佐賀

結果として九州全県を周ったのが、2002年の秋から2003年の春までだった。
「当てのない」というのが「目的地のない」という意味であれば、これほど当てのなかった旅もない。
目的はあったが、目的地はなかった。


9月から福岡に渡り、九州で年越しになる事はおおよそ予想が付いていた。
予想外だったのは、途中から二人旅なんていう厄介に巻き込まれた事だ。

コージが広島の歓楽街である流川に居付いてから、どれくらいが経っていたんだろう。

僕は未だかつて、ここまで僕よりだらしない奴を見た事がなかった。

酒さえ飲めればいい。
女だったら誰でもいい。
歌はひどいわギターもひどい、ついでに僕より歯がない。牙しか残ってない。

人間、見た目ではないと言うが、内面を下回るひどい外面だった。
ギターは自前のペイント(マーカーだ、奴はマーカーでペイントしてた)で塗りつぶした日章旗デザイン
そしてこれまたマジックで書かれた 『天上天下唯我独尊』 の文字。
僕と同い年で32歳にもなる男が、天下に轟く悪名の広島暴走族でも躊躇するような事をやってのけ、当の本人のいでたちと言えば、今時マンガの泥棒でも生やさない様な伸びきったヒゲに、最後に床屋さんに行ったのはいつかしらというボーボーの髪(これは僕も言えた義理じゃない)。鋲を打った黒いレザージャケットに迷彩パンツで、追加するならおチビさんだった。

そいつがヘビメタから演歌までを中途半端に網羅したレパートリーで唄うんだから、そりゃあひどいモノだった。
何より、それでも投げ銭の入るこの日本がすごいと言うしかない。

そんなひどい奴とつるんだのは、僕もまた、ダメ人間だったからだろう。
前歯が全部なくなった口元でニヤッと笑うときのアイツの顔を、結局のところ僕は好きだったんだ。
思えば僕もコージも、お互い宿無し流れ者の気楽さと寂しさは共通の物だった。
すべてがポジティブに能天気なコージも、いちいち面倒くさい思考回路の僕も、単純に人との接点なしで生きていけるほどには強くなかった。
風来坊は、元来が寂しがり屋だ。そしてそれは、決して良い事じゃないと思っている。

繁華街で、気付けば朝までギターを鳴らして唄ってる様な連中だから、知り合う人間もピンからキリまでだ。更に困った事に、キリが8割だ。
いつもギャアギャアと大声で、わざとレパートリーにない歌をリクエストしては帰るお姉ちゃん。いつも歌なんかそっちのけで、頼んでもないギター講座を開いては去っていくお父さん。
いつも、久しぶり~、と数人でやってきて、今から行くキャバクラを思案して通り行く若者たち。
アンタらアタシが面倒見てやろうか? と意味ありげに微笑んでは座り込み、数分後、探し回っていた彼氏に見つかって、いや~! と叫びながら車に乗せられていくベロベロのお姉さん(面倒見てもらわずに良かった)。
いつも同じ歌をリクエストするけど、歌なんかそっちのけで、メシ食ってるか? と千円札を入れていくお父さん。
いつまでもいつまでも、僕たちの仲間になった気で、朝まで座り込んで唄う面倒くさい兄ちゃん。

そんなピンキリの来客の中、これこそ困った事なんだが、僕もコージも、そんな人達が大好きだったのだ。つまらない事に巻き込まれては

「たいぎぃ(広島弁で、面倒くさい・疲れたの意)
を連発するコージだったが、誰かの来訪を心から嫌がった事がない。

わざわざ、という行動に弱いのだ。
そして何より、言葉を投げあう『会話』ってヤツに、それこそまるで無人島で何十年も過ごした人間みたいにいつも飢えまくっていたのだから。

知らない場所では、誰しも早く知り合いが欲しい。
それがいずれ生き難さに繋がる事は、知っているはずなのに。
一期一会などどこ吹く風で、コージも、そして僕も、広島での知り合いは増えていった。

いつも通りすがりに「お疲れさん」と、『サッポロ生搾り』を渡しながら通り行く僕を、コージは当初

『お疲れさん』と呼んでいたらしい。

すでに広島に知り合いも出来たコージが「そろそろ『お疲れさん』が来るで」と時計を見ながら話していたんだと、後で聞いた。

何の事はない。
僕自身が、あいつに近づいたのだ。
僕が今でもあいつを責めたり出来ないのはここだ。
寂しがり屋は、僕だ。

それを確信したのが、佐賀だった。

雨や稼ぎや色々で、やがてどちらからともなく合流する事の多くなった僕とコージだった。
その晩俺は「明日から九州に行く」と告げ、最後の宴がどこまで続いたのかは覚えてない。
でも、はっきりと言えるのは、僕はその時点ではコージを誘っていなかった。
それが二人旅になったのは、決して寂しさからじゃなかった。

