いつもの夜

取っ手の外れかかったギターのハードケースを脇に抱え込んで、車輪を軋ませながらキャリーバッグを引いている。これだけの事で、いつも半日分の体力を使うみたいだ。
ようやく涼しくなり始めた9月の終わり、いつものシャッター前へ辿り着いた頃には、Tシャツが汗まみれになってしまった。


僕は、ギターと荷物をその場に転がし、目の前のコンビニへ駆け込む。
大袈裟に頭をペコペコ下げながらタクシーの列を横切り、やたら酔客のたむろする店内へ向かう。
レジには、高校生アルバイトのユウちゃんが、いつもの笑顔で立っている。まだ、午後10時前だ。
僕は手早く発泡酒を1本と紙パックの鬼ころしを2つ手に取ってレジに置くと、ポケットの小銭を探る。


「今からですか?」
と、アルバイトのユウちゃん。


「とりあえず飲んだらね」
と、僕。


「荷物、大丈夫なんですか」
釣り銭を渡しながら、ユウちゃん。


「ん、大丈夫」
と、やっぱり僕。


買ったばかりの発泡酒を開けながら戻ると、当然の様に、そのままのギターと荷物がある。
薄暗いシャッター前で、寂しそうに転がっている。
商売道具と生活品の一切が入ったカバンを道に放り出して場所を離れるなんて、無用心にもほどがあると思う。が、これは治安どうこうの問題ではなくて、僕の願いが込められた行為だった。
いつもの場所で、いつもの僕が唄う街角。
街がそれを望むなら、決してギターはなくならないと。
盗られるなら、むしろ現金の方だった。
ギターケースに10円玉を投げる傍らで500円玉を取って行こうとする、なんとも情けない現場に度々出くわした。僕がケースを外に向けなくなったのは、それからだ。
盗めば目立つギターや荷物を取っていく様な真似は、誰もやらない。


据わりの悪くなった折りたたみの椅子に腰掛けて、僕は誰にも分からない様に、目の前のビルに発泡酒を小さく掲げる。
今夜もここで唄わせてもらうため、ひっそりと、この街に挨拶をする。
譜面台を立て、ギターを取り出し、ハーモニカをひと鳴らしして行うチューニングも、すべてがいつもの夜だ。


夜の街は嘘くさい色付きの灯りに照らされて、それでも本物の人間が歩いている気がする。
タクシーを降りては、これから繰り出す店の算段をしている集団も、携帯電話を睨みながら歩くクラブ帰りの女の子も、もう3回も退屈そうに通り過ぎている派手な車も、誰もが楽しい時間を求めては、まだ夜を終われずにいるみたいだ。
誰もが楽しく過ごす事を夢見ながらも、楽しい場所にも時間にもありつけずに歩き続けているなら、この僕もまた、夜を終われない。


発泡酒はあっという間になくなり、僕は紙パックの清酒にストローを差す。
飲んだくれて唄う人間は、まだまだ古臭い人種をメインに数多くいるいるんだろうが、鬼ころしをステージドリンクにまでしているヤツは、僕くらいだろうか。
昨今じゃあ潔癖な世の中になってしまい、煙草も吸うし酒も飲む様な歌唄いは二流、三流に見られるんだろうけれど、ならば僕は四流以下の歌唄いでいい。街が楽しければ、僕も楽しい。ストリートミュージシャンなど自分勝手に唄っていると勘違いされることも多いが、僕は誰かの楽しさの中にこそ、癒されている。


「じゃあ金はもらうな」
と言われて、時に困るんだけど(笑)。


僕が欲しいお金は、高級車を乗り回す金でも、海外へ遊びに行く金でも、数十万円もするビンテージギターを買う金でもない。
飯を食えて、ほどほどに酒も飲めて、煙草代があって、そして眠りにつく場所があればいい。
それだけの金を欲しがるのは、それでも好きな事をやっている身の上では贅沢なんだろうか。


よく尋ねられる事のひとつに


「幾ら入るの?」


という質問があり、それは 「食べていけるの?」 という心配よりも純粋な興味らしいから、僕個人の話でよければ、ここに書こう。
ピンからキリまでというのが本当に正確な表現で、十数年に及ぶ活動の中で、最高金額ならば10万円に近い事もある。
それを言うと驚きと共に嫌な顔をされるのだが、それは十数年で1回きりの話だ。ゼロ、というのが2割を占める現状の中で、稼働日数で割れば、平均すると1日に3千円くらいじゃないだろうか。
長くなった街では、ほとんどそれくらいに落ち着く。


「それでも、1ヶ月で9万円でしょ」


と、またしても 「悪くないバイト」 の様に言われるが、それは1年365日休み無しが前提で、しかも天候も考慮に入っていない。何よりも、必ず入る給料ではないという感覚がない。ゼロが3日続けば、普通は根性も体力も尽きる。それを 「好きな事をやれている」 で納得するのは僕だけの理屈であり、他人が言う事ではないと思っている。
だから 「好きでやってるんでしょ」 と言われるのが、実は好きではない。


