秋田

 久し振りに更新を思い立ったのは、秋田の知人が新潟を訪ねてくれたからに他ならない。
 現在、令和元年の水無月だ。なんという放置状態だったろう。ただ、そのおかげで秋田での記憶が呼びさまされたのも確か。十七年ぶりの記憶を呼び起こしてパソコンへ向かっている。

 今を去ること2003年。青函フェリーで北海道を脱出し、青森は弘前で奇跡を起こし(ブログ未出)、秋田へと移動していた。何の予備知識もなく駅前に降り立ち、寂しい通りを見つめながら、

(飲み屋街ないなあ)

 と呟いたのは覚えている。
 それもそのはず、秋田の飲み屋街は駅前ではなく駅から西へ800メートルほどの川向こうだったのだ。そしてそれを探し当てたのは僕の旅唄いの嗅覚……と言うよりは暇だからだ。暇に任せて歩いていたら飲み屋街に出た。

 さて、その頃の僕はネットで知り合った大阪のお姉ちゃんとの約束である、

『富山の街を見て来て欲しい』

 という言葉に縛られていた。何が何でもと縛りつけられていた。なんでも、亡くなった父親の故郷だったらしい。なのでそこまでの日本海側はすっ飛ばすつもりでいた。弘前で二万五千円も稼いでいた僕は、それくらいすっ飛ばせると思っていた。
 そんな感じなので日暮れを待って出直した大町でも、

(こんなもんだろう)

 と周囲を見渡し、何の根拠もなく一軒のビル前へ腰を下ろしていた。大通りだし人は歩くだろうと思っていた。今、思い出しても前日の弘前で日曜宿泊を決め込んでいたから月曜だったのは確かだ。

 とりあえず必勝アイテムの鬼ころしを二つ用意し、譜面を用意し、その頃から一曲目に決めていた辻仁成の『サボテンの心』という曲で唄い始めた。
 暇を持て余していたので、時刻はまだ午後八時台だったろう。が、まばらな通行人は胡散臭げに眺めてゆくだけだった。その頃は看板を出していたので、ギターケースに立てた

『広島の旅唄い・手塚幸です!!』

 さえ目にしてくれればと念じながら小一時間、唄い続けた。が、入ったのは腰の曲がったおばあちゃんが入れてくれた五十円のみで、一向に客足は止まらない。それどころか避けて通ってゆく。

 これはもう深夜帯の酔客に賭けるしかないかと歌をパラパラ繋ぎ、気が付けば零時になっていた。酔客の帰宅ラッシュさえなかった。気を落とした僕は、秋田で唄った証だけを胸に川反通りを撤退した。トボトボと歩く空の下、小雨が降っていた。
 駅前にはインターネットカフェの文字もあったし、弘前の稼ぎで一泊は出来る。そんな言葉でごまかしそうになる気持ちを奮い立たせたのは旅唄いの意地だったろう。
 駅前で一軒の居酒屋を睨み、大荷物を抱え、

(ここで唄えなかったら秋田の思い出はゼロに等しい)

 そんなことを考えて引き戸を開けた。途端に威勢よくかけられる「いらっしゃい!」の声。久しく聞いていなかった、人の温もりの溢れる声だった。
 僕は「一人なんですが」と恐縮しながらカウンターへ座った。三つ離れた席では二人連れの客が談笑していた。僕は瓶ビールをもらい、注文もそこそこに笑顔の印象的な店主に切り出そうと思った。ここで演奏させてもらえないかと。

 が、僕はついにその言葉を口に出せなかった。なぜなら、

「兄っちゃ流しでねぁの? マスター尾崎豊大好ぎんだんて、何が唄ってけでよ」
 ~多分そんな感じ~

 驚いたことにお客さんがそのセリフを口にしたのだ。口ごもる僕に、「よかったら唄って。一杯奢るよ」とマスターも笑顔を見せる。
 僕は呆然とする間もなく、急いでギターを出した。マスターのリクエストで『15の夜』を唄い、今度はお客さんのリクエストで『卒業』も唄った。路上で感じられなかった手応えを遅ればせながら胸に、それから旅の話や歌の話でカウンターごと盛り上がった。
 結局、飲んだビールも酒も串焼きも一銭も払わず、二人連れからは千五百円のチップと、マスターからはパック入り2リットル入りの日本酒をもらった。

「また秋田来たらね」

 と笑顔のマスターに見送られ、気づけば足取りは酔っ払いのそれになっていた。
 すぐそばの二階にあったネットカフェは入ってみるとまるで普通のオフィスで、事務机を区切るパーテーションだけが空しく据えてあった。


 果たしてこれで眠れるだろうかと思った僕だったが、気づかぬうちに寝オチして、目が覚めたら床の上だった。床の上、視線の先にはマスターにもらった日本酒があった。




Googleマイマップ 『西高東低』『南高北低』
https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1TvObQeP4k4h_yz9t14wHEmDw6q8&ll=39.90993004029227%2C140.244366671875&z=8

豊岡

もう何年前だろう。


路上唄いも板についてきて、知らない町にも果敢に挑戦し始めた頃だ。まだまだ2000年の初頭だろう。2004年(2005か?)の香川でのストリートミュージシャンコンテストにもまだ参加していなかった頃だ。
季節はそう、暑かったことを覚えている。暑い時期は恐ろしい。収入がなくてもその辺に転がって夜を過ごせるのだから。いまいちハングリーさに欠ける。


恐らくそれは2003年の秋口だ。ネットで知り合った大阪のお姉ちゃんとやり取りを始めていた頃なので間違いないはずだ。
書きながら思い出していくと、その頃僕は本州の日本海側を下関より北上していた。最終的には北海道を目指していた。


山口では飲み屋街で唄えなかった下関。昼間にのどかな駅裏で唄っていた長門。夜は繁華街が真っ暗になってどうしようもなくなった萩、と調子が悪かった。
その後、島根入りしてようやく稼ぎらしい稼ぎの出来た益田市。それから数年にわたって第三のホームグラウンドになった島根の出雲市と、旅唄いもだんだん調子にのり始めていた。


鳥取ではこれまたホームグラウンドだった米子に続き、初めて足を向けた鳥取市では地元の流しのオジちゃんに厳しい声を掛けられながら、最終的にはスナックで飲んでいた。


そんな感じの山陰旅が終わり、未踏の地である兵庫県の日本海側を歩み始めたのである。もちろん事前調査なしのぶっつけ本番だ。


移動は手持ちと相談しながら小刻みに始まった。有名な城崎温泉の駅で途中下車するもインスピレーションに訴えるものがなく、次は香住という、長崎生まれの僕には聞き覚えのない街。しかし駅の雰囲気を見てなんとなく降り立ったが、そこは見事な漁村だった。漁村が悪い訳ではないのだが、街中にあやしい看板の一つも見えない。ただ、唯一というかその収穫が、このブログのトップ画になっている、今はなき餘部鉄橋だ。その絶景が見られただけでもよしとしよう。


そして無駄な移動資金を費やして、所持金も200円ほどになり、
「ここがダメなら万歳だ」
と降り立ったのが豊岡だった。豊岡という脳内地名検索は出来なったものの、駅周辺にある案内板から、コウノトリの里として有名な街だということが分かった。それからなぜだかカバンも有名だった。
この頃の僕の旅スタイルは、手持ちと相談しながら行けるところまで行く、という潔くも無計画な手段をとっていた。なので新しい町に着いた時にはスッカラカンというのが多かった。そしてそれはそのまま自分の首を絞めていた。「世の中に飲み屋街のない町などあるものか」と思っていたのだ。


果たして豊岡は飲み屋街がなかった……。
なかったわけでもないのだが、それは市役所の通りを挟んだ一角のみで、周囲には民家ばかりだったのだ。これはさすがに参った。


なのでここは出直そう。


と思い、駅の立体連絡通路もあるし、そこで今からの移動費を千円くらい稼げばいいやと甘いことを考えて実際にそうした。したところ、まったく反応はなかった。
時刻は午後五時くらいで、家路をたどる人々がいくらかはいなかった訳でもない。なのに、
「広島の旅唄い・手塚幸」
と書き記した看板も見入る人がいる訳でもなく素通りで、精魂尽きた僕はペットボトルの水を飲み干して深くため息を吐いた。どうにも計画性のなさが露呈していた。


そこへだ――。
一度これは仕切り直して夜間帯の人出を待とうと思っていたところへ、不意にランドセルを背負った小学生がテクテクと近寄ってきて、聡明そうなメガネの奥を瞬かせて言った。

「ボク、これだけしか持ってないんです」

と、取り出した財布からギターケースへ小銭を入れ、

「もっとあればなあ。もっといっぱいあげられるのになあ」

さも申し訳なさそうにそうこぼしたのだ。
これには僕も自分の不甲斐なさを噛みしめ、さっきのため息を飲み込むように笑顔を作って答えた。

「そんなことないよ。すごく助かるから。何にも出来ないけどお礼に唄うから」

そして、なるべく明るい曲を選んで、それでもたぶん尾崎豊を唄った気がする。

「ありがとうございました。僕、今から塾なんで行ってきます。頑張ってください」

そしてペコリと頭を下げ、少年は連絡通路の階段へと向かった。
僕は三百円の小銭をありがたく頂き、早速駅の売店で発泡酒とカップヌードルを買った。
さっさと次の街へ向かいたいなどと思っていた心を戒め、一期一会で辿り着いたこの町に何か残したくなったのだ。


夜を待ち、昼間に諦めかけていた飲み屋ビルへ向かうと、下調べ通り向かいには民家が広がっていた。挫けそうな心に鞭をふるい、僕はさらにビルの奥地へと入り込む。
果たして、そこにはわずかながら小路の入り組んだビル街の中に、ギターケースを広げられそうなスペースがあった。これ以上他の場所を探すよりはと、午後九時になった豊岡の町で、僕は二度目のギターを取り出す。もしも苦情が来ればそれで終わりだ。その前に何としてでも結果を出したい。


覚悟を決めたものの、狭いビルの裏口に街灯もなく佇んだ姿は通行人を驚かせはしたが、まったく実入りに繋がらなかった。だからといってやめる訳にはいかない。手持ちは百円もないのだから。
せめて千円札二枚、いや、一枚でも入れば明日の動きに繋げられる。そう思い、苦情に怯えながら唄っていると、

