前回に引き続き、大阪府は茨木市の話をしよう。
池上朝士と書いて 『いけがみ ともひと』
今回の主役は、彼だ。
断っておくが、実名だ。
この場に名を出す事は、彼に知らせていない。
「それはマナーとしていけないんじゃないか」と言われてしまうと、その通りだとしか答えられない。
しかし、今となっては彼に知らせる術もないのだ。
彼は茨木での最も親しい友人であったにも関わらず、僕は連絡を途絶えさせてしまったから。
もしかしたら連絡が・・という思いを込め、あえて実名にさせてもらった。
大阪に移り1週間ほど。
まだまだ慣れない土地で、僕は路上演奏者が多い阪急電車の駅付近を避けて、ガード下なんかで唄っていた。
小樽の花園銀座に近いところもあるが、なんせベッドタウン。どうにも通行人の目が痛々しい。
駅から離れた交差点に、いいな、と思う場所はあったのだが、路上駐輪が多くて無理そうだった。
違法なんだから力ずくで動かせばいいものを・・・今も昔も、僕は肝の小さい男だ。
何を唄っていたかは思い出せないが、とにかく引っ切り無しに真上を通る電車のゴーゴーという音に負けない様、がなっていた。
自分でも思うくらいに、路上で唄い始めた初期の頃の様に尖った唄い方だった。
そんなふうだから誰も立ち止まりはせず、僕は思う存分に落ち込めた。
本気で落ち込む事は、僕の歌にとって決して悪いことじゃない。
それは時に、立ち上がる力になってくれる。
電車との格闘も次第に僕へ軍配が上がり始める23時頃、彼は通りかかった。
もう思い出せる人も少ないと思うが、今ではラーメン店をプロデュースしている河相我聞(かあい がもん)によく似た、甘い顔のお兄ちゃんだった。
ついでに、手にしていたのは缶ビールだった。
「すごい所で唄ってますね」
最初の言葉は、多分そんなだったと思う。
普段なら「すごい」というのが皮肉に聞こえて イラッ とくる言葉なんだけど、彼がその顔で言うと許せた。
しかもそれは皮肉でもなんでもなく「僕の声はすごくその場に合ってると」いう解説付きだったので、完全に許せた。というより嬉しかった。
それは何も、手にしていた袋から
「よかったら・・」
と、缶ビールを分けてくれたからじゃあない。
ギターが好きで、長渕剛や山崎まさよしを好むという彼は、近場のビール工場で働いてるらしい。
黒ラベルで有名な、あのメーカーだ。
「明日、一緒にやってもいいですか?」
と聞かれたので、時間と場所を確認して別れた。
その日から彼と僕は、1週間に4日は一緒に唄うという、半ばユニット的な仲間になるのだった。
翌日。
例の違法駐輪が多い富士銀行の角で待ち合わせていたのだが、彼はすでに姿を現していた。
僕は、デートの待ち合わせに遅れた彼氏みたいに恐縮して挨拶した。
それにしても1人が2人になるというのは気持ちの上でも大きな違いで、僕らは自転車を押しのけて、早速自分達のスペースを確保した。
彼の持っていたギターがタカミネだったかギブソンだったかすら忘れたのだが、良いギターだった。
分かりもしないのに『良いギター』なんて無責任な話だが、申し訳ない、僕は本当にモノに対して無頓着なんだ。
無頓着過ぎて、ギターを盗まれた事もある程だ。
ギターを弾く人間として、決して褒められた事じゃない。
そんな話は自分への戒めとしてさておき、彼のギターテクニックはすごかった。
半分、呼ばなきゃ良かったと思った程に。
なのに気さくな彼は、大雑把な僕のギターの弾き方を
『かっこいい』
なんて言ってくれるものだから、僕の中で池上株は上昇を続けるのだ。
最初の頃は、毎晩を唄った。
そんな時、1日ごとに馴れ合うのが路上ミュージシャンの常なのだが、僕らの場合は違った。
僕の方が一方的に馴れた。
彼は年上の僕にどう振舞っていいか分からない様子で、ある程度の距離を置いていた。
なのに僕の事を呼ぶときは二人称も使わず
「自分さあ・・」
とか呼んでいた。
関西では多い呼びかけだが、心の中では「へ~、なんか近くて遠い奴だな」なんて感じていたのも確かだ。
そうそう。
彼との路上演奏の中で培われて今に続く
『酒を飲みながら唄う』
