米子

「だんだん」といえば出雲地方の言葉で「ありがとう」なのだが
それを知ったのは出雲より先に米子だった。
思えば朝日町通りの住人は、しばしばこの言葉を使っていた。

米子市は鳥取県でも西の端。
安来節で有名な島根県安来市と隣接しているため、言葉も良く似ている。
出雲弁も米子弁も、元を正せば『雲伯(うんぱく)方言』と呼ぶらしく、兄弟のようなものだ。
だからJR駅前の広場は「だんだん広場」だし、市内を走るバスも「だんだんバス」だった。
だんだんバスは米子の中心部を回る巡回バスで、どこまで乗っても一律150円。出会った当初は100円じゃなかったか。



米子初体験の僕に軽妙な 「だんだん!」 を教えてくれたのは、タケさんだった(マナカナさんでは、なかった)。

タケさんは朝日町ビルの目の前にふてぶてしく陣取ってギターで唄う僕の、米子での最初のファンだった。応援してくれる人々を『ファン』と呼ぶなら、この人ほど心強い応援者もいなかったろう。
とにかく音楽・・・ギターが大好きで、愛用のストラトキャスターをアンプ付きでスナックに置いている強者だ。
まずこの街でそんな人に惚れられた僕は、一発で米子が好きになった。


以前『佐賀』の項で書いたロクデナシがこの町の生まれだったが

「お前が行きたい言うならええが、終わっとるで、あの町は」

と事前に吹き込まれていた流言も、あっさり吹き飛んだ。
それくらい愛してもらった街だし、お世話になり続けた。
そのうち通い始める出雲とのコンボで移動なんかした日には、次の目的地を決めるより、ここに1ヶ月くらい滞在したい気持ちになったものだ。
実際、長い時にはホテル暮らしを重ねながら3週間は滞在した。
稼げそうで稼げなかった熊本3週間とは訳が違う。ただし熊本は熊本で楽しかったので、それだけは書いておこう。
今回は、とにかく米子だ。

タケさんは、ビルの1階にあるスナック『優香』さんの常連だった。
いや。間違えた。その辺にあるスナックや居酒屋、そこかしこの常連だった様に思う。

『けい子』さんも常連だったし、そのうちオーナーさんに声を掛けられて行く事になるナントカという外国人パブも、やっぱり知っていた。

どんな街でも、どんな酒飲みでもそうあるように、飲み方の決まった人は次第と、同じ雰囲気の店に落ち着いていくものなのだろう。タケさんの紹介してくれるお店は、決まって僕に優しかった。


タケさんは、21時くらいから朝日町ビルの前で唄い始める僕を見つけると、まずは嬉しそうに腰を下ろした。
そして1曲2曲聴き終えるとチップを渡し

「じゃあ、終わったらおいで。早めに」

と、ニコニコしながら後ろのお店に消えていくのだ。
そんなタケさんが開いたドア越しに1度だけ振り返って口にするセリフが

「だんだん!」

だった。
こちらの方こそ「だんだん!」なのにと、いつか自分も「だんだん!」を使ってみようと思うのだが
広島に10年以上いても自分の事を「ワシ」と呼べない僕に、よその方言はハードルが高かった。
結局、1度も使った事がない。





家へ泊めてもらったり、迎えに来てもらったり、年末にはスナックの忘年会に紛れ込ませてもらって温泉まで浸からせてもらい、僕の胸にタケさんへの「だんだん!」は溢れるのだが、なかなかタイミングはなかった。
そのくせ、僕はそのうちにタケさんを困らせてしまう。


広島での活動も雲行きが怪しくなったとある夏。
ここは一旦、山陰に抜けて態勢を立て直そうかと思い、そして僕は昨夜までの稼ぎを全部つぎ込んで高速バスに乗った。
目指すは、米子である。
バス代を取ってしまえば、後は缶ビールも買えない手持ちだったけれど、何の不安もなかった。
案の定で広島の1週間の稼ぎを1晩で取り戻し、僕は祝杯がてら背面のスナックのドアを開けた。

「タケさん今日、来てないのよ~」

とママがビールを注いでくれる。
僕は、珍しく一人きりのカウンターでボーっと飲んでいた。
飲んでいるうちに、素朴な疑問が浮かんだ。

なんでオレ、ここに落ち着かないんだろう。。。

情けない話、僕の旅は女に振り回される事が多いのだが、その時もそうだった。
別に、米子に彼女がいる訳じゃない。
広島だった。
広島に

「唄ってちゃんと生活出来るんだったら、証拠を見せてよ」

と言う女がいた。
女というのは半ば付き合ってる子であり、証拠というのは部屋でも借りてみてよ、という事だった。
その子は訳あって、住んでいる広島の家を離れたがっていたからだ。