「おお、めずらしいな。流しがおるやないか」

立ち止まったのは背の低い白髪の紳士で、眼鏡の奥は笑っていた。

「広島から旅してます。よろしかったら一曲唄いましょうか」
「ほうか。じゃあ、神田川やってくれ」

そうして神田川を唄い終えると、紳士は嬉しそうに拍手をくださり、そしてそのままビルへ向かった。投げ銭は、なしだった。
軽く落ち込むもファーストコンタクトは無事に終えたので、すぐさま次に歌を選んではギターを構えていると、

「あ、ホンマにいた!」

老紳士の去ったビルの方から、黒いドレスの女性が走って来る。そして、

「さっきの人がね、お店で唄わんかって誘ってんねんけど」

僕は究極に研ぎ澄まされた嗅覚で、これは金の匂いがする(酒の匂いもする)と読み、あっという間にその場をかたして女性の告げた店へと向かった。


その後の話は予想通りだ。
僕は次に向かうことになる大阪行きの移動費を手に入れた。人生初の豊岡に、頭の中の白地図に、小さく色が乗った。

午前零時過ぎの駅の連絡通路は涼しい風が吹き抜け、安どのため息はやがて安らかな寝息へと変わるのだった。


 
写真は香住の漁村にて――

 
 
※Googleマップへのリンクは、利用法を思い出すまで待っててください(泣
 
 

新潟便り




前回の投稿から4年半。私はいったい何をしていたんでしょう(SNSばっかり)。

では、落ち葉の舞う新潟路上よりお送りしましょう。


ここ6~7年を過ごさせて頂いている新潟市。それも路上で使用させてもらっている『大竹座(だいちくざ)ビル』が、今年になって免震工事のため改築中。よってこの半年は仮の唄い場になってる感のある手塚幸です。

思えば旅唄いの最中、一年ぶりに向かった唄い場が様変わりしていることは多かったです。それが続くと、「俺が唄った場所は全部潰れてしまうのではないか」という、盟友の旅流草一郎と同じ危惧を胸に抱いたりしてしまいます。まあ、全ては時の流れの中にあるんでしょうけどね。

とにかくここのところは半分物書きになってしまっておりまして、各地を回る「旅唄い」とはかけ離れた生活ぶりです。
なので全国に数人いると思われる手塚幸ファンの方の中でもこのサイトくらい(あとはファビィのブログ)しか見ていない方は、是非Facebookにご連絡を。生きてます。メアドはずっと変わらず 

tezukamiyuki@gmail.com

でございます。


このブログ、本当に久し振り過ぎて編集方法から思い出し思い出しやってますので、リハビリのためにも、年内に何か投下したいと思います。
長らく不在にしておりまして申し訳ございません。

手塚幸でした。


2017年11月29日
 

新発田 ~近況から追憶へ

三月も残りわずか。列島のあちこちで桜が咲いているらしい。
現在、執筆中の新潟でも、そろそろ夜間の路上演奏が寒さとの戦いにならず済んでいる。ヨシノ桜の開花予想は、4月の7日あたりらしい。
そんななか、昨日ふと感じた春の訪れは

冬の間ずっとキッチンで固形化していたオリーブオイルが、サラリと流れ出た事

だった。
水温む~ とは春の季語だが、まさかオリーブオイルで春を感じるなんて、もこみち君でも知らない体験だろう。
それにしてもまあ生活感にあふれ、旅唄いっぷりがどんどん消え失せてゆく手塚幸。




早や6年が過ぎようとしている新潟での生活。
そろそろ、この愛する新潟の話を書こうかと思う。



新潟県内に初めて訪れたのは、忘れもしない2003年の秋口だ。
以前に書いた函館http://tabiutai.blogspot.jp/2010/03/blog-post_12.html五稜郭での演奏翌日に青森へと渡った僕は、弘前~秋田~酒田~鶴岡と移動して、新潟へ入った。ほぼ、海岸線の旅である。

前日までの雨雲を吹き飛ばしてくれた日本海は、今になって思えばらしくない青空で新潟入りを祝福してくれた。今では鉛色の空(by桑名シオン)が新潟のデフォだと思っている。
この街の人間は本当に、青空を畏怖し崇拝しているみたいだ。
「日照時間でいくと東京と大差ないんですよ」なんていうソーラーパネル設置推進派の言葉は、どうにも実感できない。

新発田市の話をしよう。

鶴岡からの順路で考えれば、まずは村上市が新潟県の入口という事になるのだが、当時の僕には新発田以外に考えられなかった。
その秋、三回目の小樽へと旅していた僕には、ずっと気になっていた地名があったのだ。それが、新発田だ。
舞鶴~小樽間の航路しか使っていなかった僕には、フェリーの船内(現在地を示す案内板)で見かける新発田という奇妙な文字並びの地名がいたく記憶に残っていた。それは紛れもなく高校野球で見聞きした、新発田農業の影響にほかならない。

日本をまったく知らない旅唄いの僕は、その頃から「なんとなく聞いたことのある土地や駅名で降りてしまう」癖があったし、弘前で3万円近く稼いだ資金も残りわずかだったため、降り立てばそこは新発田だった。
そしてそこには


驚くほど何もなかった(笑)


日本海沿岸の町にありがちな光景だった。それは山口県は長門の時から知っていた。日本海の町はいつだって、見事なまでにのどかなのだ。
駅前から海に向かう道(脳内地図がそう告げていた)は商店街だったが、かつてそうであったろう賑わいもセピアの彼方へと消え去り、そこにはシャッターという哀しい暖簾ばかりが降りているだけだった。

僕は「あいたたた~!」を通り越して「アイヤ~! ココ何モナイアルネ!」になりそうな心の声を騙しながら、落ち着きを取り戻すため駅舎に隣接したJRコンビニでおにぎりでも買って缶ビールを一杯やると


手持ちもなくなった(バカ)


当時を思い出しながら、本当にバカだったと思う。
あとちょっとで県内最大都市である新潟市に手が届こうという場所で、どうして少ない手持ちも考えず、そういう無茶をやらかしていたんだろうと。

でも仕方がなかった。
僕は、基本的に大都市が苦手だったのだ。それは多分、今も。

こうなったからには今夜はここで唄うしかないじゃないか、と、何度口にしたか分からない自業自得のセリフで街を散策すると、意外や意外、盛り場はいい感じだった。昨今では、どれだけ店が並んでいようと人通りのない通りばかりだと嘆く人もいるけれど、少なくとも新発田は僕の好みだった。もしかすれば「かつて」というのが僕の好きなキーワードなんだろう。

「昔は肩がぶつかるぐらい人が歩いててねえ」

というのは、どこに行っても耳にする地元の方の言葉で、そしてそういう街は僕に優しかった。かつての賑わいがなくなった今だからこそ、せめて僕の目の前だけでも肩をぶつけながら酒と歌を楽しんで欲しいと思うのだった。
そして夜になり、



肩はぶつからなかった(笑)



なんて書くと語弊だらけだな。
実はすっかり忘れていたが、その日は祭日だった。
確かに昼の間、あちこちで豊作祝いの祭りがどうとか見かけていたのだ。そんな日は逆に、飲み屋街に人はいないのだ。

かといって僕が唄わない理由はなく、あるのは唄わなければ無一文というシビアな現実だけだ。
居酒屋村さ来の前を借りた僕は、視界に入る呼び込みオッチャンをいないものと思い、ほとんど人の通らないその場所で唄い始めた。そして一曲終わると遠くから聞こえる軽い拍手。

やった~
呼び込みさん攻略成功~

僕は死ぬまで言い続けるが、飲み屋街で唄うのに、呼び込みさんを敵に回せるわけがない。そして、味方に付けるとこれほど安心できる人々もいない。
勘違いも多いけれど、今じゃ呼び込みさんにヤクザの息がかかっている事は少なく、ちょっと世間と生活感がズレてるだけの気のいいオジサンたちというのがほとんどだ。場所柄、そういう人たちとの面識が多いだけなのだ。

祭日のあおりは受けたものの、30分に一回はなんらかの反応ももらい、投げ銭も少しずつ増えた。途中で居酒屋の店長さんも声をかけてくれ、なんと上がりにビールを奢ってくれた。しかも店内に招いて。


その居酒屋も今は別の店舗になっている。
個人的には寂しいが、それを言ってもしょうがない。


ただ、新発田の新道(人はそう呼ぶ)は、今もちゃんと生きている。
かつての賑わいなどなくても、やっぱり今でも僕が唄いに行けば優しく迎えてくれる。
それは、そのうち知りあう新発田ミュージシャンであったり、店先を貸してくれる優しいママさんだったりのお蔭なのだけど、その奥底に新発田という街の懐の深さと温もりがあるのだ。外を歩けば知り合いばかりという小さな街には、そういう良さがある。






Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=200525636569057990770.0004585263f0a10720fca&msa=0&ll=37.949638,139.325116&spn=0.002301,0.00273

2011年は・・・

久しぶりの投稿なので「はて、どういった感じで書いてたっけ?」と不安になる。
しかも、編集作業がやりにくかった状況に変化はあったのか、まだ分からない。
分からないままでも、まあ、書くだけは書きだそう。
どうも、またしても編集画面が変わったのだ・・・上手いこと行け!

現在は、2012年の4月の新潟。
このブログの書き出しから3年という事か。よくブログやHPが消滅する僕には珍しい(笑)。

 昨年に訪れた都市を並べれば

三重
名古屋
一宮
富山
金沢
小樽
神戸
東京
そして、広島

そんな感じで、訪問地は少ないが、動いてない訳でもない。
箱ライブは、新潟、神戸、立川と演ったっけ。
 ただし、旅に出た期間は短い。

毎年恒例の、広島の8月6日がメインにあった。
それに前後して富山、三重、神戸、出雲、米子、石川と動いたが、それを2週間で行った。
夏によくある短期決戦だ。
それでもせめて、出雲~米子という久しぶりの山陰へ向かえたのは嬉しい手応えだったか。
出雲での演奏場所はキレイなビルになっていたし、米子では初めての場所で唄った。
出雲市 ~代官町~


米子での演奏は、感慨深かった。

 
米子 ~朝日町通り~

これが、ずっと唄っていた7朝日町ビル前。
良残はビルのオーナーさんからもOKを頂いて唄っており、しばらく行かないうちに苦情が出るようになってしまっていたが、米子には、とにかくもう一度だけでも訪れたかったのだ。
http://tabiutai.blogspot.jp/search/label/%E9%B3%A5%E5%8F%96


どうやらブログ編集に問題はなさそうなので、このまま少しずつ編集を続けよう。


山陰から北陸へ動くのも、久しぶりの事だった。
10年前に本州の日本海側を細かく回った以来だ。
赤茶けた渋い色の餘部橋梁も2年前に長い勤めを終え、架け替えが行われていた。