という、画期的な事が当然になったのも、この時からだ。
僕らはビールがなくなると、すぐに買出しに行った。
冬になると、缶の底をペコッと押して1分間でお燗が出来るお酒を飲み始めたのもこの頃からだ。
路上演奏が終わった後に実入りの多い時は、斜向かいのバーに飲みに行った。
こう書くと、何だか飲んでばかりの様だが、歌もしっかり唄っていた。
長渕剛、しかもデビュー間もない長渕剛の曲が共通点だった僕らは、よくハモっていた。
その当時にハモり、しかも長渕剛をハモるなんて異例の事だったので、評判は良かった。
気を良くした僕らは、次第にライバルの多い阪急茨木市駅にまで足を伸ばしていった。
阪急茨木市の駅は広く、ホームが2階にあった。
東西(南北と呼んでも差し支えない方角だったが)へ抜ける連絡通路は上にも下にもあり、利用者はとりあえず中央の改札を抜ければ問題ない。
だからこそ、その中央の改札を通った乗客のほとんどが降りてくるエスカレーターの、まさに目の前で唄う僕らは、とんでもない奴らだったろう。
僕は今とほとんど変わらぬ枯れた感じのがなり声で、池上は逆に、顔の如く甘くて高い声だった。
それが相まって絶妙にハーモニーを作れた時は、それはもう酒が進んだ(やっぱ酒か)。
たまに駅の方から苦情が出たが、出る時と出ない時の違いが分からないので、やっぱり唄っていた。
屋台のラーメンで温まったり、早抜けした後に他のパンクミュージシャンの所に顔を出したり、時には向こうが顔を出してリクエストをくれたり、僕の路上演奏生活の中で、最も社交的な時代だった。
僕はそこで『オザキの人』になり、池上もまた『ナガブチの人』になった。
そんな風に、彼との路上演奏は楽しかった。
前回出のKちゃんも僕と池上との路上を好きだったし、池上は彼女を紹介してくれたり、路上演奏の他でも親しさが増していた。
池上は僕の作った『置き去りの夏』という曲が大好きで、彼の勤めるビール工場のお祭りで唄ってくれたらしい。
その切なくて甘いメロディーは、僕より彼に似合っていると思った。
楽しい時間ばかりが過ぎれば良かったが、彼と別れる日も近かった。
ものすごく悔しいのは、その時の事をよく思い出せない事だ。
理由は恐らく、池上の転勤だったと思う。滋賀じゃなかったろうか。近江八幡の話をした気もする。
それから彼はその直前に、可愛い彼女と結婚していた気もする。
親しいとはいえ、僕は披露宴に顔を出していない。
だから余計に混乱するのだ。
彼の披露宴に行けなかったのは、僕が広島に戻ったからなのか、それともただ金のない僕を二人が呼べなかったのか、はたまた彼が転勤した後だったのか。。
思い出せないのは、僕の自己防衛かも知れない。
その頃Kちゃんに『ギターかアタシか』と選択を迫られたり、今も続く心の変調を感じ始めた頃だったから。
思い出したくない事が、大阪に集まってしまうのだ。
とにかく、覚えている事だけを書こう。
むしろ、それだけで十分だ。
小奇麗な彼の部屋に招かれた日。
彼女さんもいた。結婚していたなら、奥さんだ。
持て成しは、きっと彼の好きな餃子鍋だったろう。
池上は、僕に(Kちゃんも含めて)贈り物をくれた。
『サミクラウス』という、サンタクロースの名を持つベルギーのビールだった。
ギネスブックに載るほどアルコール度数の強い黒ビールで、4本あったろうか、それをくれた。
保存して熟成させればもっと度数が上がり美味しくなるというそのビールを1本開け、皆で味わってみた。
強い甘さと苦さが口に広がり、僕達は美味いとも言えず「まだ若いのかな」と笑ってみた。
そして
「10年後に、また一緒に飲めたらいいね」
という言葉で、僕らは別れた。
それきりだ。
一度、手紙をもらった事があるので、連絡先は教えたのだろう。
僕が年賀状なり、書いたのか。はたまた、電話か。
手紙の内容は、こんな風だった。
~ 今度、友達の結婚式で唄います。是非、幸さんに曲を書いて欲しいのです。
長渕の『乾杯』を超える奴でお願いします ~
「自分さあ・・」 とか呼んでた奴が、物を頼む時に限って『幸さん』だなんて!
