どこ、という訳でもなく

人の思いや親切を頂く事は多く、たとえばこのブログを書いてる今も、昨夜の路上で頂いたたこ焼きをつつきながら、発泡酒を飲みながらだったりする。
とか書くと、なんか即物的だな(苦笑)。

今回は少し趣向を変えて、街の住人を書いてみよう。


どの街に行っても非常に大きな問題は、唄おうとする周辺に誰がいるか。
誰、というのは客引きさんだ。
ポン引き、キャッチ、黒服、呼び込みと言い方はあれど、締め付けが厳しくなる一方の風営法を横目に、客引きさん達は毎晩、頑張っている。頑張ってる感じに見える事は少ないけど、頑張ってる。
ちなみに『ポン引き』というのは「はい! らっしゃ~い」と、ポンポン手を叩いて客を呼び込む所から付いた呼称だとか(追記:・・・というのは僕の情報不足で、ボンヤリした人に声を掛けて引き込むところから付いた名前だとか)。

僕は歌唄いであり、決して呼び込みではないのだが、客を引こうとする行為は同様に行ってる訳で、パワーバランスの整った繁華街に妙なギター弾きが突然現れると、周囲はけん制するのが当然。
街の自警団のような意味合いも持った、この方々。
唄い出す前の準備段階から、チラチラと様子を伺われてしまう。
そんな方々の視線をいっぱいに感じながら、小心者の旅唄いは胃が痛むのだ。

ただし案ずるより産むが易しで、ほとんどの場合は杞憂に終わり

「お? お兄ちゃん、流しか?」

などと気軽に声を掛けてもらう事が多い。

決して、その客引きのオジサンが地域をまとめてる訳でも親分でもないのだが、ひとつの場所で唄うのが1日や2日の旅の中では、そういった方に声を掛けてもらえるだけで十分に心強いのだ。

ここで興味深い事がふたつある。
ひとつは、これが歌唄いでなく未認可のアクセサリー売りなどの露店の場合は、即座にどこかへ連絡が行き、なんだか怖そうな人達との問答に変わる事。
歌唄いなんかは、きっと街の治安維持において問題にならないのだろう。
はたまた僕の選曲が『オヤジ殺し』の異名を持つからなのか。

そしてもうひとつは、若い客引きさん達はほとんどの場合、声を掛けてこない事。
特に嫌がってる風でもなく、かといって会釈さえする訳でもなく、中立的な感じが多い。
これは単に、世代の問題なんだろうか。
金にならない会話はしない、ドライな雰囲気がある。
もしくは僕など眼中にないか。

そんな訳で、初めての街で声を掛けてくれるのはオッチャンの客引きという事が多い。
そして僕にとってそれは、その街で唄うための重要なポイントになる。
興味本位で話し掛けてくれれば、それは幸い。

さて。
次に声を掛けてくれるタイプが、今回のメイン。
2番目に多いのは、なんと女性なのだ。

僕の路上演奏風景を1度でも見た事のある人は分かるのだが、僕の客はオヤジか悪そうな兄ちゃんが多い。
女性率は、非常に低い。
女性好みの曲が少ないのと、なんというか暗い雰囲気のせいだろう(くうっ・・・)。
なのに、しばらく唄っていると、女性から声を掛けられる。
それは大抵、こうだ。

「アナタ、ジョーズネエ」

別に「あなた鮫ね」と言われてる訳じゃない。
歌が上手ですね、と言われているのだ。
言い方がぎこちないのは、多分に異国の方なので仕方ない事なのだ。

そう。2番目に多いのは
中国人エステのお姉さん。

エステというより、マサージのお姉さんだ。
飲み歩く世の男性なら一度ならず聞いたことのある
「マサージ、イカガデスカ~」のお姉さん。
マサージはマサージ。決して、マッサージではない(はず)。

彼女らの勤務時間というのは非常に長く、そして厳しい生活状況の事が多い。
こんな道端で唄ってる貧乏臭い兄ちゃん(オッサンですが)に声を掛ける本意は何だ、といつも思う。
単純に暇つぶしかも知れないし、あわよくば客になるかも、と思ってるかもしれない。
彼女らはギターケースに千円札が2枚くらい入ってると

「アラ~、モウカッテルネ~」

と、臆面もなく興味津々の顔をする。
日本人は気になっていても、横目でチラッと盗み見る程度だ。
文化の違いか。

何にせよ、これもこれで、初めての街ではやり易さに繋がる、ありがたい話ではある。


道後温泉で有名な愛媛県・松山市には、一番町から始まり三番町まで、バラエティーに富んだ繁華街が続く。
僕がこの街で初めて唄ったのは、大街道アーケードから近い二番町と三番町の間あたりだった。
中四国最大の飲み屋街と言われる広島の流川で唄ってた僕も、松山の大きさには緊張したものだ。
車の往来も多く、飲み屋ビルの占有率も高い街だった。
なるほど、温泉街だなといった雰囲気。