兵庫県 香住 ~餘部橋梁~

 
その後は、やはりこれも久しぶりの金沢で知人と合流して唄った。
唄い始めにいきなり不本意な注意を受けたが、場所替えが正解したようで、楽しく演奏できたと思う。
手強かった思い出しかない金沢としてみれば、良い夜だったろう。
 
金沢 ~片町~

 
夏の動きはここまでで、後は新潟へ戻り、いつもの古町8番町で唄う日々が続いた。
 
 
 

熊本 その4

※放置気味で、大変申し訳ありません。
なんやらブログの編集画面やなんやらが変わっていて、今までの書き溜めから投稿! って感じがやりにくくなってます。
今回は色気も何もない文章ですみませんが、放置が気になるので文面だけアップしておきます。
ご了承ください。


~以下、本文~



クラブ通りでの演奏は、順調に始まった。

今になって思えば、時期も良かったのだろう。
まだまだ、その辺で寝転がっても十分にやり過ごせる夜が多く、食費・雑費以外の出費はそのままキープ出来ていたのだから。

それから、もうひとつは勘違いを思い出した。
サウナロイヤルを発見したのは、3日後じゃなかった(笑)。
それは、第2期熊本時代とも呼べる2人旅での事だった。
第1期では、やはり白川護岸で寝る事が多かった。
相方のバカの話は佐賀の話の時に書いてるので、割愛する。
それより、佐賀の話なのにあんまり佐賀の事を書いてなくて申し訳ない回だった。
今度あらためて、佐賀の話を書こう。

えと・・・
サウナロイヤルだ。
書いてもいいのかと、はばかられる事が多いロイヤルなのだ。
しかし、そこは愛情を持ってフォローするので勘弁してもらおう。

女性の皆様などは、男が入るサウナ風呂のイメージが浮かびにくいだろうと思う。
少し例を上げると
・近所の昔ながらの商店
・近所の昔ながらのゲームセンター
・近所の昔ながらの銭湯

に近い空気だ。
そして

・運動部の部室

これもまた、近い。

設備を、簡易レビュー風に書き出そう。評価は上位からA~Eだ。
・フロント A´
・エレベーター Dw
・乾式サウナ B
・天然温泉(ちょい温め) C
・飲料水・ビール等販売機 C
・ゲームスペース Dww
・仮眠室 C
・リクライニングシート D

気さくなフロントのおじさんが良い感じでした♪
料金が1500円ってのも安い!
ただ、下りのエレベーターが毎回15センチほど沈み込んで止まるのには心臓バクバクでした(汗)。

飲食営業のスペースがない代わりに、持込が自由で助かりました。
ビールの販売機はいつもキンキンに冷えてて、お風呂上りに くう~っ! と飲み干すには持って来いです。

そうそう。ビックリした事は、卓上ゲームを並べたフロアに

ハトが紛れ込んでいたことかしらwww

でも、作りは古いけれど自由な感じが素敵な、サウナロイヤルでした!
また熊本に行ったら、一度は寄ってみたいです。




だが!
このブログを書いてる途中で検索をかけたら、なんと営業を終えていた。。。


ロイヤルよ。
出会えて良かったよ。

熊本 その3

前回の投稿から3ヶ月以上が経ち、時は2011年2月です。
ちょっとサボり過ぎですね。
反省。


前回は熊本市の下通りアーケードから横道へと抜ける『黄昏クラブ通り』に辿り着いた所まで書いたっけ。

周囲の風景は、今でも鮮明に覚えている。
ただ、名称は『クラブ通り』のみが一般的なのかもしれない。
クラブ通りにはたそがれ東館というビルがあり、栄通りに抜けた所に、西館があった。
それでも通りの入り口には確かに『黄昏クラブ通り』と小さく案内があったので、僕は今でもそう呼びたい。

クラブ通りから南へ1本ずつ動けば、酒場通り、銀座通りと良い感じの名称があった。
銀座通りは少し広めの車道がアーケードを横切り、そこでも唄っている連中がいたっけ。

僕は何より、唄う場所を探した。
すると、クラブ通りにはエントランスを大きく取ったテナントビルがある。
そこならば目の前を通るタクシーの邪魔にもならず、右側でシャッターを下ろしたチワワ専門のペットショップ前(時は恐らく 「どうする~ア○フル~」 のCM影響で空前のチワワブームだった)ならば、唄えそうな感じだ。
今では十数年を唄い回った飲み屋街の中でも、なかなかの好条件だった。

僕は、珍しく躊躇しなかった。
さっき使ったばかりの手書き看板を出すと、おもむろに演奏準備を始めて唄い出した。
「本日、熊本初上陸! 広島から旅をしています」といった内容だったはずだ。
『旅唄い』を名乗り始めたのはその後からだったが『手塚 幸』は名乗っていた。
ちなみに僕の『手塚』は芸名で『幸(みゆき)』が本名だ。よく、逆だと思われる。

その日は、平日の夜だったろう。
午前1時前ギリギリで、普段の客足を知らない通りだったが、後1時間ほど唄えれば良い方だと思った。とにかく怖いのは近隣からの苦情だ。しかもビルの敷地内なので、どこかのテナントから口頭で苦情を受ければ止めざるを得ない。
でも、1時間だけなら。

なのに気づけば熊本初日。
終わったのは朝の4時前だった(笑)。

10月だったのでいい加減、空が明るくなって、とまではいかなったが、背面のビルから帰宅するお客さんだけでなく、色々な方が立ち止まってはくれた。
聴いてくれる人がいると興味を持ってくれる人も増え、僕の熊本の街に対する印象はすでに、とても良いものとなっていた。
最後は若い集団で、すぐ近くの店でバイトをしてるという仲間同士だった。
行き先も決まっていない僕だったが、彼らとは笑顔で別れた。
手持ちも、数千円増えていた。

幸いにも(だとは思う)酒の準備が少なかったので、そうして熊本初日の記憶は今も残っている。

すぐに日が昇るはずの街中を、また再び白川へ向かい、僕は白々と明け行く空を眺めながら缶ビールを飲んだ。それは、尻尾を巻いて逃げ出した数時間前よりはるかに美味かった。
そしてスニーカーを枕に眠りに就いた僕は、架橋工事の音ですぐに目を覚まさなければならなくなるのだが。

近所の怪しいサウナに気づくのは、それから三日後だった。
その自由奔放なサウナの話は、また時間を見て。


Googleマイマップ『西高東低~南高北低』
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=200525636569057990770.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&ll=32.80195,130.707969&spn=0.000997,0.002197&z=19

熊本 その2

さあさあ、熊本の2話目だ。
前回に書いたのがもうひと月も前なのだけど、どうせ手探りの記憶な訳だし、忘れられない事は多いので、大丈夫だとは思う。


手持ち数百円で熊本市内に辿り着いた僕を待っていたのは、いきなりの土砂降りだった。
何気なく入った地下道があまりにも居心地の悪い(長時間居座るとか寝転がるとか出来そうにない)雰囲気だったので地上に出たところ、ものすごい水しぶきが歩道に上がっていた。雲行きは怪しかったので覚悟はしていたものの、真夏を思わせる激しいスコールで、しばらく他の通行人と一緒に雨が止むのをアーケードで待った。

アーケードの入り口付近では、やけに元気なマイクパフォーマンスで煽るゲーセンのお兄さん(ナイナイの岡村君も来たとかで、ちょっと有名らしい)がいて、まったく飽きなかった覚えがある。
 
そんな感じで、十月の熊本はまだまだ残暑と呼べるほど暑く、にわか雨も多かった。
ただし晴天率は悪くなく、まだまだ夜をどう過ごせばいいか分からなかった熊本では、川沿いに寝転がってばかりだったので助かった。
僕の場合野宿といえば、寝袋や毛布の用意などまったくなく、地面にダンボールでも敷いて寝るだけだった。どこかのアウトドア雑誌で 『スニーカーは枕になる』 と聞いてたので、それを実践するくらいだ。よって、冬場に野宿はない。出来ない。

よく寝た川原は白川の護岸で、白川はアーケードを抜けてシャワー通りという怪しい名の通りを抜けた所、国道3号線沿いにある。
路上演奏が終わるとそこへ向かい、コンビニで買った缶ビールを飲んで寝た。朝になると時々、上のほうで工事をしてるおっちゃんが「おはようさ~ん」と声を掛けてくれたりしたっけ。
そのうち、路上前の夕方にも立ち寄る場所になり、白川の流れをボーッと眺めるだけが時間の潰し方になった。よく、詞を書いていた。

だから時々、中高生のカップルが先に陣取ってると

ちくしょう、俺の聖域を汚しやがって。お前らどっか行け。こっちはどこも行くとこないんだぞ。

なんて心で毒づいていた。
別に僕の場所ではないんだが、通勤電車の位置とか馴染みの店のカウンターとか、そんなのと一緒だろう。この気持ちは、路上演奏場所の場合は少し違う。路上は早いもん勝ちだから。

初日の話をしよう。
熊本は九州でも博多に次ぐ規模の飲み屋街じゃないかと思う。
そんな感じだから、小心者の僕は唄う場所をどこに設定しようかと悩んだ。
夜の9時前ともなればアーケードのそこら中に路上演奏の若者が現れ始めたが、そこは決して僕の場所じゃない。僕はもっとうらぶれた通り、街灯がかすかに灯る程度の道端で良かったのだ。

が、熊本。
そんな場所を探していたら陽が昇るほど飲み屋エリアが広い。
なのでなんとなく見つけた銀行の横、駐輪してる自転車やバイクの影で演奏する事にした。
景気づけ(安定剤)の酒も飲んだ。飲んだので持ち金はもうないに等しい。
それでも、なかなか唄い出せない。時間は、刻一刻と無駄に過ぎる。

何を唄ったか、もう思い出せないが、とにかく30分ほど経って唄い出した。
唄い出すと僕の迷いは吹っ切れたのだが、反応はイマイチの様だ。
もう1曲やると、今度は反応があった。
小銭が入った。
更にもう1曲やると、千円札が入った。
これはイケると思い、もう1曲やろうと思った矢先に、警備の人にダメ出しされた。
凹んだ。
凹んだ挙句、千と何百円の上がりだけで尻尾を巻いて白川護岸へ消えた。
ヘタレは今もだが、なんとまあ諦めの早い旅唄い初心者だったのだろう。
夜しか稼げない街で生き抜くためには、唄える時間に唄うというのが鉄則なのに。


