福山

福山市は広島県のいちばん東の端っこで、岡山県・笠岡市と隣接している。
ぶっちゃけ、電車移動なら広島市内に行くより岡山市内の方が近い。
時間で、広島2時間に対して岡山1時間といったところか。

この街で路上演奏が多くなったのは、就職事情だ。
もう、3年前になる。

「旅唄いが就職なんて。プププ、大笑い」
と言われても別に構わない。


またしても女が理由だからだ。
例によって

「きちんと仕事してよ!」

みたいな事を言った女に、はいはい分かりましたと行動に出たのだ。

長い広島生活ではとにかくミュージシャンを働かせたがる連中が多かった。

流川の大御所・ひげGに言わせれば

「ミュージシャンなんじゃけえ、歌わせてくれえや」

である。

だけど誘いを断るのが苦手な僕は、その度に妙な実力を発揮して、一時期だけは大人しく人並みに働いたものだ。

東広島で

お前は、そんな事してちゃいかん」 (今思えば、いらん世話だな)
と拾われては安月給の店長候補に仕立て上げられ、胡町で唄ってはいつの間にかスタンド(広島では、スナックをそう呼ぶ)の従業員になり、そしてそのうち辞めて、いくつもの店を危機に陥れたものだった。
路上の歌唄いに

「こいつなら安い給料でも文句なく働くだろう」

なんて考えで仕事をさせるから、そうなる。
働いたからには、僕だって人並みの給料を望むのだ。
まあ、辞め方にはいつも問題があったが。


その時は、とある有名メーカーの工場勤務だった。
しかも、不本意ながら自分が望んでの就職だ。
簡単には辞めない覚悟どころか、これで落ち着いてしまっても仕方がないかもと考えたものだ。

面接もすんなりと終わり、研修2週間でみっちり仕込まれ、まずまず優秀な成績を修めたと思える僕は、しかし予想だにしない場所へと配属が決まった。
それが、福山だった。

え~、福山って遠いじゃん。

そうは思ったが、現状ホームレスの僕には何を断る事も出来ない。
はい喜んで! と、未来は一瞬にして決まった。
そして、12時間勤務の合間に路上へ出る生活が始まった。

当初は彼女絡みもあり、広島市内に足を向けていた。
慣れた場所での演奏が楽だし、何よりも時折は固定ファンも寄ってくれる。
しかし仕事がハードになってくると、それもなかなか出来なくなってきた。
それに、往復4千円近い電車代も痛かった。
毎回、そこまでをトントンに出来る事も少ないからだ。

もとより、飯を食うために唄っていた僕。
それをしなくても飯が食えるようになると、生活リズムは変わった。
個室の与えられた寮の売店では給料天引きの社員カードで好き放題に買い物が出来たし、酒だって煙草だって買えた。
路上の野良犬が牙を失うのに、時間は要らなかった。

唄わなくても、生きてはいける。
いつしか、そんな風にさえ考えるようになった。
物は少なくとも、テレビも冷蔵庫もエアコンも揃った部屋。
たまに誰かとつるんでは飲みに出かけ、タクシーに乗り合わせて帰る。
3勤2休、もしくは2勤3休の恵まれた生活は、だけど心を散漫にするだけだった。

ある日の夕方。
僕は、いつもの寮の売店でビールを買い、ギターを持ち出してグラウンドへ向かった。
グラウンドは、町1個分もある工場敷地を出て、すぐ下手にある。
早朝にはゲートボールに興じる年配の方が見られるけれど、子供も少ない地域なのか、後はほとんど人影を見ない。
そんな誰もいないグラウンドで、久しぶりに声を出してみた。
誰ひとり観客はいなかったけれど、僕はその晩に、ようやく街へと向かう気になった。


福山市内の路上シーンは駅前付近に集中しており、地下道で唄う女の子の声も聞こえていた。
数人の通行人が立ち止まって聴いていた。
余談だけど、その女の子は森恵という名前で、現在は東京で活躍中とか。ただし、彼女との接点は僕にはまったくない。

そんな森恵ちゃんの唄う地下道方面から天満屋デパート側へ横断歩道を渡った場所は、時折ストリートミュージシャンを見かける場所だった。
僕も一時期は唄った事があり、今でも福山に行けば、そこで唄うかもしれない。
しかし夜になると通行人は少なく、路上演奏が珍しかった頃ならまだしも、今では一晩中唄っても、誰も声を掛けてくれない日さえある。

