだったぁ? と尋ねるおばあちゃんに、お蔭様で、と笑顔を返すと、いつの間にか空に星が見えていた。



すっかり濡れたギターを拭きながら詫び、荷物をまとめ、近くにコンビニを探した。
公衆電話から、明日の金沢行きを友人に報告するためだ。
投げ銭は一万円を少し超え、しかもほとんどが硬貨であった。ポケットがすごい事になっている。
僕はなるだけたくさんの五円玉と一円玉を組み合わせて缶ビールを買い、飲みながら電話をかけた。
どこにいるやらの旅唄いが明日のライブに間に合うらしいと聞き、彼も嬉しそうだった。


しかし、実際はとんでもない事態になり、結局ライブには間に合わなかった。
金沢に着いたのは、ライブも終わって打ち上げのさなかであり、電話の彼は渋々僕を迎えに来る事になるのだった。
まあ、それはそれで、その折に話そう。



何にせよ、熱海の夜は終わり、僕は午前中に歩いた急斜面を大荷物で歩いて上り、途中のバス停のベンチでパンをかじり、汗だくで駅前に辿り着いた。
充足感と安堵感と疲れが、最高に心地良かった。
あっという間の眠りから覚め、生垣の横の石のベンチで起き出した僕は、そろそろ開くはずの改札へ向かった。
今日は100円コーヒーで時間を潰している暇などない。




朝5時の改札はそろそろ開く頃で、駅員がひとり、夏休みの貧乏旅行っぽい高校生二人と交わしていた会話が面白かったので、書いておこう。


「熱海って・・・何県なんですか」

「静岡です」

(心配そうな高校生二人)静岡だって・・・どうしよう」



いったい、どんな旅だったのか未だに気になる。
駅員も何が問題なのか量りかねて、やけにクールだったのが更に面白かった。
しかし、その駅員。
僕が「金沢まで」と言った時には

「金沢って・・・北陸のですか?」


と、驚きを隠せない様子だった。普通列車だったし。

そういや熱海から金沢って、日本列島の裏表みたいな位置関係で、鉄道旅行に詳しい人なら聞いただけで、乗継やらの面倒くささにウンザリだろう。もっともマニアになれば、それが楽しいのだろうけど。




そんな訳で熱海の夜は終わった。

あれから三年が経とうとしてるけれど、まだ再訪は果たせていない。

桜橋のあばあちゃんと、食えなかった名物のまご茶が気になっている。









Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=37.405074,138.867188&spn=16.275379,28.125&z=5

長門

苦手な路上演奏シチュエーションというものが、ある。

基本、人前で唄うのに緊張は付き物なんだけれど、中でも特に、昼間の路上演奏は苦手だ。
風貌や表情が隠せないから。


その前年、九州をひと周りした僕は、日本海に憧れた。
始点を下関に設定して東へ、そして北へと上がる旅を選んだ。
結局は途中の舞鶴から毎度の小樽へ出航してしまい、逆に函館から南下するルートへと変わったんだけど。。

昨年から九州に残しっぱなしだったろくでなしの連れと熊本で近況を語った僕は、小倉へ移動して一晩を過ごし、翌日には下関へ到着していた。
下関の駅裏にある小さな地下道は九州へ渡るたびに何度も唄わせてもらっていたので、そこまでの緊張もなく演奏を終えた。下関の心温まるエピソードや苦い経験は、また次に話そう。


なんにしても、山口県は瀬戸内側しか詳しくなかった僕(それでも大して知ってる訳じゃない)。
『日本海』という、オーソドックスな旅の憧れではあるけれど、その漠然としたイメージに惑い、下関から後の移動地はまったく決めていなかった。
要は、地名が浮かばないのだ。
よって 『駅の路線図を見てなんとなく決める』 という方法に頼った。それが、長門だった。
余談だけれど、この適当な目的地の決定方法は、この時に確立されて以来、今に続くものだ。


下関には近場にネットカフェもなさそうで、小倉に戻るのも癪だ。それにせっかく昼間に稼いだ手持ちをあまり減らしたくなかったため、電話帳で探した『幡生(はたぶ)』という、申し訳ないが聞いたこともない地名のネットカフェを選んで夜を越す事にした。下関から一駅だった。たった一駅でも、逆方向に進むよりはいい。