わずか3曲で終わった熊本初日。
さあ、明日からはどこで唄おう。
そんな呑気な考えのまま缶ビールを飲んで眠りに就こうとしたが、少しずつ不安になる。
果たして、他の場所でも苦情は出ないのか。
もしかしたら、アーケードしか唄えないのかも。
あれだけ通りがあるけれど、一時期の大阪がそうだった様に、取締りが厳しい街はとことん厳しいものだ。

戻って、もう一回唄おうか。

時刻は0時を周ったところ。

まだ、間に合うんじゃないか。

もし駄目だったら、諦めてもっと小さな町へ移動しよう。そう覚悟して、僕はもう一度だけ街に戻った。
アーケードでは、まだまだ沢山のミュージシャンが唄っている。
ここは無理だ。
音が重なるのだけは、絶対に嫌だ。
音声多重の演奏から逃げる様に角を曲がったのが、それからしばらく世話になるとは思いも寄らない、黄昏クラブ通りだった。

~次回へ続く

熊本 その1

九州で最も長く滞在したのが、熊本市だ。
長くなりそうなので、最初から分割形式にするつもりで書き始める。


九州を巡った2002年、福岡~佐賀、そして生まれ故郷の長崎と周り、島原から船に乗った。

いわゆる修学旅行のみの体験地だったため、知らないと言い切って良い土地だ。
なのに、フェリーに乗った時の手持ちは確か、800円ぐらいじゃなかったろうかと思う。
今なら、大移動にはちょっと躊躇してしまう金額だ。
恐いものなしというほどの心境ではなかったが、旅唄い初心者の僕にとって未知のものは全てただの未知であり、今日メシが食えるかどうかという悩みも熊本がどんな街なのか知らないという事態も、同様レベルの不安だった。

とにかく当時は、記憶に留めておこうという気持ちがなかったので、思い出しても移動経路自体が曖昧だ。
城下町島原のフェリー乗り場で夜を過ごしたのだから、島原港から乗ったのは間違いない。
それに、島原から熊本へ向かうフェリーは、今も当時もそこからしか出ていないはずだ。

ああ。少し思い出した。
静かな島原の街を、とても深夜帯には唄えないとみなした僕は、真夜中のアーケードを抜けて港まで歩いたのだ。
ただどうしても、その経路をどうやって調べたかを今も思い出せず(なんとなく、ではなかっただろうが)、見慣れないコンビニめいた店先でシーフードヌードルを食べた事だけが思い出される(※この頃から、全国シーフードヌードルレシート収集計画は始まっていた)

この調子で地図を眺めて、思い出していこう。

今になって地図で見れば、市街地から島原港までは2キロ強。
歩くといっても、大した距離ではない。
だけど、全く知らない街を真夜中に歩いて移動するのは非常に長く感じる。
道の途中に地図らしきものが見える度に確認していたので、確かに1時間以上はかかったと思う。

時期は、10月の半ば。
まだまだ九州の秋は暑かった。
その頃の出で立ちだけは、はっきりと憶えている。
ジーンズに黒い半袖のTシャツ。
首にはタオルを巻き、荷物といえば大き目のリュックと、ペラペラの薄いソフトケースに入ったギターだった。

そうそう。
恒例のキャリーケースなんて、まだ転がしていなかったのだ。
それだけ装備が少なかった訳で

・移動するにも要領は悪く
・唄う場所選びの要領も悪く
・着替えが1日分くらい
・そしてハーモニカ~、ポケットに少しの~小銭~♪

という、清清しいほどに天晴れな路地裏の少年っぷりだった。

島原では結局一銭にもならない演奏を終えていたし、カップラーメンを食べて残りが1500円(恐らく)ほど。
十年以上の旅を続けた今となっては、そんな軽装備で見知らぬ土地へ出発なんて恐ろしくて出来ないだろう。
いや、島原では夜の街で稼げないと諦めての移動だったので仕方はなかった。
それにしても、経験が増えるというのは僕の場合、逆に自分を臆病にしてしまう様だ。
恋に破れた乙女か、まったく。


雨がパラついたりと雲行きの怪しい港の朝だったけれど、船が進むに連れて晴れ間も見えてきた。
ウトウトする間もなく、1時間ほどで熊本港のターミナルに着く。
船旅は北海道に続いて2回目という事もあり、港にありがちな閑散とした風景にも不安はなかった。
火の国・熊本である。唄える場所はきっとある。
とりあえずの気がかりは、市街地までの移動手段だった。

熊本駅まで行けば何とかなるだろうと思ったので、港で確認するとバスがあった。
ただ、やけに遠くて高かったらどうしようかとも思った。
どこかで聞けば教えてくれるだろうが、明らかに足りない場合の落胆が嫌だったので、何も言わずに乗った。
初乗りからじっと運賃表を睨み、足りなくなりそうだったらいつでもピンポンを押せるように構えていた。
が、次第に上がり始める料金に心でストップをかけているうちに

「次は熊本駅~」

とアナウンスが流れ、結局は400円くらいで乗れた




のだと、思う(笑)。

捏造ではないのだが、どうしても思い出せない。
熊本駅を基本にしたのは間違いないし、そこまでのルートは限られている。
地図で見るところ、熊本港から熊本駅までは10キロ以上ある。
この根性なしが、徒歩で歩いたはずがない。
手持ちの減り方から考察するに、400円ほどでバスに乗ったと考えるのが妥当だ。


とにかく、歩いたのは熊本駅からだった。これだけは流した汗と共に憶えている。

これまた昨夜の島原と同じ2キロほどの距離だった訳だが、今回は真昼間。
市電の走る熊本市ではあるものの、まだまだ夜までは時間もあり、もう出費はしたくない。
駅前地図を見る限り、どうやら白川(この川には本当に思い入れがある)という川沿いに歩いて行けば市街地のようだ。


僕は、ひたすら川沿いを歩いた。
阿蘇山と熊本城を見るだけの修学旅行生だった僕にとって、どこを歩いても初めての景色ばかりだ。

時刻は正午に近く、すぐに汗まみれになった。

何を見ても知らない。

どこを見ても分からない。

知らない町の名前が、知らない川沿いに流れてゆく。

何度も何度も立ち止まり、肩の荷物を道端に投げて、タオルで汗を拭った。

不安は、なかった。

ただただ、どこまでも旅を続けていたかった。

空は、ゆっくりと曇り始める。


駅前の地図で目印にと覚えておいた路面電車の走る道が左手に見えたので、そこからは軌道敷に沿って歩いた。そこが道のりの半分だ。

だけど、殺風景な川原の道から開放されたせいもあり、そこから先は早かった。
古風なビル街を抜けると、大きな公園が見えた。
観光客用の案内板に 『熊本城』 の文字も見え始めたので、後は気の向くままに歩き始めた僕だったが、数分後には市街地の勢いに圧倒されていた。

気が付けば、大阪や福岡のど真ん中に来たような雑踏に晒されている。

熊本、実は賑やかだったのだ。

慣れ親しんだ百万都市の広島より、人が多い気がする。
静かな城下町だなんて思い込んでいたのは、なぜだろう。
ああ。
子供の頃、毎年のようにお袋が里帰りしてた天草が仮にも熊本県だったから

熊本=静か 

なんてイメージを勝手に作っていたのだろうか。
それとも修学旅行二日目の島原で武家屋敷の通りを見て、記憶がすり替わっていたかも知れない。全国の小中学校は、修学旅行の行き先を1箇所に絞った方が良い。

という事で、許して熊本。
PARCOもあるのに。


そ~んな感じで、旅唄い初心者の手塚幸が辿り着いた大都会・熊本(言い過ぎかな)。
次回からは、少しずつ重いエピソードも出たりして。

という訳で、続く。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=32.795031,130.702522&spn=0.007973,0.017853&z=16&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1
(白川沿い)

新潟

この2年間、新潟県は新潟市に本拠地を置いて活動している。

それは多々事情があるのだけれど、単純に住む場所が出来たという旅唄い人生の中で画期的な出来事の影響が大きい。

新潟県内に初めて訪れたのは、新潟市ではなく新発田市だった。
例の、日本海沿岸縦断の頃だ。
もう7年ほど昔で、今でこそ一緒にライブを行なったり珍道中を重ねている桑名シオンに出会う遥か以前の事だ。新道の飲み屋街を直感で探り当てて、居酒屋村さ来の前でビクビクしながら唄ったのが、懐かしく思い出される。

新発田で唄った翌日は、秋田から悪天候が続いていた秋空もすっかり晴れて、信濃川にかかる万代橋を見ながらの日向ぼっこが気持ちよかった。
ただその時には、まさかここまで長い付き合いになる土地だとも知らず、素通りして柏崎に行ったんだっけ。
今も昔も大都市が苦手なせいで、市内を避けてしまった。
古町の飲み屋街をしっかり見ていれば、きっと素通りなんてしていなかっただろう。


僕の路上風景の中、実はこの2年で明らかに変わった事がある。

こいつだ。


このシロクマだ(この際、酒の量は放っといてもらおう)。
手塚ファンなら誰でも知っているであろう、最近は僕より人気上昇中の小憎らしい旅の道連れ。

ファビぞう である。

今では『たびっくま』と命名されてブログまで書いているファビぞうに出会ったのは、古町通り8番町を東へひとつの静かな小道、鍋茶屋(なべちゃや)通りだった。

新潟市古町通りの飲み屋街では2年間も集中的に唄っているために、エピソードは数知れない。

たくさんの名物人間にも会っているし、顔馴染みも多い。
でもファビぞうに会った頃、僕はまだまだ古町に馴染んでいなかった。

鍋茶屋は、弘化3年(1846年)創業の、新潟で老舗の料亭。

150年も前というと、徳川将軍で言えば12代家慶の頃ではないか。
そんな由緒ある料亭の名前を冠する通りとも知らず、このバカは吉田拓郎など唄っていたのだ。
問題はもちろん吉田拓郎ではなく、タクシー1台通れば人が端の端に避けなきゃいけないほど狭い通りで、人の足を止めていた事だ。
鍋茶屋さんから苦情が来ていたか定かではないが、斜向かいのお店が良い顔をしていなかった様子で、僕の鍋茶屋通り時代は2ヶ月と持たなかった。
風情ある静かな通りでガチャガチャ演奏などしていたのだから、そりゃあ、お店は嫌がるに決まっている。
今になって考えれば浅はかで、非常に申し訳なかった。