しかも名曲『乾杯』を超えろだなんて!
そう苦笑いしながらも、嬉しかったので引き受けた。
カセットテープと歌詞を一緒に送った。
そして今度こそ、これきりだ。
10年後に飲もうと言ったビールは、もう僕の手元にはない。
Kちゃんも、いない。
長いような短いような歌の旅の中で、沢山の人達と出会っては別れた。
だけどいつも、再会の方法はあったはずだ。
なのにすべてを置き去りにしてあらゆる町を飛び出してきた僕に、もうその方法はない。
たまには本気で自分を恨めばいいのに、それさえしない。
池上朝士と書いて 「いけがみ ともひと」
今も変わらず、黒ラベルを飲んでるだろうか。
僕と同じく歳を重ねてオヤジと呼べる様になった今も、時々、ギター片手にその辺で唄っているだろうか。
約束のビールはなくなってしまったが、もしも会えたら、たまに出る愛知訛りで
「自分さあ、老けたが~」
なんて言ってくれるだろうか。
約束のビールはないけれど、僕は今夜、君を思い出しながら、黒ラベルを飲んでいる。
サミクラウスよりも甘くて苦い、遠い思い出の味がするよ。
Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=34.894942,135.572662&spn=0.267513,0.438766&z=11
茨木 その1
まだまだ路上2年生の頃。。。
広島で始まった僕の路上演奏だったけれど、一箇所に長く滞在すれば誰もがそうある様に、いつしか馴れ合いとしがらみに嫌気が差していた。
いつも5~6人が集まっての一種暴走状態だった広島・流川の路上演奏には、いい大人の酔っ払い以外にも、若い女の子がやって来たりしてた。
Kちゃんも、その中のひとり。
地元広島のKちゃんは、だけど通っていた高校をわざわざ大阪の高校へ移し、一人暮らしをしているという。
半ば冗談のように
「俺、大阪に行こうかな」
とボヤいた僕に、Kちゃんは
「だったらウチに来ればいいよ」
と、十代の少女特有のあっけらかんとした口ぶりで言った。
でもそれは実のところ、僕も期待していた言葉だった。
当時27歳の僕と、17~18歳の彼女。
身内には『犯罪』と呼ばれた同居生活が、夏の終わりの大阪で、市内から北へ離れたベッドタウン、茨木市で始まった。
茨木市は、僕の生まれた1970年に大阪万博の開かれた都市だ。
万博のシンボル『太陽の塔』のモニュメントで有名な、故・岡本太郎氏と誕生日が同じ僕には、何か運命的なものを感じた。
27歳の僕でさえ、まだギリギリその程度の事にも運命を感じられる歳だった訳だ。
ティーンエイジャー真っ盛りのKちゃんにとっては、尚の事だった。
「大阪、ええ街なんよ~」
と、広島弁のまったく抜けない口調でしきりに言ってたのを覚えてる。
でも彼女が住んでたのは、そんな万博記念公園へと続くJR線から東へ1キロ離れた、阪急茨木市の駅に近く、僕の演奏拠点はそこに決まった。
第一次ストリートミュージシャンブームとでも呼ぶべきその時代。
茨木市駅前は、ストリートミュージシャンが常時5~6組は演奏していた。
まだまだ『ゆず』も『19』もデビューなんかしてなくて、どのミュージシャンも演目は大抵『ナガブチ』か『オザキ』か『ブルハ』 (順に、長渕剛、尾崎豊、ザ・ブルーハーツ) だった。
オリジナルを唄う人間は少なく、演奏レベルも歌唱レベルも、まだまだセミプロかそれ以下ばかり。
よって、歌唱力だけには定評のある僕は次第に地元ミュージシャン達にも一目置かれるようになり
『オザキの人』
という、光栄極まりない通り名を頂いた。
ちょっとだけ、いたたまれなかったが。