福岡~佐賀~長崎~熊本~鹿児島、と移動した11月。
僕は、久しぶりの広島へ電話をかけた。
宮崎へ移動する前日だった。
流川でお世話になっていた母さん・・・ちょっと歳を召したスナックのママさんだったが、僕は「母さん」と呼んでいた。

「いつでもええけ、飲みにきんさい」と、顔を出す度に、タダで飲ませてもらっていたお店だ。
そこに、なんとなく気になっていた事を確認しようと電話をかけたのだ。

虫の知らせなんて気の利いたものじゃないが、電話をかけた事は大正解だった。
久しぶりやね~元気しとるね~、と母さんは上機嫌だったが、僕がコージの事を尋ねると、すぐに声が曇った。

「困っとるんよ~。来るたんびに、お店のボトル1本なくなるし・・・なんか、最近は唄っとらんのじゃないかねぇ。」

九州へ渡る数日前、僕がコージを母さんの所に連れて行ったせいだ。
僕は

「すぐ戻ります」

と告げ、明日の宮崎の稼ぎで、なんとしてでも広島行きを決めようと思った。
僕が紹介したヤツのせいで、人を困らせるのは嫌だ。

日豊本線でたどり着いた宮崎は、なんとも僕に温かい街だった。
お陰で広島までの移動費を超え、また再び九州へ戻れるほどの稼ぎになった。
良い出会いや誘いもあり、これが急ぐ身でなければ・・・と、コージを恨んだ。


高速バスで広島に戻った僕がコージを探すのは、至って簡単だった。
新天地公園はホームレスその他、身分不詳の連中の坩堝で、ヤツは上位に君臨するダメ人間だったからだ。

「ああ。コーちゃんなら、そのビルの2階で寝とると思うよ」

僕が薄暗いエレベーターで上がると、ダンボールが敷き詰められた廊下に、でかい引きずり荷物とギターケースと、コージが転がっていた。
違法もここまでくれば、拍手したい気持ちだ(ここはそのうち僕も世話になり、宴会の声がでか過ぎてバレて即退去命令が出た)。

コージの第一声は、思いもかけなかった。

「おぉ・・・どしたん・・・」

僕は、てっきりいつものハイテンションで、なんしょん~! 帰ったがかや! と、酒臭くわめきたてると思っていたのだ。

まずは挨拶代わりの生絞りで乾杯して、近況より何より、母さんが困っている事を告げた。
するとコージにも色々・・・ホームレスにしか見えない三十路の歌唄いだってロマンスはあるもので、実は広島で付き合っていた女の子とどうだこうだ・・・とあるようで、僕が機を伺って

「俺と、九州に行ってみんか?」

と尋ねると

「ワシも、潮時じゃと思っとったんじゃ・・・」

なんて返事が返ってきた。
とりあえず当てもなく流れて来た広島だけど、別に未練はないと。

そして僕らは、数日中に九州へ向かおうと決めた。
まずは福岡までの移動費、高速バスの4000円を稼ごうと、唄った。
2日目に大きな稼ぎがあり、タイミングを考えて、明後日に出ようと約束した。

なのに、いよいよ出発前夜だという時に、ヤツは酒代で金を減らし、自分の移動費を確保できなかった。

腹も立つが、なんとなくは読めていた結果。
僕は珍しく銀行口座なんかに入れておいたとっておきの1万と数千円を引き出し(後にも先にも、そこに自らお金を入れた事はない)、とにかく、この夜が明けたら出よう、と言い聞かせた。
言い聞かせても、ミユキの金があるからいいや~、なんて手持ちを減らされるのは嫌なので、朝まで一緒にいた。

翌日は福岡へ移動。
酒の残った頭でウトウトしていれば、バスなんてあっという間だった。
福岡は初めてらしいコージだったが、ここは僕に似て観光なんかまったく興味のないやつ。
バスを降りてすぐに駅前のでっかいサウナに誘ったら、ホイホイと付いてきた。
コージも僕も、汚れきっていた。
まずは汗も垢も泥も流してすっきりしたい。
何より、二人旅の初日。ここは形だけでもキッチリとしたいじゃないか。

なのに、キッチリなんて言った舌の根も乾かぬうちに、風呂上りのビールでニヤける二人。


僕も僕で、せっかく宮崎で稼いだ金だったけれど、下ろしてしまうと後は諦めも早いもの。
早々に宴会を始めてしまったのだ。
コージもコージで 気を良くしてしまい

「これがお前の言う旅唄いなら、ワシも考えてみてええが」


なんて、まだ初日の本番も終わらぬうちから調子に乗る始末。
しかし九州はそんなに甘くなかった。
何より、世間が甘くないのだから。


とにかく、こいつと周った九州・・・福岡~長崎~熊本~大分と、思い出すだけで悔しさ満開のエピソードばかりなのである。
長崎ではいきなり、着いた途端にバスから降りられなかった。

