東広島

そもそも、旅の定義ってなんだと考えた事があった。
きっかけは

「旅と旅行って違うんですか」

と尋ねられた事だ。
その時はきっと、違うよ違うよ! 旅行は行って帰るだけなんだけど、旅はどこまでも続くんだよ! みたいな 『旅こそ格上発言』 に終始したと思う。
その後、何度もその曖昧な格付けに説得力が欲しくて


・旅は目的が決まってない
 だの
・旅は期間が決まってない
 だの
・旅はお土産目当てじゃないんだぜ

といった根拠の見えない、言ったもん勝ちの定義を捏造していた気もする。
だけどやがて、目的のある旅をしたり、期間限定の旅に出かけたり、お土産がメインになってしまう旅を繰り返し、その捏造定義を自分自身がひっくり返してしまった。
何のことはない。
旅と呼ぶとカッコイイから、僕はそう言ってたに過ぎないのだ。

素直に思い返せば目的がない旅は一度としてなかったし、目的がない旅は、どこかうら寂しい感じもする。
路上で誰かに尋ねられる
「目的はなんなの?」
という質問に上手く答えられない時は、やはり自分自身がいちばん寂しくなる。

正直に話してしまえば、路上で唄う事を継続するのに、旅をしているというバックグラウンドは都合がよかった。旅が目的か歌が目的か、その時々の精神状態で使い分けられたから。
歌を生業にする事も、流れ旅を続ける事も、人の生活を支える根源とするにはあまりにも浮世離れした心細い行為だし、どれだけの旅人やミュージシャンに否定されても、僕の唄い方ではそれを認めざるを得ない。
でも、それで良かった。
浮世離れした自分ならば、他人と比較する物差しもない。
そうする事で、僕は自分を卑下せずに済んでいた。
もちろん、生活ぶりで考えれば、それはとても人の生活と呼べるものじゃなかった。
ホームレスの年配男性に毛布と風邪薬を分けてもらってインフルエンザをやり過ごしたり、救急車で運ばれては入院費を踏み倒すしかなかった事もある。そもそも僕がホームレスだったのだから。

ただし、人の生活は必ず何らかの手応えと共に向上するもので、僕が旅と歌に費やした時間は、そういう意味では間違いなく僕を正しさに導いてきてくれたろう。
正しさは、例えばこうして振り返る痕跡のひとつひとつだ。
生きる事は、誰にとっても痕跡を残してゆく事だろうし、その痕跡を人生と呼ぶのだろう。
曲がりくねった道の先端に、今の自分がいる。
残した痕跡の美しさや醜さは別として、それは紛れもなく人の人生だ。
ならばようやくそこで、思い出を残す旅行と、痕跡を残す旅の違いに辿り着く。
旅の痕跡は、決して文化遺産にイタズラした記念の落書きなんかじゃない。


広島で唄い始めた頃の懐かしい話を書こうと思い、その照れ臭さに、つい話が長くなった。
東広島市、西条という小さな町の話を始めよう。
僕が、日本酒と路上演奏を覚えた町。

家を飛び出しては実家に引き戻されを繰り返して、何度目の東広島だったろう。
イラストレーター志望だった僕は、当時24歳。
唯一と呼んでいい友人のアパートに転がり込み、絵の仕事など皆無に等しい中、居酒屋のアルバイトを続けながら、まだ学生だったその友人と青春の最後の灯火みたいな生活を送っていた。
高校時代にパチンコを教えてあげた(友人曰く、負け方を教わったらしい)はずの僕に、友人はパチスロを教え込んでくれたが、そのうち奇跡的な大勝ちの挙句、僕はメーカーも定かではないギターを勢いで購入していた。遊びとして、友人の詞に曲をつけたりもしていた。
ただ、ギターテクニックに関しては少し弾ける、といったレベルで、路上で演奏などという恐れ多い事も始めてはいなかった。
そのレベルは、実は今も大して変わっていない。

そうこうしている内に友人は大学院卒業も間近となり、僕はアルバイトに時間を割かれ、倦怠期の同棲カップルみたいなすれ違い生活は、無事に就職を決めた友人が広島を去る春に終わった。
僕は勤め先から紹介されたアパートへと移り、気が付けばようやくの事で広島での一人暮らしが始まったのだ。

すでにイラストレーターに見切りを付けていた僕は、次に物書きになりたいと考え始めていた。
どうしてそう、ろくでもないものばかりに憧れるのか自分でも不思議なのだが、ひとつは名前のせいだと思うことにしている。男のクセに 『みゆきちゃん』 なんて名付けられた僕は、自分の事を普通じゃないと思いながら育った。
いつの間にか変わり者と思われる事が楽になり、十代も半ばになると、変わり者なんだから少しぐらい世の中から逸脱しなきゃ、なんて事まで考え始めた。
すでに自分のプロデュースを考え始めていた訳だが、人はそれを 『演じてる』とも言う。役者になろうと思わなくて、本当によかった。