世の中のシステムは、さほど複雑じゃない。仰々しく、理(ことわり)と言ってもいい。どんな仕事も金をもらうには犠牲がある。
僕の分かりやすい犠牲といえば、タダ聴きだ。
タダ、というのは現金のチップに限らず、一言のねぎらいもない事だ。
酒の勢いでリクエストが入る夜の盛り場で、何でもかんでも金を出せなんて野暮な事は言わない。
けれど悲しい事に、散々あれこれ嬉しそうにリクエストしたにも関わらず 「まだまだ勉強不足だな」 と、もっともらしく言い訳をして10円も置かずに立ち去るいい歳をした大人の多い事。
お互いに初対面の人間同士が


「何やってるの」
「唄ってます」
「じゃあ、なんかやってみて」


という会話を経ているのだから、少なくともリクエストは、他人への頼み事だ。
他人に道を尋ねて 「ちょっと、分かりません」 と言われても、誰も 「不親切だ!」 とは怒らない。
まだ 「いくら払えばいいの?」 と聞かれれば 「いえ、気にしないでください」 と返す気持が、僕にはあるのに。
「頑張って」 とか 「よかったよ」 の社交辞令は、自分の気持も明るくすると思うんだけれど。
世間一般の商売じゃないから問題にならないが、寿司屋かラーメン屋でやったら、無銭飲食だ。
そういう人は、まずいラーメンを食ったら金を払わないんだろう。嫌なグルメだ。


最低だなと思うのは、今しがた歌をリクエストした人が 「ありがとう」 と言って財布を出すと、それを遮る人だ。自分の懐が痛む訳でもないのに。
そういう人は決まって


「この人のために、ならないから」


と言うのだが、チップはすごく僕のためになるのだ。だから、本当の事を言えばいいのに、と思う。
「もったいない! そんな金があるなら俺におごれ!」 と言えばいいのに。
ある種類の人間は、自分が得をする事が少なくなると、人が得をする事が悔しくなる。


楽しんだ人が、お礼を言ってくれる。
楽しんだ人が、チップをくれる。


その二つを、僕は差別して考えた事はない。
人によっては、現金というのは失礼だという考えもあり、小銭じゃ格好が付かないと思う人もいる。すごく申し訳なさそうに、空の財布を探っている人もいる。そういう時は、こちらも申し訳ない。だから、次にお会いできた時にでも、と僕は笑う。


何のために唄っているのかは分からない僕にも、誰のために唄えばいいのかを考える事がある。文字の如く、もう会えないかもしれない一期一会を日本中で繰り返し、たくさんの人に応援を受けてきた。
応援は、立ち止まってくれての笑顔であり、酔っ払いが笑いながら投げていく小銭であり、通りすがりの一瞬のうちに掛けられる声であり、大声で歌う僕に嫌な顔もせずに通り過ぎてくれる人々の心であり。


ごく稀に、僕の歌に不相応な大金を置いて行ってくれる人がいる。
それから、道の向こうから走ってきてはお金を入れて 「頑張れよ!」 の一言だけで帰っていく人。
実は、ギターケースに投げられるチップの中で、金額としていちばん多いのが、こういったお金だ。
そういう人に限って、こちらがお礼を言う間もなく去ってしまう。
なんとも、ありがたい人達だ。


こう書くと、やっぱりお金か、思われてしまうだろう。
それでも僕は、唄っても唄っても一銭にもならず飯も食えない日々に、そういった人達への思いで唄い繋ぐ事がある。
そのチップは、僕の歌への正当な評価ではないかも知れない。
ただ、夜の盛り場で唄っては食い繋いできた僕自身の事は、認めてくれているのだ。
大袈裟に言えば、生き様への評価だ。
そう信じる事で、誰も見向きもしない道端でも、幾夜も唄ってこられたのだと思う。




折りたたみ椅子に腰掛けて、ストローで日本酒を飲んでいる僕は、まだ唄い出さない。
午後11時を回って、いつもの着物姿の女性が静かに会釈をして通り過ぎ、いつもの893ナンバーの真っ黒な車が盛大なクラクションで走り過ぎ、隣に立てかけたギターが、不意に夜風で音を奏でる。風雨に打たれ、雪にもやられ、ボロボロの、だけど僕のすべてを見続けてきた、たった1本のフォークギター。


僕は煙草を灰皿に押し付け、ようやくでギターを握る。
街にはまだまだ。声と光が溢れている。


さあ、いつもの夜が始まる。


4 件のコメント:

  1. 「この人のために、ならないから」というのは、オドロキですね。うっそー!と思わず噴き出してしまいました。そんな発言があるんですね。しかし、旅唄いでなくとも、パックのおにころし飲んでる人はあまり見かけません・・。

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  2. >さろ坊
    おひさ!

    おるんよ~、そういう人。
    まあ「僕はお金はもらいません!」って言えば清潔でカッコイイと思ってる迷惑(笑)な歌唄いもおるんやけど。

    鬼ころし…
    飲んでる人は確かに見かけないけど、捨てられた紙パックは時折見かけます。

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  3. この「いつもの夜」が1番好きかもです。
    旅唄いさんは、街の匂いや雰囲気を嗅ぎ取りながら、嗅覚で唄う場所を探している感じがしました。

    ・・・そして、パックの鬼ころしに限らず、唄いながら呑んでる人、初めて見ました(笑)

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  4. >するめさん
    そして記憶をなくす人(爆)。

    飲み屋街に、あってもいい風景だと思ってるんですよね。
    路上唄いって、あった方が治安がいい感じがするんです。

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