秋田

 久し振りに更新を思い立ったのは、秋田の知人が新潟を訪ねてくれたからに他ならない。
 現在、令和元年の水無月だ。なんという放置状態だったろう。ただ、そのおかげで秋田での記憶が呼びさまされたのも確か。十七年ぶりの記憶を呼び起こしてパソコンへ向かっている。

 今を去ること2003年。青函フェリーで北海道を脱出し、青森は弘前で奇跡を起こし(ブログ未出)、秋田へと移動していた。何の予備知識もなく駅前に降り立ち、寂しい通りを見つめながら、

(飲み屋街ないなあ)

 と呟いたのは覚えている。
 それもそのはず、秋田の飲み屋街は駅前ではなく駅から西へ800メートルほどの川向こうだったのだ。そしてそれを探し当てたのは僕の旅唄いの嗅覚……と言うよりは暇だからだ。暇に任せて歩いていたら飲み屋街に出た。

 さて、その頃の僕はネットで知り合った大阪のお姉ちゃんとの約束である、

『富山の街を見て来て欲しい』

 という言葉に縛られていた。何が何でもと縛りつけられていた。なんでも、亡くなった父親の故郷だったらしい。なのでそこまでの日本海側はすっ飛ばすつもりでいた。弘前で二万五千円も稼いでいた僕は、それくらいすっ飛ばせると思っていた。
 そんな感じなので日暮れを待って出直した大町でも、

(こんなもんだろう)

 と周囲を見渡し、何の根拠もなく一軒のビル前へ腰を下ろしていた。大通りだし人は歩くだろうと思っていた。今、思い出しても前日の弘前で日曜宿泊を決め込んでいたから月曜だったのは確かだ。

 とりあえず必勝アイテムの鬼ころしを二つ用意し、譜面を用意し、その頃から一曲目に決めていた辻仁成の『サボテンの心』という曲で唄い始めた。
 暇を持て余していたので、時刻はまだ午後八時台だったろう。が、まばらな通行人は胡散臭げに眺めてゆくだけだった。その頃は看板を出していたので、ギターケースに立てた

『広島の旅唄い・手塚幸です!!』

 さえ目にしてくれればと念じながら小一時間、唄い続けた。が、入ったのは腰の曲がったおばあちゃんが入れてくれた五十円のみで、一向に客足は止まらない。それどころか避けて通ってゆく。

 これはもう深夜帯の酔客に賭けるしかないかと歌をパラパラ繋ぎ、気が付けば零時になっていた。酔客の帰宅ラッシュさえなかった。気を落とした僕は、秋田で唄った証だけを胸に川反通りを撤退した。トボトボと歩く空の下、小雨が降っていた。
 駅前にはインターネットカフェの文字もあったし、弘前の稼ぎで一泊は出来る。そんな言葉でごまかしそうになる気持ちを奮い立たせたのは旅唄いの意地だったろう。
 駅前で一軒の居酒屋を睨み、大荷物を抱え、

(ここで唄えなかったら秋田の思い出はゼロに等しい)

 そんなことを考えて引き戸を開けた。途端に威勢よくかけられる「いらっしゃい!」の声。久しく聞いていなかった、人の温もりの溢れる声だった。
 僕は「一人なんですが」と恐縮しながらカウンターへ座った。三つ離れた席では二人連れの客が談笑していた。僕は瓶ビールをもらい、注文もそこそこに笑顔の印象的な店主に切り出そうと思った。ここで演奏させてもらえないかと。

 が、僕はついにその言葉を口に出せなかった。なぜなら、

「兄っちゃ流しでねぁの? マスター尾崎豊大好ぎんだんて、何が唄ってけでよ」
 ~多分そんな感じ~

 驚いたことにお客さんがそのセリフを口にしたのだ。口ごもる僕に、「よかったら唄って。一杯奢るよ」とマスターも笑顔を見せる。
 僕は呆然とする間もなく、急いでギターを出した。マスターのリクエストで『15の夜』を唄い、今度はお客さんのリクエストで『卒業』も唄った。路上で感じられなかった手応えを遅ればせながら胸に、それから旅の話や歌の話でカウンターごと盛り上がった。
 結局、飲んだビールも酒も串焼きも一銭も払わず、二人連れからは千五百円のチップと、マスターからはパック入り2リットル入りの日本酒をもらった。

「また秋田来たらね」

 と笑顔のマスターに見送られ、気づけば足取りは酔っ払いのそれになっていた。
 すぐそばの二階にあったネットカフェは入ってみるとまるで普通のオフィスで、事務机を区切るパーテーションだけが空しく据えてあった。


 果たしてこれで眠れるだろうかと思った僕だったが、気づかぬうちに寝オチして、目が覚めたら床の上だった。床の上、視線の先にはマスターにもらった日本酒があった。




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