すれ違いが多かったとはいえ、のべ数年を友人と一緒に生活していた僕。元々が大家族で育ったため、一人きりの生活というヤツが苦手だったのだろう。午前から深夜までのバイトが終わると、部屋に帰ってもする事が思いつかなかった。
物書きを目指すなら、何か書けばいいのに。

アルバイトは西条駅前の小さな小料理屋だった。
初めに面接に受かった居酒屋の店長さんが、シフトの少ないウチより良い所を紹介するからと世話してくれた新装開店のお店だった。
西条は数年前から広島大学がキャンパスを移転し始め、街自体が学園都市へと移行を進めていたために、大学生のアルバイトがほとんどだったのだ。だから、週に5日、6時間以上なんて長時間を働ける飲食のバイトはなかった。

店長さんの知り合いという事もあり、あっという間にバイトが決まった駅前の上品な小料理屋さん。
確かに毎日の様に仕事は出来たが、オープン2日前に板前さんが女将さんとケンカして辞めたり、突然 「昼間からの定食も始めるわよ」 と見切り発車でイメチェンを図ったり、そのせいで真昼間から飲んだくれてる社長さんや先生様方が準備中にも関わらずカウンターを占拠したり、支払いの滞っている業者さんへの謝りもすべて日給五千円の僕が任されるという、涙なくしては語れない激動のお店だった。仕込から不慣れな僕は、朝10時出勤で深夜2時終了の仕事をオープンから1か月は続けた。

調理師免許などない僕は板前さん不在のお店で、それでも表向きは板前さんにならざるを得ず、カウンター内で背を伸ばして立っていなければならなかった。
料理のバイトは好きだったが、人と話すのは苦手で居酒屋のホール仕事さえしたくなかった僕には荷が重く、胃の痛い日々は続いた。
それでも女将さんの人望か優しいお客さんも多く、カウンター越しに差しつ差されつ話しているうちに、板前もどきも文字通り板に付き、苦手だった日本酒も美味しく飲める様になった。なってしまった。東広島・西条は、日本三大酒都であり、元来アルコール好きの僕が日本酒色に染まるのに時間はいらなかった。

そうやって、広島での一人暮らしはアルバイトだけで過ぎていった。
女っ気はなかったかといえば、全くなかった。
逆に、女なんか、という真っ暗闇な時代だった。
というのも、17歳から付き合っていた地元の恋人と2年前に別れており、2年も経つのに引きずっていたからだ。

今はただ~ 5年の月日が長すぎた春と言える~だけです~

なんていう名曲があるが、設定だけはあの歌そのままだ。
遠距離にも関わらず連絡も少ない僕の自分勝手さに飽き飽きした恋人が、新しい恋人を作って結婚したというありがちな話なんだけれど、唄い始めた頃の僕は、二十二歳の別れというその曲をリクエストされても絶対に唄わなかった。
冷静になって考えれば愛想を尽かされて当然の男だったのに、別れというのはいつも、自分が被害者なんだろう。
何よりもその彼女の、結婚へのスピードに驚愕したっけ。

だから24~5歳の頃は、今の僕から想像できないほど暗い生活を送っていたのだ。

と思っていたが、それはどうやら僕の思い込みで、友人知人に言わせれば、そんな性格は今の僕から容易に想像出来るらしい。
なんだ、やっぱ暗いんだな。。

そんな根暗な僕が唄い出した理由も、やっぱり暗かった。
(開き直りきれてなくて、なんか嫌だな・・・)


冬だった。
それはそれは寒い夜だった。
瀬戸内といえども東広島は標高差が激しく、冬場は氷点下にだってなる。

つもの小料理屋のバイトを終え、誰かに借りたままの白い自転車で、アパートまでの道のりを僕は走っていた。風はもちろん切るように冷たかったが、1日中のバイトで疲れた身体にはちょうど良かったろう。
珍しく早仕舞いした平日の夜で、帰ったらゆっくりと酒でも飲めればと思っていた。そう思わない夜はなかった。さっさと酔って寝るのが、ひとりきりの僕には楽だったのだ。

岡町通りという飲み屋街は、小さいながらもスタンド(広島では、スナックをそう呼ぶ)や料理屋さんが軒を連ね、楽しそうな声が漏れてきそうだった。
幾つかの店は、女将さんやお客さんに連れて行ってもらった事がある。
いつでも飲みにいらっしゃいね、と誰もが言ってくれていたが、一人で行く事はためらわれた。
どこそこのお店の、という看板を背負えば、好きなお酒も好きな様には飲めなくなってしまう。
コンビニで缶ビールと安いウイスキーでも買って、部屋で酔いつぶれた方が楽だ。
クリスマスの楽しい家庭を窓から覗く不幸な主人公みたいな気持で、僕は飲み屋通りを走り抜けて帰った。