思いがけず大きい街となると、当然のように緊張する訳で、僕は唄い出すより何より酒ばかり飲んでいた。
しかし、呉の港からたどり着いた僕の残金はもう数十円であり、早く唄い出さないと明日が迎えられない。
はてさて、どこで座り込もうかと考えて、車道を挟んで斜向かいには占い師が鎮座するという、交差点の角にした。背にするビルは大型の飲食店跡のようで、営業はやっていない様子だ。
すぐ前では、中華まんの屋台がモクモクと白い蒸気を吐いている。

自転車が2台ほど止められたその場所で、僕は意を決して唄った。
何せ、ひっきりなしに車が通る交差点では信号待ちの人垣が出来るし、大好きな飲み屋街とはいえ、僕には荷が重すぎた。所詮、裏道唄いには裏道が似合う。
唄うには唄い出したが、人の流れが多過ぎて箸にも棒にも引っかからない1時間が過ぎた。
そのうち深夜と呼ぶにふさわしい時間が訪れ、なぜか占い師が荷をまとめ始めたので、そちらに移ろうと思った。
少しひっそりとしたその角は、歩道の幅も広く、のんびり唄うにはもってこいだったからだ。

向かいへの移動のため、とりあえずギターをまとめ始めた時だ。

「オワリマスカ!?」

という声と共に、白い中華のコック服を着たお姉ちゃんが目の前に立った。
中華まんのお店のお姉ちゃんだった。

「ミズ、イリマセンカ?」

手には、氷の入ったグラスがあった。
僕は少し驚いたけど、ありがたく飲んだ。
キンキンに冷えた水は、酒ばかりで焼けた喉に甘露の潤いだった。「タイヘンデスネ~。スゴクスキデス。モットキキタイ」

と、箇条書きのようなセリフを、それでも満面の笑みで告げられると、僕も移動しにくくなってしまった。

「ここで唄って邪魔にならない?」

と尋ねると、大きく首を振り

「ウタッテクダサイ!」

と答える。
僕はグラスを返すと、ギターケースを再び開いた。
お姉ちゃんは「お~い! 肉まんちょうだ~い!」という声に慌てて走っていった。

せっかくのファンが出来た(ちょっと可愛らしかったし)。
今夜はもう、ここで唄おうと決めた。
決めた事により、その直後、すごい経験をする。

なので、次回は松山の話を詳しく。

舞鶴

フェリーで北海道へ渡るのに、毎回通っていたのが京都の舞鶴市だ。
海軍で有名な事は広島の呉市と同じで、いまだに『肉じゃが発祥の地』とか『海軍カレー発祥の地』とかで、双方言い争っている様子。まあ、その程度の争いなら笑って見過ごしておこう。


初めて舞鶴に行ったのは、恐らく2000年の6月だった。
それはもちろん、初めての北海道行きのため。
京都市内ならば、大阪時代に友人と唄いに出たりしていた。
ただ、そのころはまだ日本地理に疎い旅人だったので

「え? 京都に海とかあったっけ?」

といった知識のみでの舞鶴入りだった。

もちろん京都には海があり、天橋立で有名な宮津市を西に置き、福井県の小浜市に挟まれた場所に位置するのが舞鶴市だ。
舞鶴港は、鯨の尾の様に入り込んだ湾が特徴的で、北を上に尾っぽの左が舞鶴西港、尾っぽの右が舞鶴東港。僕が今も使う新日本海フェリーの入出するのは、東だ。
ただその頃の僕としては、北海道に渡る船があるのなら、京都だろうが福井だろうがどうでもよかった。
なんとまあ、旅情のない旅人だったと思う。


前日の大阪から京都を経て移動した山陰本線は、次第に里山深くなる景色の中を進んだ。
走行距離にして80キロ超くらいだろうか。
それを乗り換え2回。
時間にして2時間半のゆっくりとした移動。
季節や天候さえ良ければ、山奥を走る列車は色とりどりの紅葉に包まれたり、緑の中で不意に現れる小川に目を奪われたりと楽しい丹波山中なのだが、折り悪く、梅雨空・・・。

実はこの旅、梅雨を避けての移動だったのだ。
北海道に行けば雨に遭わないだろうという安直な思いを乗せて、僕は初の船旅を舞鶴から始めようとしていた。
そして、北海道では雨に遭わずとも寒さに遭った。
全体を通して、苦しい事の多い旅だったと思う。
苦しさの裏には、マンネリから安易に逃げた自分自身の弱さがあり、知人一人いない旅先で唄う事の難しさを知らない無知があった。

何も考えず、知らない所に行けば何かが変わるかも知れない、と考えていただけの旅だった。


当時、舞鶴から小樽へのフェリー出航時刻は、23時30分。
規定である1時間前に乗船手続きを済ませるため、22時には、ここから港へ向かわざるを得ない。

町中で唄えるのは、21時30分くらいまでの事だ。時間が早くあまり気乗りしないが、仕方がなかった。
僕は駅からほどなく歩いたパチンコ屋の角を右に入るアーケード入り口を演奏場所に決め、閉まり始めた商店のシャッターの音を聞きながら、座り込んだ。