見も知らぬ町で一晩を過ごし、また翌日、見も知らぬ町へと電車で向かう旅唄い。
なんとまあ、金さえあれば優雅な事だ。
ただし昨夜のネットカフェと移動費の3000円ほどを出費しただけで無一文に近い僕は優雅じゃないので、真っ先に長門市駅付近で唄う場所を考えなければならない。


それにしても長門市・・・。

なんてのどかで、柔らかい日差しの海の町・・・

童謡詩人・金子みすゞの生まれた町・・・


とか今でこそ言ってるが、駅前をぶらりと歩き、そこかしこに貼られているふっくらとした大人しそうなお嬢さんのポスターやら何やらを見るまで、僕はまったく気付いてなかった。
長門なんて言わず仙崎と言ってくれれば、かまぼこと共に思い出したのにな。


長門市の駅は小高い山手にあり、見下ろせば箱庭のような町の向こうには海が広がっていた。
右手を舐めるように仙崎の町が伸び、それは青海島へと繋がる。
なんだか、僕が唄うなんてためらうほどの微笑ましい町だった。
しばらく僕は、左右に広がりながらキラキラと光る紺色の海を眺めてボケーっとしていた。
どうにも夜に唄える下世話な場所もなさそうなので、ボケーッとしてる時間なんてないはずなのに。

そろそろ日の傾く気配を見せる駅前で相変わらずボケーッとしてると、純朴そうな女子中学生の群れがやってきた。
とても苦手な状況に無視を決めていると 「なんか、やるんですか~」 とはにかみながら尋ねられ、更に苦手な状況になった。
「いや・・・まあ・・・暗くなったらね」 なんて要領を得ない返事をすると、残念そうに帰って行った。

若い女の子は僕の歌など聴かないと思い込んでた僕は、つい、そんな返事しか出来なかった。
本当は、そんな事なかったのかも知れない。
せっかくだし照れずに、なんかやりゃあ良かったな・・・と遅い後悔に後押しされ、南口へ向かう連絡通路の角に座り、唄ってみた。仰々しく看板など出せなかったが、やってみた。
だけどもう、タイミングを逃したのか人っ子一人来なかった。



肩を落として南口に自販機でも探していると、15~17の男の子が二人、やってきた。
ニコニコと何か話しかけたそうにしてるが、どうにも言葉がない。
やがて、2人の小声の会話から日本人でない事を察した僕は、ケースからギターを出して、勝手に唄った。
彼らの全然知らない歌だろうけれど。

2曲唄い、男の子の一人が缶コーヒーを、もう1人が100円玉1枚と見知らぬ国のコインをくれた。
元気に走り去る彼らに手を振り、別れた。素敵な笑顔だった。


もう数曲唄ってみようと思っていると、また一人、測量作業の男性が手を休めてやってきた。
珍しいね~、と笑う男性は、尾崎豊の卒業をリクエストして一緒に唄った。

色々と話をして、次はどこに行くの? と尋ねる男性に、とりあえず北へ、と答えれば、オレンジ色に染まり始めた駅舎からは家路を急ぐ人達がまばらに出てくる。
男性は礼を言うと荷物をまとめに車へと戻った。
僕もギターをしまい、最終がなくならないうちに改札へと向かう。
男性にもらった500円で、萩に行こうと決めた。





駅前で唄うことは、本当に数少ない。
皆が、行き場を持っているからこそ出入りするこの場所で、僕だけが行き場を持たない事が寂しくなったりしてしまうから。
公園で、母親の迎えをずっと待っている子供みたいな気分だ。
ひとり、またひとりと減っていく友達に手を振り、僕が待つのは始発の電車だ。



 気になるのはいつも始発と最終だけで

 野良猫ばかりのこの道で朝を待つ



いつしか、そんな歌を作ったけれど、その晩に辿り着いた萩の町は夜の8時で真っ暗になってしまう街で、文字通りに始発を待つ事になる。






Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=37.405074,138.867188&spn=16.275379,28.125&z=5