そんな短い鍋茶屋通りでのエピソードは、これまた短いくせに濃密な話題がたくさんあって選ぶのに困るのだが、ここはまあ、ファビぞうの話を。


人通りは少ないけれど、やけに身なりの立派な方々ばかりが通る鍋茶屋で、僕はそこそこに稼げていた。
何しろ新潟市、飲み屋街での路上演奏者を見かける事はなく、珍しさは先行していたと思う。
背面のビルのテナントさんも声を掛けてくださるし、隣のダイニングで出張演奏もさせて頂いた(ここは後に、姉妹店でもお世話になった。ソウズさん、また稼いだら行きますね)。

その日もポツポツと唄ってはポツポツと人の足は止まり、順調に演奏は続いていた。
何より、一組のお客さんが長くないのが特徴で、そこはやはり長居できない雰囲気もあったからだろう。
まだまだ宵の口の時刻、4~5人の団体さんが声を掛けてきた。
演奏もワンコーラスそこそこにチップを頂く中で、男性が1人、手持ちの紙袋の中から日本酒の小瓶を差し出してくれた。さすがは酒どころ新潟。
頂いたのは、お隣五泉市の菅名岳(すがなだけ)という銘酒で、恐縮しながらも心でウヒヒと涎を垂らして頂いていると、1人の女性が唐突に尋ねてきた。

「日本中、旅してるの?」

日本中を回ろうと決めている僕ではなかったが、結果的にそう言ってもよいレベルになりつつあるので

「ええ、どこでも唄い回りますよ」

と笑顔で答えた。
すると女性は、おもむろにバッグから白い塊を取り出し

「この子、ファビィっていうんだけど、一緒に旅に連れて行って」

と、僕に頼むのだ。

僕は人にモノを頼まれると簡単に断れない。
だからそんな時の条件反射で、つい

「え・・・ええ、いいですよ!」

と、またまた笑顔で安請け合いしてしまった。
内心、まあ今だけ話を合わせていればいいかな、ぐらいで済ませたかったのだが、僕は更に

「男の子ですか? 女の子ですか?」

と聞き返してしまったのだ。
男の子よ、と答える女性に僕が三度、笑顔で言い放ったのは

「じゃあ、名前ファビぞうにします」

だった。
命名してしまった・・・。


集団の1人が電車の時間やら何やらでバタバタと後にすると、残されたのは銘酒・菅名岳と、シロクマのファビぞうだった。
なんだか、どこかで聞いたような話だ。
四日市の[ひ]~ちゃんが連れ回る愛兎・ぴかすけと出合った時も、日本酒がらみだったっけ。
参照 http://hp.kutikomi.net/higurashian/?n=column3&no=9


たかが縫いぐるみとはいえ、自分で命名したものを置き去りにも出来ず、その日はなんとなく荷物に紛れてファビィを持ち歩いた。
翌日もやっぱりカバンを開けると無表情にそこにいて、なんとなくギターケースに投げていた。
翌々日もやっぱりいて、誰かに見せた気がする。

「2日前に出来た、旅の連れなんですけど・・・」

そのうち、いつもの鬼ころしにストローを差すと、隣に座るようになっていた。
翌日も鬼ころしの隣が定位置になり、心なしか笑顔になっていた。

なんか、酒好きなのかなこいつ・・・。

1週間ほど後、鍋茶屋通りで苦情が出てしまい、僕は初めて表通りに演奏場所を移した。
その後、1年以上お世話になる香月堂ビルの前だ。
お店のお兄さんに鼻で笑われたり睨まれたりしながら、緊張しながらもなんとか唄い終えた。
唄い終わって片付ける時に気が付いたのが

あ、ファビィがいない

そうだ。
鍋茶屋でお巡りさんに囲まれて焦ってたから、慌てて忘れたんだ。

「一緒に旅をさせてね」 と言ってくれた女性には申し訳なかったが、これでなくなってたら(その時にはまだ 『いなくなって』 じゃなく 『なくなって』 という感覚だった)、それはそれで仕方ないかとも思った。

が、あった。
というより、僕が唄っていたビルの前で、じっと待っていた。
座りの悪いモコモコのお尻で、壁にもたれて待っていた。


いろんな事が起こる。

まさか、2年も新潟で居付く事になるなんて思わなかった。
まさか、シロクマを連れて旅をするようになるなんて思わなかった。
まさか、シロクマの方が僕より人気者になってブログなんか始めるとも思わなかった。

そしてまさか、誰も立ち止まってくれない路上演奏でちょっと凹んでいる時にシロクマから元気付けられたり、バッチリ稼いだ夜の祝杯をシロクマと上げる日が来るなんて、思いもしなかった。


いろんな事が起こる。
だから、これからもファビぞうと、いろんな事を見て回ろうと思っている。



Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=37.923952,139.045793&spn=0.000937,0.002073&z=19

東広島

そもそも、旅の定義ってなんだと考えた事があった。
きっかけは

「旅と旅行って違うんですか」

と尋ねられた事だ。
その時はきっと、違うよ違うよ! 旅行は行って帰るだけなんだけど、旅はどこまでも続くんだよ! みたいな 『旅こそ格上発言』 に終始したと思う。
その後、何度もその曖昧な格付けに説得力が欲しくて


・旅は目的が決まってない
 だの
・旅は期間が決まってない
 だの
・旅はお土産目当てじゃないんだぜ

といった根拠の見えない、言ったもん勝ちの定義を捏造していた気もする。
だけどやがて、目的のある旅をしたり、期間限定の旅に出かけたり、お土産がメインになってしまう旅を繰り返し、その捏造定義を自分自身がひっくり返してしまった。
何のことはない。
旅と呼ぶとカッコイイから、僕はそう言ってたに過ぎないのだ。

素直に思い返せば目的がない旅は一度としてなかったし、目的がない旅は、どこかうら寂しい感じもする。
路上で誰かに尋ねられる
「目的はなんなの?」
という質問に上手く答えられない時は、やはり自分自身がいちばん寂しくなる。

正直に話してしまえば、路上で唄う事を継続するのに、旅をしているというバックグラウンドは都合がよかった。旅が目的か歌が目的か、その時々の精神状態で使い分けられたから。
歌を生業にする事も、流れ旅を続ける事も、人の生活を支える根源とするにはあまりにも浮世離れした心細い行為だし、どれだけの旅人やミュージシャンに否定されても、僕の唄い方ではそれを認めざるを得ない。
でも、それで良かった。
浮世離れした自分ならば、他人と比較する物差しもない。
そうする事で、僕は自分を卑下せずに済んでいた。
もちろん、生活ぶりで考えれば、それはとても人の生活と呼べるものじゃなかった。
ホームレスの年配男性に毛布と風邪薬を分けてもらってインフルエンザをやり過ごしたり、救急車で運ばれては入院費を踏み倒すしかなかった事もある。そもそも僕がホームレスだったのだから。

ただし、人の生活は必ず何らかの手応えと共に向上するもので、僕が旅と歌に費やした時間は、そういう意味では間違いなく僕を正しさに導いてきてくれたろう。
正しさは、例えばこうして振り返る痕跡のひとつひとつだ。
生きる事は、誰にとっても痕跡を残してゆく事だろうし、その痕跡を人生と呼ぶのだろう。
曲がりくねった道の先端に、今の自分がいる。
残した痕跡の美しさや醜さは別として、それは紛れもなく人の人生だ。
ならばようやくそこで、思い出を残す旅行と、痕跡を残す旅の違いに辿り着く。
旅の痕跡は、決して文化遺産にイタズラした記念の落書きなんかじゃない。


広島で唄い始めた頃の懐かしい話を書こうと思い、その照れ臭さに、つい話が長くなった。
東広島市、西条という小さな町の話を始めよう。
僕が、日本酒と路上演奏を覚えた町。

家を飛び出しては実家に引き戻されを繰り返して、何度目の東広島だったろう。
イラストレーター志望だった僕は、当時24歳。
唯一と呼んでいい友人のアパートに転がり込み、絵の仕事など皆無に等しい中、居酒屋のアルバイトを続けながら、まだ学生だったその友人と青春の最後の灯火みたいな生活を送っていた。
高校時代にパチンコを教えてあげた(友人曰く、負け方を教わったらしい)はずの僕に、友人はパチスロを教え込んでくれたが、そのうち奇跡的な大勝ちの挙句、僕はメーカーも定かではないギターを勢いで購入していた。遊びとして、友人の詞に曲をつけたりもしていた。
ただ、ギターテクニックに関しては少し弾ける、といったレベルで、路上で演奏などという恐れ多い事も始めてはいなかった。
そのレベルは、実は今も大して変わっていない。

そうこうしている内に友人は大学院卒業も間近となり、僕はアルバイトに時間を割かれ、倦怠期の同棲カップルみたいなすれ違い生活は、無事に就職を決めた友人が広島を去る春に終わった。
僕は勤め先から紹介されたアパートへと移り、気が付けばようやくの事で広島での一人暮らしが始まったのだ。

すでにイラストレーターに見切りを付けていた僕は、次に物書きになりたいと考え始めていた。
どうしてそう、ろくでもないものばかりに憧れるのか自分でも不思議なのだが、ひとつは名前のせいだと思うことにしている。男のクセに 『みゆきちゃん』 なんて名付けられた僕は、自分の事を普通じゃないと思いながら育った。
いつの間にか変わり者と思われる事が楽になり、十代も半ばになると、変わり者なんだから少しぐらい世の中から逸脱しなきゃ、なんて事まで考え始めた。
すでに自分のプロデュースを考え始めていた訳だが、人はそれを 『演じてる』とも言う。役者になろうと思わなくて、本当によかった。

すれ違いが多かったとはいえ、のべ数年を友人と一緒に生活していた僕。元々が大家族で育ったため、一人きりの生活というヤツが苦手だったのだろう。午前から深夜までのバイトが終わると、部屋に帰ってもする事が思いつかなかった。
物書きを目指すなら、何か書けばいいのに。

アルバイトは西条駅前の小さな小料理屋だった。
初めに面接に受かった居酒屋の店長さんが、シフトの少ないウチより良い所を紹介するからと世話してくれた新装開店のお店だった。
西条は数年前から広島大学がキャンパスを移転し始め、街自体が学園都市へと移行を進めていたために、大学生のアルバイトがほとんどだったのだ。だから、週に5日、6時間以上なんて長時間を働ける飲食のバイトはなかった。

店長さんの知り合いという事もあり、あっという間にバイトが決まった駅前の上品な小料理屋さん。
確かに毎日の様に仕事は出来たが、オープン2日前に板前さんが女将さんとケンカして辞めたり、突然 「昼間からの定食も始めるわよ」 と見切り発車でイメチェンを図ったり、そのせいで真昼間から飲んだくれてる社長さんや先生様方が準備中にも関わらずカウンターを占拠したり、支払いの滞っている業者さんへの謝りもすべて日給五千円の僕が任されるという、涙なくしては語れない激動のお店だった。仕込から不慣れな僕は、朝10時出勤で深夜2時終了の仕事をオープンから1か月は続けた。