飲み過ぎのせいだ。
運転手と二人、必死になって抱き起こし、引きずり降ろした。

僕も経験済みの熊本は、相変わらず良い感じだった。
コージもなかなかの人気者になってくれたが、最終日に目の前の鰻屋さんが親切に下さった鰻丼を、「大好物」と言い切った挙句、半分しか食べられなかった。これも、二日酔いのせいだ。

年越しは長崎でやろうかと言ったのは、僕だった。
龍踊りで有名な長崎くんちが開かれる諏訪神社下の小さな地下道は、飲み屋街では難しい三ヶ日を過ごすのにちょうど良い気がしたのだ。
ほとんど毎日サウナに泊まれるほど調子の良かった街でも、長くなると

「まだ旅に出ないの?」

と、次第に胡散臭く見られてしまうからだ。
タビタビ詐欺みたいに思われてしまうんだろう。

年末の長崎は、思ったほど稼ぎも良くなかった。
それでもギリギリ、屋根つきの場所で夜は越せた。
じゃなきゃ南国とはいえ、冬には雪も降る長崎で、無事に過ごす事は出来なかったはずだ。
長崎で雑居ビルに潜り込んだりはしてないから、金があればサウナで、なければ24時間の店で朝を待っていた。
意外に昔の事を覚えている僕も、長崎の事になると記憶が曖昧だ。
もしかするとすごく大変だった事を、記憶が否定したがっているのかも知れない。
氷点下の夜、雑居ビルの廊下で衣類をありったけ身にまとって朝を待った日々は、いつも思い出したくないから。

そう。それよりコージだ。
コージは特に長崎を気に入る事もなかったようだ。
昼の金の使い方を次第に口うるさく言い始めた事や、いちいち、ここはなんとかで、これは・・・と、捨てたはずの地元を説明する僕にも嫌悪感を隠せない感じだった。

新年も明けて数日。

「別行動しようや」

言い出したのは、僕だった。
発端は、二人一組で分ける稼ぎの少なさだった。
どうしても、寒い冬には人通りも少なく、こればかりはどこにいても大変なのだ。

最初は、コージを広島から連れ出すためだけの九州移動だった。
目的は、達成した。
後はコージが個人的に気に入った熊本へ戻ってもいい。
が、いつまでも付き添う理由はない。
何よりも僕が、コージの路上での振る舞いのだらしなさに嫌気が差したのだ。

その日の足で僕は、どうでも良さそうな顔で納得したコージを長崎に残し、同じ県内の佐世保へ移動した。
佐世保は初体験だった僕は、命からがらといった感じで唄い終えた。

次に久留米へ行き、荒っぽいオヤジに絡まれかけたりしながらも、なんとか唄った。
降り出した雨を避けて転がり込んだサウナで一息ついてビールを飲んでいると、演歌が流れていた。
氷雨だった。
嫌な事に、コージのヘッタクソな、風情も情緒もないダミ声の氷雨を思い出した。

翌日は、佐賀へ向かった。
僕はそろそろ、本州へ戻るつもりでいたのだ。

佐賀は、昨年の秋口に、楽しく唄えた街だった。
寒い真冬とはいえ、白山の飲み屋街は長崎より活気付いて見えた。
飲み屋街にデン! と構える饅頭屋さんの付近に歌唄いがひしめいていたけれど、僕は集団に紛れては稼げないので、まずは他所を当たった。

正月空けて以来、ようやく大台の稼ぎが出た僕は、ひとまずギターをしまった。
それから饅頭屋のビルのあたりで唄う若い子に声をかけて、ダラダラと話していた。
コンビニで酒を買って、グダグダとしゃべり続け、僕もお兄さんと旅してみたいな~、なんて言わせて調子に乗って酔っ払い、目が覚めたら誰もいなかった。
置いてけぼりは、するのも、なるのも、本当に僕の得意技らしい。

白々と明け始める空の下、凍えながら駅へ歩き、長崎に置き去りの馬鹿野郎に電話をした。
僕と同じホームレスのくせに、プリペイドの携帯電話なんか持ちやがって。
あの馬鹿は、この寒さの中で生き延びているんだろうか。

電話は、コール5つくらいで繋がった。
眠そうな声が聞こえる。
福岡の、いつもホームレスの寝てる広場で一緒に寝てるらしい。
馬鹿か。死ぬぞ。ていうか、よく福岡まで動いたもんだ。


朝一の電車で博多へ向かい、僕は地下鉄にも乗らずに天神へ歩いた。
真っ白な息を吐きながらたどり着いた広場のベンチで、ひときわ大きな荷物を置いて寝転がるヤツがいる。

「おい」

僕の声に、のっそりと影が起き上がった。
周囲のホームレスが、ちらりと様子を伺っている。

僕は寝ぼけたままのコージに言った。

「サウナ行くぞ。相棒」

僕とコージは真冬の寒さを忘れるみたいに、ガンガンに汗をかき、二人でビールを空けた。
次に僕が愛想を尽かす小倉までは、また二人の旅は続くのだった。






Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
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