だから、僕の唄いたい場所はやっぱり飲み屋街で、そしてそれは非常に危険地域だった。
広島市内はヤクザこそ多いかも知れないが、表立って幅を利かせている事は少ない。
が、福山は違った。
表立って幅を利かせていた。

演奏場所に選んだのは、御船町の交差点を南に曲がった、飲み屋ビルの並び。
僕が広島で最高のとんこつラーメンを出すと思っている店の隣だった。

そこがだ。

最初は良かった。
非常に良かった。
背面のビルを出入りするお客さんからお店の方から、愛想良くしてもらった。
遅くなり目の前にはタクシーが並ぶ頃、僕はラストに美味しいとんこつラーメンを啜って一日を終えられていた。

それがだ。
ある日を境に、苦情が出る様になった。
後々のためにと、騒音の苦情かと尋ねたが、理由は解り難かった。
無論、警察が苦情の詳細を教えてくれる事は少なく、老年のお巡りさんは、慇懃な態度で

「ここは、いけんのだ」

と言うだけだった。
僕は、じゃあ、といつもの事で場所を変えた。
ビル側が苦情を言ってるなら、それでどうにかなると思った。
数回は、それで良かった。
最初は 「ここじゃ、迷惑になるかな」 と敬遠した飲み屋ビルの下だったが、ビルのお店の方も

「あら、ここじゃ珍しいわね~」

とは言うものの、優しく対応してくれた。
なので、その後もそこで唄ったり、深夜遅くなったら駅前の天満屋前で唄って朝を待っては寮に帰っていた。

なのにだ。
その後も唄う度に注意を受ける様になり、移動した場所でも5分で苦情が来た。
そして、ついに警察の口から最終通告が出たのだ。

「この辺が、どういう所か分かっとるか」
やはり、とは思ったがヤクザのせいだ。

「ヤクザですか」

僕がそう言うと、警察の顔がイライラしたものに変わる。

「それは、俺の口から言えることじゃないけぇ。

とにかく、分かるじゃろ。ここは、そういう事をしたらいけん場所なんじゃ」

もう、確信した。
以前から、違法駐車のパトロールが妙だと思っていたのだ。
僕が最初に唄っていたのは、後から聞けば暴力団事務所の思いっきりそばで、警察はその前をパトロールする度に、ビルの中にいるであろう運転手が出て来るまで5分でも10分でも、しつこく車のナンバーをスピーカーで叫んでいたっけ。
車が動かないなら、さっさと駐禁でもなんでも切ればいいものを、何で親切に呼び続けてるんだと思ったものだ。

僕は、うんざりして、いつもの老警官に言った。

「恐い人が、おるんでしょ」

すると僕が理解したと思ったか、相好が崩れた。

「な、分かったな。もう、ここでは止めてくれぇや」
以上が福山市で感じた、警察と暴力団の馴れ合いだ。


これがたまたま関係者の耳に入ったとして、どんなに国家権力が僕の言い分を否定しても、僕は取り消さない。
お得意の常套手段で、道交法とでも何とでも言えばいいじゃないか。
なんで、回りくどい言い方をする必要があるんだ。
僕は流川での数ヶ月に渡るやり取りも含め(これは、また後日に書こうと思う)、広島の警察が、いちばん信用出来ない。
本拠地として唄ってきただけに、ものすごく悔しい。

路上ミュージシャンは、知らず知らずに迷惑をかけている場合が多々ある。
それは僕も認めていて、苦情の指示には素直に従い、時には折り合いを付けてきている。
だけど、自分らの余計な仕事を増やすなと言わんばかりの警察官には、今でも立ち向かう気構えだ。
広島の警察は、せっかく場所の許可を書面で取ろうが、嫌がらせとしか思えない苦情だけを盾にして、演奏を止めさせていた。
苦情が治まれば、後は見て見ぬふりだ。


嫌な思い出を語ってしまった。
嬉しい事もあったから、それを書こう。


やがて、僕は寮を去る事になる。
体調を崩しがちだった僕は、職場に迷惑をかけ続ける事が嫌で、仕事を辞めた。
たかが派遣の僕に優しかった社員の方にも申し訳はなかったが、旅唄いの生活を、僕は結局のところ変えられなかった。
僕は大量の薬剤に頼らなければ、眠る事もできなくなっていた。
酒にも溺れていた。