別に・・・ここでいいんじゃないか。
僕の胸に、そんな想いが込み上げた。


翌日、彼女にそれを提案してみた。
第一声

「え~!! どこそれ!? 都会なの?」

だった。
思えば僕も、よくもまあそんな女と付き合いかけていたものだ。
九州最大都市のど真ん中で生活していたその子にとって、どう考えても米子は田舎だ。

「都会って都会じゃないけど・・・住みやすいと思うよ」

とにかく彼女は、部屋はどうなの? 借りられるの? と、そればかりを気にして電話は終わった。
僕はもう一度、公衆電話に小銭を投げ込みながらタケさんの番号をダイヤルしていた。


昨夜は仕事がねえ、と詫びる様に現れたタケさんに僕も頭を下げ、まずはとお店に入った。

ちょっと相談がありまして、と切り出す僕にタケさんは、僕なんかに何か出来るならねえ、と笑顔を崩さなかった。
が、話し始めてものの1分で、いつもニコやかなタケさんの相好は崩れた。

僕の相談は、単刀直入だった。
実家を追われてる様な自分には、今は一人で部屋を借りられない。生活の方は二束のわらじでも頑張ってみるので、なんとか最初だけでも保証に立ってもらえないかという、なんともまあ世間知らずで自分勝手な相談だった。

なかなか、タケさんの返事は出ない。
困った様に、う~ん・・・とか、そうだねえ・・・、と繰り返すばかりで、酒ばかりが減った。
僕はようやくそこで、つまらない事をした自分に気付いた。
せっかくの応援者が、たった今、離れていこうとしている。
僕は自分を甘く見積もっていたのだ。
タケさんの応援に答えられる自分だと、路上演奏なんかでチップを稼いでるだけの風来坊のくせに、一人前の男でも相談するに忍びない事を、簡単に口に出してしまった。

「いやね・・・」

ママがこっちの話に気付かないフリをしている中、タケさんが、ようやく重い口を開いた。

「ミユキちゃんの事を信用してない訳じゃないんだけど、だから逆にね、う~ん・・・」

タケさんは先を言いにくそうにしている。
僕はもう、この話をあきらめて、早く謝りたかった。
すみません、こんな生活力の無い人間がこんなお願いして、申し訳ありませんでしたと。
でも、言い出せなかった。タケさんの人の好さに、まだなんとか賭けようとしている、みっともない自分がいた。
タケさんが、長い長い「う~ん・・・」の後を続けた。


「ミユキちゃんに、そうやって終わって欲しくないんだよねえ」


僕は、タケさんの言う『終わり』がなんだか分からず、しばらく黙り込むしかなかった。
ただ、そこからのタケさんは言葉が滑らかで沈黙は続かなかった。

「僕みたいにねえ、やっぱり生活に追われると、出来なくなるからねえ・・・ミユキちゃんの魅力は、日本中を庭みたいに旅して、そして生活してるところだし・・・」

タケさんはそれから音楽を止めていった人の話や、自分だってその一人だという事や、とにかく応援したいんだよねえ、という話を延々と続けた。
沈黙の間に減らした酒の分だけ瞼を重そうにしながら、一生懸命に旅唄いの魅力を語ってくれた。


タケさんは、別に僕を信用してない訳じゃなかったのだ。
旅唄いの魅力を、そして背負っている責任を、僕よりも理解していたに過ぎないのだ。
皆が出来ない事をやっている。それは皆の憧れであり、受けた応援は責任だと。


「すみませんでした・・・」

と僕が謝る頃には、タケさんはいつもの調子に戻ろうと一生懸命で「まあ、飲みましょ!」と僕のグラスを満たした。


その時から僕は、落ち着く場所を持たなくても良いと思い始めた。
一生、風来坊の生活でも、貫いてみようと思った。


すべてを潔くあきらめて飲み干したグラスを見て、タケさんも安心したのか、また酒が注がれる。
そして一言。

「でもまあ、やっぱりこういう事はね! ミユキちゃんを信じてない訳じゃないんだけどね!」


なんだ。やっぱり信用は無かったんだな(笑)。



























Googleマイマップ「西高東低~南高北低」http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.697456,133.456421&spn=1.98958,3.510132&z=8

茨木 その2

前回に引き続き、大阪府は茨木市の話をしよう。


池上朝士と書いて 『いけがみ ともひと』
今回の主役は、彼だ。


断っておくが、実名だ。
この場に名を出す事は、彼に知らせていない。
「それはマナーとしていけないんじゃないか」と言われてしまうと、その通りだとしか答えられない。
しかし、今となっては彼に知らせる術もないのだ。
彼は茨木での最も親しい友人であったにも関わらず、僕は連絡を途絶えさせてしまったから。