そう。
12月。
毎年、教会のクリスマスの飾りつけやら自宅の飾り付けやらとイベントの準備であっという間に過ぎていたクリスマスが、やってくる。
だけどもう、家を捨てた僕には、目に見えるクリスマスなんてなかった。
恋人もいない。
友達もいなくなった。
この町には、知り合いなんていない。
物書きだなんて口先ばっかりで、実際には夢なんかなかった。
家を飛び出した目的も見失って、アルバイトに追われているだけの生活をごまかすために、その場しのぎの言い訳を続けているだけだ。
僕には何もない。
僕にはもう、何もなかった。

ビールを1本空けただけの、木曜日の夜。
ひとりの部屋で、不意に叫びたくなった。
ただ一人、他愛もなく語りかける事の出来た友人の存在の大きさを思い出す。
僕が恋人との別れに打ちひしがれて長崎から戻った時、何も言わずに朝まで車を走らせてくれた友人。
実は自分だって似たような時期に恋人と別れていたくせに、何ヶ月も後になって笑いながら話してくれた優しい友人。
あいつは、もうこの町にいない。
冗談交じりに歌を作ったギターが、安いケースに包まれて部屋の隅にあるだけだ。
深夜2時前。
僕はギターを抱えて、岡町通りへと歩いた。

飲み屋街といっても、12時を回れば次々とネオンは消えていく小さな街だった。
僕は、道の外れに座り込んだ。
すぐに、コンクリートの冷たさが身体を震わせた。
人気はない。
ギターを出してみる。
錆びた弦の音が、誰もいない道端に重く響いた。
誰もいない。
誰も見ない。
それで良かった。
誰かに話したい事なんてない。
誰かに掛けて欲しい声などない。
僕には、何もないのだ。
ただ、叫びたかった。

久しぶりに手にするギターを、指でかき鳴らした。
それに呼応する様に、遠くで酔っ払いが大声を上げた。
自販機を蹴り飛ばす様な音。
僕は負けたくなかった。
アンタが酔って叫ぶ様に、僕だって叫びたいんだ。
僕は、酔っ払ってなんかいない。
僕は、ひとりだって生きていく。
僕は、変わり者なんだから。
僕は、寂しくなんかない。
ただ、叫びたいだけなんだ。

歌の形など成さないままに、僕はもう好きに叫んでいた。
風が冷たく、指先はすぐにかじかんだ。
弦を殴る右手に痛みが走った。
どこをどう弾いてるのか分からない。
血が流れているのかもしれない。
ならば、それでもいい。
血を流して唄うなんて、なんて僕らしいんだと思った。

やがて吐く息が真っ白に変わり、力尽きる様に僕はギターを置いた。
寒さに両手がしびれて、ただただ痛かった。
うなだれて、肩で息をついて、そしてまた嘘をついた事を悔やんだ。
ひとりで叫ぶ声は、何ひとつ僕を楽にしなかったからだ。

ひとりは、いやだ。

ひとりは、いやだ。

 コツン、と音がした。
目の前だ。
うなだれていた僕は、ゆっくりと目を上げて息を呑んだ。
が、途端に身体が竦んでしまった。
薄明かりのビルを背後に、黒い陰がひとつ、フラフラと揺れながら突っ立っていたからだ。しかも、やけに足元が覚束ない。さっきの、自販機を蹴り飛ばしては叫んでいた酔っ払いだろうか。
僕は、その人影の腰から上を見上げることが出来ず、しばらく無言で固まっていた。
僕も自動販売機の様に蹴り飛ばされるかと思っていたが、やがて影は、ふらつく足取りのまま駅の方へと消えて行った。

何事もなくホッと息をついて安心した僕は、気が付けば道の上に白っぽい缶ジュースがあるのを見つけた。さっきの酔っ払いが置いていったものだろうか。

恐る恐る手を伸ばして握ったそれは、とても温かだった。
やけに幼稚なウシの絵と、カタカナで『ミルクセーキ』という文字が書いてあった。
凍った様に冷たい手のひらには、じんわりと、少しずつ温かさが広がっていく。
途端に、僕の瞼が情けないくらいに震え始めた。
この街でひとりきりになって、心も、身体も、ようやく温かいものに触れた気がした。
5年間も付き合った彼女さえ、僕の叫び声を聞きながら平然と消えて行ったというのに・・・。

泣いても泣いても涙は止まず、ミルクセーキはいつまでも温かかった。
さっきは恐くて顔を上げられなかった自分が、バカに思えた。

僕は、何を恨んでいるのだろう。
僕は、何を思い違えているんだろう。
この町で生きてゆくのなら、こんな事じゃいけない。
人を、信じよう。
裏切るより裏切られる方が良いなんてとても言えないけれど、裏切られる事はいつも悲しいけれど、疑ってひとりになるよりは、きっとましだ。
じゃあ僕は、人を信じるしか生きてゆく方法はないじゃないか。

ひとりは、やっぱりいやだ。


もう今年で40歳を迎えた僕が、冬場になると自動販売機をじっと見つめる事がある。
田舎町で時々、似たような得体の知れないミルクセーキを見かけるけれども、あの甘い温もりはどうしても見つからない。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」

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