荷物をまとめ、会社の常駐の方に近隣の駅まで送ってもらった後、僕は福山市内に向かった。
この街で唄う最後の日だと思った。
所持金は上手い具合に電車代で終わり、真昼間の街で、僕は久しぶりに行き場をなくしていた。
孤独と不安感はあったけれど、不思議と懐かしい気分だった。
この気分こそが、僕の基本だと思えた。

そんな中、どこへ行こうかと立ち尽くしていた僕に声をかける人があった。

僕の本名を呼ぶのは、つい昨日まで一緒に寮にいた、元同僚だった。
班が違うために勤務帯は違ったけれど、度々、体調の悪い僕を気にかけてくれていた男の子だった。

「今夜、唄ってから動こうと思うんだ」

そう笑う僕が、よほど頼りなく見えたのだろうか。
彼は、しばらく無難な会話を続けた後、なぜか財布を出した。

「僕、あんまり歌は聴けませんでしたけど、頑張ってくださいね」

そして、少ないですが、と千円札を一枚手渡してくれた。

「どこかで会えたら、聴かせてください」
僕は上手い言葉も返せず、ただ素直に感謝して別れた。
人通りの少ない天満屋デパートの前でも、今夜は頑張ってみようと心に決めた。
彼には、その後会えていない。いつか本当に会えるだろうか。


最後に、寮での花見の思い出を。

いつもギターケースを抱えてはビールを買ってた僕に、売店のオバちゃんがある日、花見に誘ってくれた。
僕が時々グラウンドで唄ってるのを、仕事帰りに見ていたらしい。

「明日、下のグラウンドで町内の花見があるんよ。
  皆カラオケが好きじゃけぇ、唄ってくれたら喜ぶよ」


寮で暇を持て余してる同僚のH君に声をかけ、僕はその花見に参加した。
下手じゃったら帰れ言うで、と笑うオッチャンに、じゃあ大丈夫ですと答え、飲んでは唄い、唄っては飲んだ。
同僚は、見ず知らずの輪の中に平気で入っていく僕に驚いていたが、そのうち一緒に飲んで笑っていた。
そのうち、どこで嗅ぎつけてきたのか、医者に酒を止められてる年上のSさんが乱入し、気が付けばフェードアウトする様にグラウンドの隅で吐いていたっけ。
あの人は何をしに来たん、と失笑されるSさんを眺めながら、花見は楽しくお開きになった。

「秋には祭りがあるけえ、唄うてくれたら、皆また喜ぶよ」
そう言われて微笑んだ僕だったが、秋にはもう、いなくなっていた。


グラウンドの桜は、誰も見てくれなくとも、今年も見事に咲くのだろう。
でも、人間が美しく咲くには、見てくれる誰かを必要とするのかも知れない。
見つめたり、見つめられたりしながら、美しく咲き、人を咲かせる人間でありたい。







Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=34.484999,133.369904&spn=0.000986,0.002132&z=19&iwloc=0004685178236964629ea

途中下車

最近は、列車旅も少なくなった。


おそらく、当てのない旅というのが少なくなってるからだと思う。


「いついつに」


「どこの街で」

という予定には、高速バスが安くて便利なのだ(※注1)四日市の即興魔人[ひ]などは、夏が巡り来る毎に青春18切符(※注2)で旅に出てるけど。

いろんな兼ね合いがあり、思惑があり、それでも列車の旅は多かった。
今だって都市圏に行けば、何かしらの電車に乗ってる訳だし。

なのに旅唄い。
列車の乗り継ぎを上手にこなすための必須アイテム『時刻表』を、未だに活用しない。
要は、持ち歩いてないのだ。
愛車にまたがり風を切るライダーならば道路地図が欠かせない様に、列車を乗り継いで移動する歌唄いには、ギターとポケットウイスキー(※注3)に時刻表というのは、三種の神器とも言えるだろう。
差し詰め、ギターが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)なら、時刻表は八咫鏡(やたのかがみ)か。
すると、ウイスキーは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)だな。この玉、いちばん使い道が解らんし。

普通の感覚では、列車の乗り継ぎは待ち時間が少ない方が良いのだろう。
何より、目的地に向かう列車でないと意味はなく、その先が続くと思っていたら
「○○線は、ここで終わりです」