もしかしたら連絡が・・という思いを込め、あえて実名にさせてもらった。



大阪に移り1週間ほど。
まだまだ慣れない土地で、僕は路上演奏者が多い阪急電車の駅付近を避けて、ガード下なんかで唄っていた。
小樽の花園銀座に近いところもあるが、なんせベッドタウン。どうにも通行人の目が痛々しい。
駅から離れた交差点に、いいな、と思う場所はあったのだが、路上駐輪が多くて無理そうだった。
違法なんだから力ずくで動かせばいいものを・・・今も昔も、僕は肝の小さい男だ。

何を唄っていたかは思い出せないが、とにかく引っ切り無しに真上を通る電車のゴーゴーという音に負けない様、がなっていた。
自分でも思うくらいに、路上で唄い始めた初期の頃の様に尖った唄い方だった。
そんなふうだから誰も立ち止まりはせず、僕は思う存分に落ち込めた。

本気で落ち込む事は、僕の歌にとって決して悪いことじゃない。
それは時に、立ち上がる力になってくれる。


電車との格闘も次第に僕へ軍配が上がり始める23時頃、彼は通りかかった。
もう思い出せる人も少ないと思うが、今ではラーメン店をプロデュースしている河相我聞(かあい がもん)によく似た、甘い顔のお兄ちゃんだった。
ついでに、手にしていたのは缶ビールだった。

「すごい所で唄ってますね」

最初の言葉は、多分そんなだったと思う。
普段なら「すごい」というのが皮肉に聞こえて イラッ とくる言葉なんだけど、彼がその顔で言うと許せた。 
しかもそれは皮肉でもなんでもなく「僕の声はすごくその場に合ってると」いう解説付きだったので、完全に許せた。というより嬉しかった。

それは何も、手にしていた袋から

「よかったら・・」

と、缶ビールを分けてくれたからじゃあない。


ギターが好きで、長渕剛や山崎まさよしを好むという彼は、近場のビール工場で働いてるらしい。
黒ラベルで有名な、あのメーカーだ。

「明日、一緒にやってもいいですか?」

と聞かれたので、時間と場所を確認して別れた。
その日から彼と僕は、1週間に4日は一緒に唄うという、半ばユニット的な仲間になるのだった。

翌日。
例の違法駐輪が多い富士銀行の角で待ち合わせていたのだが、彼はすでに姿を現していた。
僕は、デートの待ち合わせに遅れた彼氏みたいに恐縮して挨拶した。
それにしても1人が2人になるというのは気持ちの上でも大きな違いで、僕らは自転車を押しのけて、早速自分達のスペースを確保した。

彼の持っていたギターがタカミネだったかギブソンだったかすら忘れたのだが、良いギターだった。
分かりもしないのに『良いギター』なんて無責任な話だが、申し訳ない、僕は本当にモノに対して無頓着なんだ。
無頓着過ぎて、ギターを盗まれた事もある程だ。
ギターを弾く人間として、決して褒められた事じゃない。

そんな話は自分への戒めとしてさておき、彼のギターテクニックはすごかった。
半分、呼ばなきゃ良かったと思った程に。
なのに気さくな彼は、大雑把な僕のギターの弾き方を

『かっこいい』

なんて言ってくれるものだから、僕の中で池上株は上昇を続けるのだ。

最初の頃は、毎晩を唄った。
そんな時、1日ごとに馴れ合うのが路上ミュージシャンの常なのだが、僕らの場合は違った。
僕の方が一方的に馴れた。
彼は年上の僕にどう振舞っていいか分からない様子で、ある程度の距離を置いていた。
なのに僕の事を呼ぶときは二人称も使わず

「自分さあ・・」

とか呼んでいた。
関西では多い呼びかけだが、心の中では「へ~、なんか近くて遠い奴だな」なんて感じていたのも確かだ。


そうそう。

彼との路上演奏の中で培われて今に続く
『酒を飲みながら唄う』
という、画期的な事が当然になったのも、この時からだ。

僕らはビールがなくなると、すぐに買出しに行った。
冬になると、缶の底をペコッと押して1分間でお燗が出来るお酒を飲み始めたのもこの頃からだ。
路上演奏が終わった後に実入りの多い時は、斜向かいのバーに飲みに行った。

こう書くと、何だか飲んでばかりの様だが、歌もしっかり唄っていた。
長渕剛、しかもデビュー間もない長渕剛の曲が共通点だった僕らは、よくハモっていた。
その当時にハモり、しかも長渕剛をハモるなんて異例の事だったので、評判は良かった。
気を良くした僕らは、次第にライバルの多い阪急茨木市駅にまで足を伸ばしていった。