Kちゃんはといえば束縛時間の少ない高校だったため、週のほとんどをバイトに費やしていた。
とはいえ、そこは十代の女の子。親からの仕送りもあった様だが、それだけでは遊びきれないのだろう。
ただし、Kちゃんの名誉のために書くのだが、彼女は決して当時大流行のコギャルではなく、なんだか素朴さの溢れる元気な少女だった。
遊ぶと言っても友達とプリクラを撮ってまわるだけだったり、カラオケで8時間唄い通したと疲れ果てて朝帰りしたりの、僕から見れば他愛もないものばかりだった。
その頃は夜のバイトだったため、僕の路上演奏にも滅多に顔を出さなかったし、何よりも
『自分が隣にいたら、人が寄れないんじゃないか』
と気にするほど、僕の路上演奏を大切に考えてくれていた。
そんな彼女だったからこそのエピソードがある。
ある日、Kちゃんが僕の事を、嬉しそうに友達に話したらしい。
え~、同棲してんの~! とか、チョー年上じゃない~? とか(想像)、ワイワイと話していたのだが
「ストリートミュージシャンで、お金を稼いでるんだよ」
と、Kちゃんが話した時から
「それって・・・なんか・・・あんたが養ってるんじゃ」
と、友人達の顔色が変わった。
そのひとりが
「パチンコが仕事って言ってる人と同じじゃん!」
と禁断の発言をしてしまったのだ。
今の僕なら「そうですねえ、楽な仕事です~」と笑えるのだけど、後半とはいえ20代の僕には辛い言葉だ。
Kちゃんにしてもそれは同じ事だった様で、部屋に帰ってその話をしながら、悔しそうに
「皆、ミユキさんの事を全然わかってない」
と呟いた。呟いてくれた。
なんとなく好きだからと、広島を出るために半ば彼女を利用してしまった僕は、嬉しかったと同時に、心から申し訳ないと思った。
僕の中にも確かにあったコンプレックスを、彼女の前ではもう見せないようにと決めた。
でも、若さは気まぐれ。
時は流れて1年。
「アタシの事が本当に好きだったら、ちゃんと働いてよ!!」
とは、同じくKちゃんの言葉(笑)。
大阪と言えば、梅田でも道頓堀でもなく、茨木市。
僕にとっては、今も変わらない。
そうそう。
茨木で会った、大事な男の話をまだしていない。
次回は珍しく『茨木編その2』にしてみよう。
では、また次回。
Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=34.894942,135.572662&spn=0.267513,0.438766&z=11
広島で始まった僕の路上演奏だったけれど、一箇所に長く滞在すれば誰もがそうある様に、いつしか馴れ合いとしがらみに嫌気が差していた。
いつも5~6人が集まっての一種暴走状態だった広島・流川の路上演奏には、いい大人の酔っ払い以外にも、若い女の子がやって来たりしてた。
Kちゃんも、その中のひとり。
地元広島のKちゃんは、だけど通っていた高校をわざわざ大阪の高校へ移し、一人暮らしをしているという。
半ば冗談のように
「俺、大阪に行こうかな」
とボヤいた僕に、Kちゃんは
「だったらウチに来ればいいよ」
と、十代の少女特有のあっけらかんとした口ぶりで言った。
でもそれは実のところ、僕も期待していた言葉だった。
当時27歳の僕と、17~18歳の彼女。
身内には『犯罪』と呼ばれた同居生活が、夏の終わりの大阪で、市内から北へ離れたベッドタウン、茨木市で始まった。
茨木市は、僕の生まれた1970年に大阪万博の開かれた都市だ。
万博のシンボル『太陽の塔』のモニュメントで有名な、故・岡本太郎氏と誕生日が同じ僕には、何か運命的なものを感じた。