なんて羽目には誰も遭いたくないはず。
だけど、ある時期の僕にはそれでも良かったのだ。
僕にとっての列車は、ガタゴトと揺られながら景色を眺めてるうちに、知らない街へ運んでくれる楽しい乗り物でさえあれば良かった。
行き止まりのような駅ならば、そこで唄ってみるもよし、何もなさそうならば、また戻れば良かった。

「47都道府県制覇」といった明快な目的もなく、終わりなんて見えない旅の中で、どんな駅だろうが僕にとってはすべてが途中下車地だった。


という訳で八咫鏡を持たない旅唄いは、出発駅で路線図だけを眺めると、おもむろに列車に乗り込んでいた。
おかげで乗り継ぎ駅で1~2時間も待ったりという事は、ざらにあった。
ひどい時期には200円ぐらいの切符を買っては、何も考えずに電車へ乗り込んでいた。
そういう時に気にしているのは、上りか下りだけ。
そんなだから、時には2駅で降りる羽目になり、時には眠りこけ、更には眠ってるうちに3往復ぐらいして元に戻っていたりもした(※注4)。
あえて数往復を狙っている時もあり

理由は、前日に寝る場所もなく彷徨い、疲れきった身体を癒すためだ。

それから、もうひとつ。

ガラガラの始発に座れたが、やがてラッシュが始まって身動きが取れない場合。

荷物が多い旅唄いは、なるべくならラッシュに巻き込まれたくないし、乗降時に迷惑もかけたくない。
僕が今でも路線バスに乗るのを嫌うのは、乗り降りで周囲に迷惑をかけるからなのだ。たまに勘違い野郎が大きいキャリーバッグをこれ見よがしに引きずって、4人掛けの対面席を当然の様に陣取ってる光景を見るが、ああいうのはもう、どうにかして欲しい。

ちょっと、愚痴っぽくなったな。

途中下車は、目的地へ向かうまでの道のりで、文字のごとく途中で寄り道をする事。
焦らず、のんびり、ゆっくり行けばいいよなんて、上辺だけ優しいJ-POP染みた事も言いたくないけど、その旅が、もしも急がないものならば、途中下車もいいだろう。
理由もなく降り立ったのなら、何かあるかもなんて期待しなくていい。
理由を探せたなら、それはそれで素敵。

どこで寄り道をするかは、重要じゃない。
大事な事は、向かうべき方向を見据えている事。
その心が願った寄り道なら、その心に訴えるほどの駅ならば、見知らぬ小さな駅もまた、思い出話ぐらいにはなるだろう。


ずいぶん前、三重県は四日市に向かう途中。
乗り継ぎを失敗して紛れ込んだのは閑散とした駅だったけれど、思いもかけず可愛らしいヒマワリが迎えてくれた。
それだけで、昨夜の寝不足は吹き飛んだっけ。


長い旅の中。 渋滞さえ楽しむ旅は、途中下車の気分とよく似ている。








注1: 高速バスは安さで勝るものがない代わり、とんでもない早朝に目的地で下ろされる。
行き場をなくしてはネットカフェに入り、結局は余計な出費を増やすデメリットもまたある。

注2:僕はもう18歳じゃないからダメだな、なんて思ってたのは遠い昔。
18切符を使ってみたいのは山々だけど、あれは計画性も必要になってくるため、今もまだ使っていない。
春先のヤツが、せめて3週間くらい使えると助かる。

注3:「ポケットのウイスキー空けたら もう一度雪を待とう~」で始まるのは、手塚幸の名曲『西高東低』だが
「普通の人はポケットにウイスキーなんか入れてない」という事もまた、真実。
最近、東京の旅流草一郎のスキットルを奪ったままなので、中に何を入れて返そうか思案中。

注4:山手線でそれをやると、今では規定時間オーバーにより自動改札ではじかれる。
移動目的でなく、先に書いた理由で行き場のないホームレスが延々と眠りこけたり、はたまたエッチな犯罪や鋭利な犯罪目的で乗車してるとみなされるからだろう。
まあ、仕方ないといえば仕方ない。

福井

片町、といえば北陸・金沢市の繁華街。
だけど今回、僕が唄うのはお隣、福井市の片町
その頃ちょっとだけ賢くなった僕は、繁華街の名前だけは事前に調べていた。


人との約束が少しずつ入り始めた頃で、金沢はその次の目的地だった。
数日後にそこで、ある男と落ち合う約束だ。
僕と同じ様に旅を礎に唄い続けている男で、香川のコンテストで僕が見事に負けた男だ。
というか、僕はコンテストそのものに負けていたっけ。
コンテスト中に、投げ銭をせがんでいてはいけないという話。