調理師免許などない僕は板前さん不在のお店で、それでも表向きは板前さんにならざるを得ず、カウンター内で背を伸ばして立っていなければならなかった。
料理のバイトは好きだったが、人と話すのは苦手で居酒屋のホール仕事さえしたくなかった僕には荷が重く、胃の痛い日々は続いた。
それでも女将さんの人望か優しいお客さんも多く、カウンター越しに差しつ差されつ話しているうちに、板前もどきも文字通り板に付き、苦手だった日本酒も美味しく飲める様になった。なってしまった。東広島・西条は、日本三大酒都であり、元来アルコール好きの僕が日本酒色に染まるのに時間はいらなかった。

そうやって、広島での一人暮らしはアルバイトだけで過ぎていった。
女っ気はなかったかといえば、全くなかった。
逆に、女なんか、という真っ暗闇な時代だった。
というのも、17歳から付き合っていた地元の恋人と2年前に別れており、2年も経つのに引きずっていたからだ。

今はただ~ 5年の月日が長すぎた春と言える~だけです~

なんていう名曲があるが、設定だけはあの歌そのままだ。
遠距離にも関わらず連絡も少ない僕の自分勝手さに飽き飽きした恋人が、新しい恋人を作って結婚したというありがちな話なんだけれど、唄い始めた頃の僕は、二十二歳の別れというその曲をリクエストされても絶対に唄わなかった。
冷静になって考えれば愛想を尽かされて当然の男だったのに、別れというのはいつも、自分が被害者なんだろう。
何よりもその彼女の、結婚へのスピードに驚愕したっけ。

だから24~5歳の頃は、今の僕から想像できないほど暗い生活を送っていたのだ。

と思っていたが、それはどうやら僕の思い込みで、友人知人に言わせれば、そんな性格は今の僕から容易に想像出来るらしい。
なんだ、やっぱ暗いんだな。。

そんな根暗な僕が唄い出した理由も、やっぱり暗かった。
(開き直りきれてなくて、なんか嫌だな・・・)


冬だった。
それはそれは寒い夜だった。
瀬戸内といえども東広島は標高差が激しく、冬場は氷点下にだってなる。

つもの小料理屋のバイトを終え、誰かに借りたままの白い自転車で、アパートまでの道のりを僕は走っていた。風はもちろん切るように冷たかったが、1日中のバイトで疲れた身体にはちょうど良かったろう。
珍しく早仕舞いした平日の夜で、帰ったらゆっくりと酒でも飲めればと思っていた。そう思わない夜はなかった。さっさと酔って寝るのが、ひとりきりの僕には楽だったのだ。

岡町通りという飲み屋街は、小さいながらもスタンド(広島では、スナックをそう呼ぶ)や料理屋さんが軒を連ね、楽しそうな声が漏れてきそうだった。
幾つかの店は、女将さんやお客さんに連れて行ってもらった事がある。
いつでも飲みにいらっしゃいね、と誰もが言ってくれていたが、一人で行く事はためらわれた。
どこそこのお店の、という看板を背負えば、好きなお酒も好きな様には飲めなくなってしまう。
コンビニで缶ビールと安いウイスキーでも買って、部屋で酔いつぶれた方が楽だ。
クリスマスの楽しい家庭を窓から覗く不幸な主人公みたいな気持で、僕は飲み屋通りを走り抜けて帰った。

そう。
12月。
毎年、教会のクリスマスの飾りつけやら自宅の飾り付けやらとイベントの準備であっという間に過ぎていたクリスマスが、やってくる。
だけどもう、家を捨てた僕には、目に見えるクリスマスなんてなかった。
恋人もいない。
友達もいなくなった。
この町には、知り合いなんていない。
物書きだなんて口先ばっかりで、実際には夢なんかなかった。
家を飛び出した目的も見失って、アルバイトに追われているだけの生活をごまかすために、その場しのぎの言い訳を続けているだけだ。
僕には何もない。
僕にはもう、何もなかった。

ビールを1本空けただけの、木曜日の夜。
ひとりの部屋で、不意に叫びたくなった。
ただ一人、他愛もなく語りかける事の出来た友人の存在の大きさを思い出す。
僕が恋人との別れに打ちひしがれて長崎から戻った時、何も言わずに朝まで車を走らせてくれた友人。
実は自分だって似たような時期に恋人と別れていたくせに、何ヶ月も後になって笑いながら話してくれた優しい友人。
あいつは、もうこの町にいない。
冗談交じりに歌を作ったギターが、安いケースに包まれて部屋の隅にあるだけだ。
深夜2時前。
僕はギターを抱えて、岡町通りへと歩いた。

飲み屋街といっても、12時を回れば次々とネオンは消えていく小さな街だった。
僕は、道の外れに座り込んだ。
すぐに、コンクリートの冷たさが身体を震わせた。
人気はない。
ギターを出してみる。
錆びた弦の音が、誰もいない道端に重く響いた。
誰もいない。
誰も見ない。
それで良かった。
誰かに話したい事なんてない。
誰かに掛けて欲しい声などない。
僕には、何もないのだ。
ただ、叫びたかった。

久しぶりに手にするギターを、指でかき鳴らした。
それに呼応する様に、遠くで酔っ払いが大声を上げた。
自販機を蹴り飛ばす様な音。
僕は負けたくなかった。
アンタが酔って叫ぶ様に、僕だって叫びたいんだ。
僕は、酔っ払ってなんかいない。
僕は、ひとりだって生きていく。
僕は、変わり者なんだから。
僕は、寂しくなんかない。
ただ、叫びたいだけなんだ。

歌の形など成さないままに、僕はもう好きに叫んでいた。
風が冷たく、指先はすぐにかじかんだ。
弦を殴る右手に痛みが走った。
どこをどう弾いてるのか分からない。
血が流れているのかもしれない。
ならば、それでもいい。
血を流して唄うなんて、なんて僕らしいんだと思った。

やがて吐く息が真っ白に変わり、力尽きる様に僕はギターを置いた。
寒さに両手がしびれて、ただただ痛かった。
うなだれて、肩で息をついて、そしてまた嘘をついた事を悔やんだ。
ひとりで叫ぶ声は、何ひとつ僕を楽にしなかったからだ。

ひとりは、いやだ。

ひとりは、いやだ。

 コツン、と音がした。
目の前だ。
うなだれていた僕は、ゆっくりと目を上げて息を呑んだ。
が、途端に身体が竦んでしまった。
薄明かりのビルを背後に、黒い陰がひとつ、フラフラと揺れながら突っ立っていたからだ。しかも、やけに足元が覚束ない。さっきの、自販機を蹴り飛ばしては叫んでいた酔っ払いだろうか。
僕は、その人影の腰から上を見上げることが出来ず、しばらく無言で固まっていた。
僕も自動販売機の様に蹴り飛ばされるかと思っていたが、やがて影は、ふらつく足取りのまま駅の方へと消えて行った。

何事もなくホッと息をついて安心した僕は、気が付けば道の上に白っぽい缶ジュースがあるのを見つけた。さっきの酔っ払いが置いていったものだろうか。

恐る恐る手を伸ばして握ったそれは、とても温かだった。
やけに幼稚なウシの絵と、カタカナで『ミルクセーキ』という文字が書いてあった。
凍った様に冷たい手のひらには、じんわりと、少しずつ温かさが広がっていく。
途端に、僕の瞼が情けないくらいに震え始めた。
この街でひとりきりになって、心も、身体も、ようやく温かいものに触れた気がした。
5年間も付き合った彼女さえ、僕の叫び声を聞きながら平然と消えて行ったというのに・・・。

泣いても泣いても涙は止まず、ミルクセーキはいつまでも温かかった。
さっきは恐くて顔を上げられなかった自分が、バカに思えた。

僕は、何を恨んでいるのだろう。
僕は、何を思い違えているんだろう。
この町で生きてゆくのなら、こんな事じゃいけない。
人を、信じよう。
裏切るより裏切られる方が良いなんてとても言えないけれど、裏切られる事はいつも悲しいけれど、疑ってひとりになるよりは、きっとましだ。
じゃあ僕は、人を信じるしか生きてゆく方法はないじゃないか。

ひとりは、やっぱりいやだ。


もう今年で40歳を迎えた僕が、冬場になると自動販売機をじっと見つめる事がある。
田舎町で時々、似たような得体の知れないミルクセーキを見かけるけれども、あの甘い温もりはどうしても見つからない。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」

いつもの夜

取っ手の外れかかったギターのハードケースを脇に抱え込んで、車輪を軋ませながらキャリーバッグを引いている。これだけの事で、いつも半日分の体力を使うみたいだ。
ようやく涼しくなり始めた9月の終わり、いつものシャッター前へ辿り着いた頃には、Tシャツが汗まみれになってしまった。


僕は、ギターと荷物をその場に転がし、目の前のコンビニへ駆け込む。
大袈裟に頭をペコペコ下げながらタクシーの列を横切り、やたら酔客のたむろする店内へ向かう。
レジには、高校生アルバイトのユウちゃんが、いつもの笑顔で立っている。まだ、午後10時前だ。
僕は手早く発泡酒を1本と紙パックの鬼ころしを2つ手に取ってレジに置くと、ポケットの小銭を探る。


「今からですか?」
と、アルバイトのユウちゃん。


「とりあえず飲んだらね」
と、僕。


「荷物、大丈夫なんですか」
釣り銭を渡しながら、ユウちゃん。


「ん、大丈夫」
と、やっぱり僕。


買ったばかりの発泡酒を開けながら戻ると、当然の様に、そのままのギターと荷物がある。
薄暗いシャッター前で、寂しそうに転がっている。
商売道具と生活品の一切が入ったカバンを道に放り出して場所を離れるなんて、無用心にもほどがあると思う。が、これは治安どうこうの問題ではなくて、僕の願いが込められた行為だった。
いつもの場所で、いつもの僕が唄う街角。
街がそれを望むなら、決してギターはなくならないと。
盗られるなら、むしろ現金の方だった。
ギターケースに10円玉を投げる傍らで500円玉を取って行こうとする、なんとも情けない現場に度々出くわした。僕がケースを外に向けなくなったのは、それからだ。
盗めば目立つギターや荷物を取っていく様な真似は、誰もやらない。