阪急茨木市の駅は広く、ホームが2階にあった。
東西(南北と呼んでも差し支えない方角だったが)へ抜ける連絡通路は上にも下にもあり、利用者はとりあえず中央の改札を抜ければ問題ない。
だからこそ、その中央の改札を通った乗客のほとんどが降りてくるエスカレーターの、まさに目の前で唄う僕らは、とんでもない奴らだったろう。

僕は今とほとんど変わらぬ枯れた感じのがなり声で、池上は逆に、顔の如く甘くて高い声だった。
それが相まって絶妙にハーモニーを作れた時は、それはもう酒が進んだ(やっぱ酒か)。
たまに駅の方から苦情が出たが、出る時と出ない時の違いが分からないので、やっぱり唄っていた。
屋台のラーメンで温まったり、早抜けした後に他のパンクミュージシャンの所に顔を出したり、時には向こうが顔を出してリクエストをくれたり、僕の路上演奏生活の中で、最も社交的な時代だった。
僕はそこで『オザキの人』になり、池上もまた『ナガブチの人』になった。


そんな風に、彼との路上演奏は楽しかった。
前回出のKちゃんも僕と池上との路上を好きだったし、池上は彼女を紹介してくれたり、路上演奏の他でも親しさが増していた。
池上は僕の作った『置き去りの夏』という曲が大好きで、彼の勤めるビール工場のお祭りで唄ってくれたらしい。
その切なくて甘いメロディーは、僕より彼に似合っていると思った。

楽しい時間ばかりが過ぎれば良かったが、彼と別れる日も近かった。
ものすごく悔しいのは、その時の事をよく思い出せない事だ。
理由は恐らく、池上の転勤だったと思う。滋賀じゃなかったろうか。近江八幡の話をした気もする。
それから彼はその直前に、可愛い彼女と結婚していた気もする。
親しいとはいえ、僕は披露宴に顔を出していない。
だから余計に混乱するのだ。
彼の披露宴に行けなかったのは、僕が広島に戻ったからなのか、それともただ金のない僕を二人が呼べなかったのか、はたまた彼が転勤した後だったのか。。

思い出せないのは、僕の自己防衛かも知れない。
その頃Kちゃんに『ギターかアタシか』と選択を迫られたり、今も続く心の変調を感じ始めた頃だったから。
思い出したくない事が、大阪に集まってしまうのだ。


とにかく、覚えている事だけを書こう。
むしろ、それだけで十分だ。


小奇麗な彼の部屋に招かれた日。
彼女さんもいた。結婚していたなら、奥さんだ。
持て成しは、きっと彼の好きな餃子鍋だったろう。

池上は、僕に(Kちゃんも含めて)贈り物をくれた。
『サミクラウス』という、サンタクロースの名を持つベルギーのビールだった。

ギネスブックに載るほどアルコール度数の強い黒ビールで、4本あったろうか、それをくれた。
保存して熟成させればもっと度数が上がり美味しくなるというそのビールを1本開け、皆で味わってみた。
強い甘さと苦さが口に広がり、僕達は美味いとも言えず「まだ若いのかな」と笑ってみた。
そして

「10年後に、また一緒に飲めたらいいね」

という言葉で、僕らは別れた。

それきりだ。



一度、手紙をもらった事があるので、連絡先は教えたのだろう。
僕が年賀状なり、書いたのか。はたまた、電話か。


手紙の内容は、こんな風だった。

~ 今度、友達の結婚式で唄います。是非、幸さんに曲を書いて欲しいのです。


  長渕の『乾杯』を超える奴でお願いします 



「自分さあ・・」 とか呼んでた奴が、物を頼む時に限って『幸さん』だなんて!
しかも名曲『乾杯』を超えろだなんて!

そう苦笑いしながらも、嬉しかったので引き受けた。
カセットテープと歌詞を一緒に送った。

そして今度こそ、これきりだ。


10年後に飲もうと言ったビールは、もう僕の手元にはない。

Kちゃんも、いない。

長いような短いような歌の旅の中で、沢山の人達と出会っては別れた。
だけどいつも、再会の方法はあったはずだ。
なのにすべてを置き去りにしてあらゆる町を飛び出してきた僕に、もうその方法はない。
たまには本気で自分を恨めばいいのに、それさえしない。

池上朝士と書いて 「いけがみ ともひと」

今も変わらず、黒ラベルを飲んでるだろうか。

僕と同じく歳を重ねてオヤジと呼べる様になった今も、時々、ギター片手にその辺で唄っているだろうか。

約束のビールはなくなってしまったが、もしも会えたら、たまに出る愛知訛りで

「自分さあ、老けたが~」

なんて言ってくれるだろうか。





約束のビールはないけれど、僕は今夜、君を思い出しながら、黒ラベルを飲んでいる。
サミクラウスよりも甘くて苦い、遠い思い出の味がするよ。




Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=34.894942,135.572662&spn=0.267513,0.438766&z=11