片町の繁華街入り口のアーチには 『FUKUI KATAMACHI』 と書いてある。
規模と知名度でいけば金沢に及ばないという謙虚さか、はたまた決して勝てない悔しさからだろうか。
ま、おかげで目的地探しには悩まなかった街だ。
それに、僕にはちょうど良い大きさの街だ。

市内を路面電車が走る姿は、やはりどこかで落ち着くものだった。


福井へ流れてきたのは、山陰からじゃなかったかと思う。
そう書いてるうちに、そうだったと確信した。

僕にとっては馴染みの出雲、米子と唄ってるうちはまずまずの調子だった。
「まずまず」なんて書くと語弊があるな。要は自分のモチベーションだ。
そのモチベーションを最低限で保つものが収入でもあるのだが、何より兵庫県の日本海側に突入して処女地が続いたため、その都度テンションのアップダウンが激しかった。
兵庫県の豊岡で唄い出すまでに、どれだけの土地を唄わずに通り過ぎた事か。

耳覚えだけで寄ってみた香住城之崎温泉も、僕が夜通し唄うにはハードルが高かった。

声を張り上げても問題なさそうな場所が見当たらず、正真正銘の無一文で辿り着いた豊岡も、また厳しい立地だった。
その豊岡で、それでも奇跡的に3日ぶりのまとまった収入(4千円ほどだったか)が入ってテンションを上げた僕は、ようやく気分が楽になったものだ。
ただ、楽になったら次は逆にアルコールでテンションが上がってしまった。
テンションの無駄なアップダウンは、とても疲れる。そこが一人旅における、弱点のひとつかも知れない。

降り立ったJR福井駅の前は、すっきりとして見えた。
僕は初めての町を儀式の様にひと眺めして、いつものタウンページで『順化』という地名を確認した。今夜、唄う事になるはずの街だ。それから地図で、そこがさほど遠くない場所である事も確認すると、時間は十二分に残る。


まだ明るい福井の街を、僕は歩いた。
いつもそうする様に、方角だけをなんとなく見当付けて、わざと迂回しながら歩き出した。
駅から左側のうらぶれた商店街で名物のソースカツ丼の店を見つけると、後で食おうかと手持ちを確認した。
それからまた街中をひた歩くと、今度は思いの外に賑やかな通りへと抜けた。
失礼だが、北陸ではまだ金沢と富山でしか唄ってなかった僕は、この賑わいも福井まで南下したら終わっているんじゃないかと勝手に想像していたのだ。それほどに、京都から西の日本海側で食えない思いをしていた。

だから僕は、ギターケースを抱え、キャリーを転がして歩くには不似合いな雑踏の中を、足早に歩き去った。不似合いなのは荷物のせいじゃなく、僕の汚れた風貌だ。
先日、薄ら寒くなってきた9月の夜風に耐えられずに福知山で買った長袖Tシャツも、もうすでに着続けて4日目だった。10月の熊本は汗だくになったが、9月末の日本海側は陽が翳れば冷える。


秋晴れの空を、数羽の鳥が横切る。
アスファルトに塗られた白線の上で、キャリーケースの車輪がガタガタと音を立てる。
僕は、順化、という読み方も分からない町名を目指して歩く。
初めての街で唄う不安が、なのに今日は、心なしか薄れていく。
根拠はなかった。
あるとすれば、それは浮かれ気分で山陰を後にして、一度はボロボロになった事実だけだ。
小学生の男の子からもらった300円で、二日ぶりにカップラーメンを啜った時の侘しさとありがたみだけだ。珍しく一万円札でもポケットに入って、昼間っからビールでも飲んで、公園で古本でも読んでる時には決して感じない、ニュートラルな心の静けさだった。


大方の目安どおりに片町の繁華街入り口へ到達した僕は、いつもなら散策する路地裏を、今日だけは歩かなかった。
夜にならなければ、結局は分からない事だ。
時刻は、午後6時。
まだ陽は翳らず、空に蒼は生きている。

僕は、1枚残した千円札を手に確かめ、駅前へと戻った。
名物・小川のソースかつ丼と、煙草に缶ビール。
それで十分だ。
それで、今夜も唄い出せるだろう。








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※画像転載
http://cityphoto.fc2web.com/machi/18fukui/fukui/fukui.html