据わりの悪くなった折りたたみの椅子に腰掛けて、僕は誰にも分からない様に、目の前のビルに発泡酒を小さく掲げる。
今夜もここで唄わせてもらうため、ひっそりと、この街に挨拶をする。
譜面台を立て、ギターを取り出し、ハーモニカをひと鳴らしして行うチューニングも、すべてがいつもの夜だ。


夜の街は嘘くさい色付きの灯りに照らされて、それでも本物の人間が歩いている気がする。
タクシーを降りては、これから繰り出す店の算段をしている集団も、携帯電話を睨みながら歩くクラブ帰りの女の子も、もう3回も退屈そうに通り過ぎている派手な車も、誰もが楽しい時間を求めては、まだ夜を終われずにいるみたいだ。
誰もが楽しく過ごす事を夢見ながらも、楽しい場所にも時間にもありつけずに歩き続けているなら、この僕もまた、夜を終われない。


発泡酒はあっという間になくなり、僕は紙パックの清酒にストローを差す。
飲んだくれて唄う人間は、まだまだ古臭い人種をメインに数多くいるいるんだろうが、鬼ころしをステージドリンクにまでしているヤツは、僕くらいだろうか。
昨今じゃあ潔癖な世の中になってしまい、煙草も吸うし酒も飲む様な歌唄いは二流、三流に見られるんだろうけれど、ならば僕は四流以下の歌唄いでいい。街が楽しければ、僕も楽しい。ストリートミュージシャンなど自分勝手に唄っていると勘違いされることも多いが、僕は誰かの楽しさの中にこそ、癒されている。


「じゃあ金はもらうな」
と言われて、時に困るんだけど(笑)。


僕が欲しいお金は、高級車を乗り回す金でも、海外へ遊びに行く金でも、数十万円もするビンテージギターを買う金でもない。
飯を食えて、ほどほどに酒も飲めて、煙草代があって、そして眠りにつく場所があればいい。
それだけの金を欲しがるのは、それでも好きな事をやっている身の上では贅沢なんだろうか。


よく尋ねられる事のひとつに


「幾ら入るの?」


という質問があり、それは 「食べていけるの?」 という心配よりも純粋な興味らしいから、僕個人の話でよければ、ここに書こう。
ピンからキリまでというのが本当に正確な表現で、十数年に及ぶ活動の中で、最高金額ならば10万円に近い事もある。
それを言うと驚きと共に嫌な顔をされるのだが、それは十数年で1回きりの話だ。ゼロ、というのが2割を占める現状の中で、稼働日数で割れば、平均すると1日に3千円くらいじゃないだろうか。
長くなった街では、ほとんどそれくらいに落ち着く。


「それでも、1ヶ月で9万円でしょ」


と、またしても 「悪くないバイト」 の様に言われるが、それは1年365日休み無しが前提で、しかも天候も考慮に入っていない。何よりも、必ず入る給料ではないという感覚がない。ゼロが3日続けば、普通は根性も体力も尽きる。それを 「好きな事をやれている」 で納得するのは僕だけの理屈であり、他人が言う事ではないと思っている。
だから 「好きでやってるんでしょ」 と言われるのが、実は好きではない。


世の中のシステムは、さほど複雑じゃない。仰々しく、理(ことわり)と言ってもいい。どんな仕事も金をもらうには犠牲がある。
僕の分かりやすい犠牲といえば、タダ聴きだ。
タダ、というのは現金のチップに限らず、一言のねぎらいもない事だ。
酒の勢いでリクエストが入る夜の盛り場で、何でもかんでも金を出せなんて野暮な事は言わない。
けれど悲しい事に、散々あれこれ嬉しそうにリクエストしたにも関わらず 「まだまだ勉強不足だな」 と、もっともらしく言い訳をして10円も置かずに立ち去るいい歳をした大人の多い事。
お互いに初対面の人間同士が


「何やってるの」
「唄ってます」
「じゃあ、なんかやってみて」


という会話を経ているのだから、少なくともリクエストは、他人への頼み事だ。
他人に道を尋ねて 「ちょっと、分かりません」 と言われても、誰も 「不親切だ!」 とは怒らない。
まだ 「いくら払えばいいの?」 と聞かれれば 「いえ、気にしないでください」 と返す気持が、僕にはあるのに。
「頑張って」 とか 「よかったよ」 の社交辞令は、自分の気持も明るくすると思うんだけれど。
世間一般の商売じゃないから問題にならないが、寿司屋かラーメン屋でやったら、無銭飲食だ。
そういう人は、まずいラーメンを食ったら金を払わないんだろう。嫌なグルメだ。


最低だなと思うのは、今しがた歌をリクエストした人が 「ありがとう」 と言って財布を出すと、それを遮る人だ。自分の懐が痛む訳でもないのに。
そういう人は決まって


「この人のために、ならないから」


と言うのだが、チップはすごく僕のためになるのだ。だから、本当の事を言えばいいのに、と思う。
「もったいない! そんな金があるなら俺におごれ!」 と言えばいいのに。
ある種類の人間は、自分が得をする事が少なくなると、人が得をする事が悔しくなる。


楽しんだ人が、お礼を言ってくれる。
楽しんだ人が、チップをくれる。


その二つを、僕は差別して考えた事はない。
人によっては、現金というのは失礼だという考えもあり、小銭じゃ格好が付かないと思う人もいる。すごく申し訳なさそうに、空の財布を探っている人もいる。そういう時は、こちらも申し訳ない。だから、次にお会いできた時にでも、と僕は笑う。


何のために唄っているのかは分からない僕にも、誰のために唄えばいいのかを考える事がある。文字の如く、もう会えないかもしれない一期一会を日本中で繰り返し、たくさんの人に応援を受けてきた。
応援は、立ち止まってくれての笑顔であり、酔っ払いが笑いながら投げていく小銭であり、通りすがりの一瞬のうちに掛けられる声であり、大声で歌う僕に嫌な顔もせずに通り過ぎてくれる人々の心であり。


ごく稀に、僕の歌に不相応な大金を置いて行ってくれる人がいる。
それから、道の向こうから走ってきてはお金を入れて 「頑張れよ!」 の一言だけで帰っていく人。
実は、ギターケースに投げられるチップの中で、金額としていちばん多いのが、こういったお金だ。
そういう人に限って、こちらがお礼を言う間もなく去ってしまう。
なんとも、ありがたい人達だ。


こう書くと、やっぱりお金か、思われてしまうだろう。
それでも僕は、唄っても唄っても一銭にもならず飯も食えない日々に、そういった人達への思いで唄い繋ぐ事がある。
そのチップは、僕の歌への正当な評価ではないかも知れない。
ただ、夜の盛り場で唄っては食い繋いできた僕自身の事は、認めてくれているのだ。
大袈裟に言えば、生き様への評価だ。
そう信じる事で、誰も見向きもしない道端でも、幾夜も唄ってこられたのだと思う。




折りたたみ椅子に腰掛けて、ストローで日本酒を飲んでいる僕は、まだ唄い出さない。
午後11時を回って、いつもの着物姿の女性が静かに会釈をして通り過ぎ、いつもの893ナンバーの真っ黒な車が盛大なクラクションで走り過ぎ、隣に立てかけたギターが、不意に夜風で音を奏でる。風雨に打たれ、雪にもやられ、ボロボロの、だけど僕のすべてを見続けてきた、たった1本のフォークギター。


僕は煙草を灰皿に押し付け、ようやくでギターを握る。
街にはまだまだ。声と光が溢れている。


さあ、いつもの夜が始まる。


函館

小樽、札幌は何回も訪れていたけれど、函館は初めてだった。
理由は、やはり移動手段の偏りか。
一気に動いて一気に戻る、という船旅に慣れてしまい、ついついスッ飛ばしていた函館だ。
慣れというのは安心感でもあり、新しい事にチャレンジする気持ちを忘れると、それはたちまち慢心と臆病に変わる。


昨夜の八雲で、臆病を振り払った僕。
何もないと感じた所から、偶然を自力で掴み取ったという自信は大きかった。
「今なら何でも出来る」 という万能感に支配されるのは良くないけれど、未知のものに立ち向かう時に、モチベーションは大事だ([ひ]~ちゃん関係者談)。


さてさて。
無人駅のトイレのヒーターでモチベーションをギリギリ保った僕は、乗客のそう多くない始発で函館へ南下した。
通学の学生や出勤の方々に混じると、すぐに場の空気を変えてしまう大荷物の旅唄い。
天気はすこぶる良く、またしても函館本線の心地よい魔物に捕らえられてしまい、一睡もしてないので、ウトウトがスヤスヤに変わる。
しかし、それを許さないうちに列車は終点の函館に着いた。

函館駅は、視野の開けた東側の国道と、海に挟まれていた。
残念ながら大きな改装工事でも行っている様子で、全体像が分からなかった。
ただ、歴史、とまでは重厚さを感じないが、どこか発展に取り残された駅前商店街と路面電車の停留所の佇まいが、懐かしさに似た気持ちを呼び起こす。
港町。きっと、好きな町だろう。
駅を北へ上がっていけば、連絡線の消えた今もなお青函を結ぶフェリーの往来する函館港がある。明日はきっと、お世話になる。

とはいえ、まずは今日の事。とにかく、どこかで身体を休ませたかった。
夜と違ってうららかな陽気の函館だったが、右も左も分からない町で、適当に休みながら(眠りながら)時間を潰す方法が見当たらない。
なので、例によって公衆電話のタウンページ。

いつもの如く、飲み屋街を探す。

嬉しい事に、スナックの欄はズラリと番号が並んでいた。

珍しくメモを取ったのは、あまりの眠さに記憶力が低下している事を自覚していたからだ。
そしてもうひとつ、明日から本州に南下するための予備知識を得るため、手っ取り早くネットカフェを探した。6年以上経った今となっては、町名も忘れた。たぶん、花、という字が入った町名だった。
駅前の大きな地図で、飲み屋街と思しき地名をいくつか確認する。
有名な五稜郭から、そう遠くない位置にありそうだ。
恐らく、夜にテクテク歩いていたらすぐに分かりそうだった。なので、こっちは後回し。
次に、ネットカフェ。
こちらはずいぶん、遠くなりそうだ。
路面電車に乗るか。

結局、知らない町で知らない路面電車に乗るくらいなら歩いてみようと思い立ち、僕は市電に沿ってしばらく進んだ。
歩いて、見る。それが旅の基本だろう。
『どつく前』 という行き先の市電が否応なく気になったが、どうも行き先が違う。
どつく前は、たぶん函館ドック前。