27歳の僕でさえ、まだギリギリその程度の事にも運命を感じられる歳だった訳だ。
ティーンエイジャー真っ盛りのKちゃんにとっては、尚の事だった。
「大阪、ええ街なんよ~」
と、広島弁のまったく抜けない口調でしきりに言ってたのを覚えてる。
でも彼女が住んでたのは、そんな万博記念公園へと続くJR線から東へ1キロ離れた、阪急茨木市の駅に近く、僕の演奏拠点はそこに決まった。
第一次ストリートミュージシャンブームとでも呼ぶべきその時代。
茨木市駅前は、ストリートミュージシャンが常時5~6組は演奏していた。
まだまだ『ゆず』も『19』もデビューなんかしてなくて、どのミュージシャンも演目は大抵『ナガブチ』か『オザキ』か『ブルハ』 (順に、長渕剛、尾崎豊、ザ・ブルーハーツ) だった。
オリジナルを唄う人間は少なく、演奏レベルも歌唱レベルも、まだまだセミプロかそれ以下ばかり。
よって、歌唱力だけには定評のある僕は次第に地元ミュージシャン達にも一目置かれるようになり
『オザキの人』
という、光栄極まりない通り名を頂いた。
ちょっとだけ、いたたまれなかったが。
Kちゃんはといえば束縛時間の少ない高校だったため、週のほとんどをバイトに費やしていた。
とはいえ、そこは十代の女の子。親からの仕送りもあった様だが、それだけでは遊びきれないのだろう。
ただし、Kちゃんの名誉のために書くのだが、彼女は決して当時大流行のコギャルではなく、なんだか素朴さの溢れる元気な少女だった。
遊ぶと言っても友達とプリクラを撮ってまわるだけだったり、カラオケで8時間唄い通したと疲れ果てて朝帰りしたりの、僕から見れば他愛もないものばかりだった。
その頃は夜のバイトだったため、僕の路上演奏にも滅多に顔を出さなかったし、何よりも
『自分が隣にいたら、人が寄れないんじゃないか』
と気にするほど、僕の路上演奏を大切に考えてくれていた。
そんな彼女だったからこそのエピソードがある。
ある日、Kちゃんが僕の事を、嬉しそうに友達に話したらしい。
え~、同棲してんの~! とか、チョー年上じゃない~? とか(想像)、ワイワイと話していたのだが
「ストリートミュージシャンで、お金を稼いでるんだよ」
と、Kちゃんが話した時から
「それって・・・なんか・・・あんたが養ってるんじゃ」
と、友人達の顔色が変わった。
そのひとりが
「パチンコが仕事って言ってる人と同じじゃん!」
と禁断の発言をしてしまったのだ。
今の僕なら「そうですねえ、楽な仕事です~」と笑えるのだけど、後半とはいえ20代の僕には辛い言葉だ。
Kちゃんにしてもそれは同じ事だった様で、部屋に帰ってその話をしながら、悔しそうに
「皆、ミユキさんの事を全然わかってない」
と呟いた。呟いてくれた。
なんとなく好きだからと、広島を出るために半ば彼女を利用してしまった僕は、嬉しかったと同時に、心から申し訳ないと思った。
僕の中にも確かにあったコンプレックスを、彼女の前ではもう見せないようにと決めた。
でも、若さは気まぐれ。
時は流れて1年。
「アタシの事が本当に好きだったら、ちゃんと働いてよ!!」
とは、同じくKちゃんの言葉(笑)。
大阪と言えば、梅田でも道頓堀でもなく、茨木市。
僕にとっては、今も変わらない。
そうそう。
茨木で会った、大事な男の話をまだしていない。
次回は珍しく『茨木編その2』にしてみよう。
では、また次回。
Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
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