駅前にまず見えるのは、松風町の大門商店街
なんと大門!(※津市 参照)。
それこそ、開拓移民の時代から商業を営んでそうな店舗が軒を連ねる、時代を切り取った様な商店街だった。
松風町って、すごく素敵な名前。

通りの向こうにサウナの文字を発見したので、これは、と思いちょっと覗いてみた。
が、どうにも営業してるっぽくない・・・。
調べ物もあるしさ、という大義名分でごまかし、僕は遠くネットカフェへの道のりへ舞い戻る。
翌朝に歩いたら、実はしっかり営業していたサウナ。

「くそっ。明日の青森よりも目の前の事をもっと調べてりゃ良かった」

と後悔したのは、ネットカフェまでの道のりが恐ろしく長かったからだ。
住宅地をすり抜けたネットカフェに汗だくで辿り着いたのは、90分後。


このブログを書きながら調べてみたが・・・僕が探し当てたネットカフェは、恐らく花園町の自○空間というネットカフェ。
五稜郭まででも3キロ近くあるのに、そこから更に倍ほど歩いた産業道路沿いの、地図で確認するところのラサール高校が見える辺りなのだ。
そうだ。なんか学校が見えたのを覚えてる。

「週明けの産業道路に荷物を投げて~」

と唄ってるのは、僕の『ささやかな渋滞』だが、たぶんその歌詞の元になったのは、ここか熊本だ。
ダラダラに汗をかいて

「これで店内に入ったら、さすがに嫌がられるよな」

と思い、汗が引くまで道端で座り込んでいたのだ。
コンビニで缶ビールを買ってヘラヘラしてたら、道行く車の窓から不思議なほどにジロジロと見られた。

いやあ。思い出した思い出した。
調べてみるもんだ。


さあさあ。
ネットカフェには無事に入ったものの、歩き疲れて缶ビールなんて飲んだヤツが調べ物などするはずもなく、よく寝て気がついたら終了時間。
また、あの道を歩くのか。トホホ。

それでも体力は回復したので、まだまだ明るい空の下、今度は繁華街を探す。
五稜郭公園の緑が眩しい。

さすがは観光地なので、あちこちに目印や案内図があって便利だ。
それを見ながらテクテク歩く函館。迷いようもない。
と思ったのに、なぜか目的地とズレてゆく雰囲気。

函館の道。
どこか違うと思っていたら、放射状、同心円状の道が多いのだ。
同じく北海道の札幌や、京都の町ならば、碁盤の目の様に道が交差する。
真っ直ぐ歩いて真っ直ぐ曲がれば、脳内地図は位置を誤る事がない。
しかし、微妙に曲がり行く1本道を頼りにすると、いつの間にか目的地から離れてゆくのだ。
そりゃ、どこの町でも一緒なんだろうけど

曲がってるのに曲がってる感じがしない

というのが、函館の罠だった。
すでに駅前サウナの罠に引っかかっている事を、この時点では知らない旅唄い。

目的地付近である五稜郭公園入り口の十字街には、到着した。
午後の4時過ぎくらいだったろう。
北海道で有名な丸井今井デパート付近は、やはり賑やかだ。
放課後の学生や、ショッピングの女性、まだまだビジネスの方も多く歩いている。
それでも1本裏手に入っただけで急にひっそりとした道が現れるのが面白い。
散策が楽しい街。

今夜、僕が唄おうと思っているのは、五稜郭公園前電停からひとつ手前、中央病院前電停の裏道だ。
裏道とはいうが、僕が唄うからにはメインストリート。紛う事なき夜の王道。
昨日の失態を避けるため、今日ばかりは明るいうちに歩いてみたが、良い通りじゃないかと思う。
車1台しか通らない感じが、米子の朝日町通りを髣髴とさせる。
名前も知らないその通りにネオンが灯るのを、僕は待った。

陽が落ちた。
昨日、八雲で固めた決意だが、さすがに緊張してくる。
良い通りだとは思ったが、すんなり唄わせてくれるとは思わない。
さっき通った地下道からはギターと歌声が流れていたので、函館に路上シーンがない訳じゃない。
デパートの前で唄ってるのも、遠くから見えた。
だからといって、飲み屋街での演奏が「あり」なのか「無し」なのか、それは出たとこ勝負だ。
僕は、遠くに地下道の演奏を聞きながら、表通りのガードレールに腰掛けて、ウイスキーをあおっては時間を待った。

今からまさに飲みに行くぞ、という団体が、数多く通り過ぎて行く。
そのうちの3割ほどが、だんだんと僕の唄う通りへと流れ始めた。
頃合いだろうか。
と思った矢先

「お、ストリートミュージシャンか」

とは、通りがかりの団体さんからの声。

「ええ。旅しながら唄ってるんですけど、今夜は函館でお世話になります」

そう僕が返すと、珍しく興味津々に質問してくる真っ赤な顔の男性。

「おお、そうか。函館はミュージシャン多いからな。地下か? 向こうか? 後で聴きに行ってやっから」

そう言って本当に来てくれる人は数少ないが、悪い気はしない。
なので僕は

「いえ。そっちの、裏の飲み屋街で唄おうと思ってるんですが」

と、答えた。
すると途端に男性は

「そりゃあ、やめた方がいい!!」

と、半分笑いながら驚いた。
これには僕も驚き、やっぱ危険地帯なんかなあ、米子もヤクザ多かったしなあ、と躊躇し始めた。

「やっぱ、まずいですか?」 と尋ねれば

「う~ん。向こうで皆と唄えば?」と答える。

見知らぬ街への緊張感には、八雲でもらった元気も空気が抜けていく様だ。
しかし、今夜はやらねば。
漁師のお母さんにきちんと唄えなかった心残りは、ここでしっかりと唄う事でしか果たせない。
僕は、半笑いの男性に、もう一度だけ食い下がった。

「好きな感じの通りなんですがねえ。危ないんですか」

男性は、やっぱり同じ様に笑いながら答える。

「そりゃ、よっぽど上手いなら別だけど」

そうか・・・。



なんだ いいじゃん ( ´,_ゝ`)オイオイ


「まあ、頑張って」

と去って行く男性に頭を下げ、僕はギターケースを抱えた。
ちょっと酒が足りないのが心配だが、唄いに行こう。


すぐにビールが来た(爆)。
裏通りの、更に裏路地へ入りそうな店舗の横で座り込んだ僕にグラスのビールを持って来てくれたのは、3軒ほど隣のお店。
お礼を言って、帰りにグラスを返しがてら寄る事にした。

その後も、思ったより数多くの人が立ち止まってくれた。
聴いてくださった地元の方に尋ねてみると、数年前までは、唄ってる人がいたらしい。
すごい上手かったよなあ、と、誰もが噂する。

「すみませんね、そんな場所で唄って」

と、さすがに恐縮したのだが いやいや兄ちゃんぐらい唄える人ならいいよ と言ってくれた。
僕が上手いと思っているのは、半分は歌であっても半分は選曲なのだ。
真正面から 「歌が上手い」 と言われて、どんな歌唄いも嫌な気分になるものか。
そんな良い雰囲気で、かなり長時間に渡って唄えた。

後で店に呼んでもいい? と言ってくれた方がいたが、どうやらタイムアップなので、函館の夜は唄い収めにした。
午前1時半。
荷物をまとめ、ビールを差し入れてくれたお店にグラスを返しに行く。
だいぶ余裕が出来たので、1、2杯飲ませてもらおうかと思う。

コンコン、とドアを開けると、いらっしゃい、と静かな店内。
あれ・・・?

「これ、頂いたんですが・・・違いますよね?」

「ええ、違います(ニッコリと)」

間違えた、隣だった。クラブMARIA
再び、コンコン、とドアを開けると いらっしゃ~い! と賑やかな店内。
ご馳走様でした、とグラスを返すや否や

「ちょっと座って行ってさ~」

と、山本リンダ似の色っぽいママさん。
僕もそのつもりだったので、荷物を置かせてもらい、先にトイレを借りた。
素敵な函館だったが、難を言えばコンビニもなく、トイレをどうしようか悩んでいたのだ。
飲む体制を万全にして、着席。

「アタシ、こういう人好きなのさ~」

と、ビールを注いでくれたママさん。

クラブMARIAの丸いカウンターには、お客さんと女の子たち。
せっかくなのでとリクエストを頂き、唄わせてもらう。
お客さんも若いのに落ち着いた方が多く、すごく真面目に聴いてくれた。

程なく落ち着いて、また飲み始める旅唄い。
ママさんは良い感じに酔ってるがベロベロでもなく、逆に真面目な面持ちで話しかけてきた。

「アンタが良かったら、しばらく店の前で唄ってもらっていいよ~。きちんとイス置いてよ」

本当に嬉しい言葉だ。
路上で唄っている人間なら、その大きさは分かるはずだ。

だけど、僕には自信がない。
お店の名前を背負って唄うというのは、難しい。
とても名誉に思うが、内情は単純じゃなかった。経験は、いくつかあった。
それぞれに色んな思惑があり、ただ唄いたいだけの僕は、いつもその思惑に応えられなかったのだ。

それに僕は、急いでいた。
もっと、日本中を唄い回りたかった。
いや。唄う事はすり替えだったかも知れない。
何か、動き回る事でしか紛らわしきれない気持ちを抱えて、僕は唄う旅を続けていた気がする。
逃げていると呼ばれても仕方がない行為だ。

だけど、ただひとつ。
何かの代替行為として旅を続けていたのだとしても、唄う事そのものは僕に厳しかった。
決して、逃げ込めるような生温い行為ではなかった。

他人と自分とを
言葉と生き様とを
雨と太陽とを
疲れと眠りとを
気温と気圧とを
季節と温もりとを
短くなるタバコの先端を
待つ人のいた時間を
待つ人もなく迎える帰郷を

そのどれもを、決してごまかしてはくれなかった。
それはいつも、僕の喉元に突きつけられていた。

家のないお前は、さあどうする?
最後の小銭も失くしたお前は、さあどうする?
誰も見向きもしない事を、さあどうする?

唄う事は、いつも現実を突きつけてくれた。
そういう意味で僕の 『歌そのものとも言える旅』 は、夢なんかじゃなく現実だった。

函館で、最後のグラスを空ける。

僕は、何度もお礼を述べた。
頑張ってねぇ、とママさん。
お礼のつもりで来たのに、チップをもらって店を出る僕。
また、きっと来ます。
そう言っては、それっきりの函館。
そういう事だ。
そういう事を、僕は平気で覚えている。
一期一会なんて、夢のまた夢。

返しきれない心が、いつまでもいつまでも、日本中に置き去りのままだ。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
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