飲み屋街でもないアーケードでは、身を小さくして唄う滑稽なミュージシャンへの反応も少なく、しばらくは自転車で何度も通りかかるオジサンが、その都度不思議そうに眺めていくだけだった。
僕にとっては早過ぎるほど時間も早い。
どうやらこの分ではここで稼ぐのは無理だろうとあきらめた。
手持ちは少なかったが、フェリーの切符はすでに昼間に購入した。
そのために往復4キロを大荷物で歩いて、汗だくにもなった。
今夜は唄った事実だけでいいやと、僕はあきらめた。あきらめの早い僕だった。

だけど30分ほど唄ったところで、遠巻きに眺めるだけの通行人に変化があった。
女性が二人、近づいて来るのだ。
歳で(僕はいまだに女性の歳が見かけで分からない。男性でも、分かりにくい)20代後半だろうか。
僕が


「こんにちは」

と愛想を浮かべると、背の高い細身の女性の方が笑顔で応えた。
なんというか、高い声だった。とても失礼だが
漫才のピンクの電話のような組み合わせだった。
(この書き方は、ピンクの電話にも失礼だが)。

「旅行されてるんですか~」

と、再び高い声で尋ねられ

「旅行・・・というか、まあ、そんなもんです」

僕は、旅行ってどういうんだっけと思い出しながら、困りながら答えた。
それでもせっかくのお客さんだしと、僕はいつものように唄おうとしていたのだが、高音の女性(着ている服から表情から話し方から、ピンクの電話のヨッちゃんだった)は、なんだか非常に話したがった。しかも

  ありがたいイエス様の話だった。

高音の女性が熱心に話す横で、ポッチャリな女性がうつむいて、ニヤニヤしていた。

ありがたいイエス様の話を聞かされながら、僕は早々に帰って頂くため

「僕もまあ、カトリックの生まれなんで」
と、自分の不信心を棚に上げて言った。
あきらめてもらおうと口にした僕だったが、ヨッちゃんは歓喜の表情で

「なんだ~! イエス様の事、ご存知じゃないんですか~!」

なんて興奮し始めた。完全に逆効果だった。
不信心が、いっぱしのカトリック教徒みたいな顔をするから、天罰がくだった。

その後、ものすごくありがたいイエス様のお話は止まるところを知らず、僕ももうムキになっていた。
結局は、どうぞ私達の集会に顔を出してくださいという話に、必死で抵抗していた。
ヨッちゃんが嬉々として語る

「私達の集会では、泣き出したり倒れたりする人が続出で」

という恐ろしい集まりに、どうにか連れて行かれないように頑張った。
いっそ相手にされまいと「ま、僕も神様なんて本当に信じてるわけじゃないし」なんて棄教発言まで飛び出したが、火に油を注いだ。
口数少ないポッチャリの女性(ミヤちゃんか・・・)は終始うつむき加減で含み笑いをしながら
この人なんにも分かってないわwww 的に首を振っていた。
それはそれは、腹の立つ光景だった。

僕はもう神様に謝って、さっさと逃げたかった。
フェリーの時間があるので、と何とか頭を下げ、見逃してもらった。
酔っ払いには強かったが、宗教や自己啓発の方々には弱かった。

話し始めて、ようやく30分。
ヨッちゃんは「戻られたら是非」と連絡先を残し、相方と名残惜しそうに去っていった。
まだ多少の時間はあったが、僕はこれ以上その場にいたくなかったので、逃げるようにフェリー乗り場へと向かった。
お陰で、人生初の舞鶴のイメージは痛いものになった。


市役所を大きく迂回して歩く夜の移動では、昼のように汗だくにはならずに済んだ。
時折、街灯の他には何もない道を大きなトラックが走り過ぎ、背中をライトに照らされながら、僕は前島埠頭への道を歩いていた。
黙々と歩く、港への真っ暗な道。
それは独りぼっちであったけれど、小樽という目の前の目標があるだけに寂しさはなかった。
なのに付き纏う寂しさは、さっきまでの忙しい会話のせいだ。

あのまま誰も声を掛けず、一人で演奏を終えて荷物をまとめられたら、まだ穏やかな心で船に乗れたはずだった。
あの2人が近づいて来た時、僕は結局、あらぬ期待をしていたのだろう。
何やら憐れみの目で近づいてくる彼女達に、優しい言葉のひとつや、餞別でも期待していたのだ。

楽しく唄って、楽しく話して、優しくしてもらって、楽しく別れる。
そんなもの、ある訳がないのに。
水無月の空は鈍く低く、垂れ込めた雲に、ぼんやりと遠い街の明かりが映っていた。


予定より早い22時前に港へ着くと、大型トラックの乗り込みが始まっている様子だった。
僕は待合室の2階に上がり、缶ビールを1本空けた。

荷物を床に置いてソファーに寝転んでいる人は、昼間にも見かけた。
それが来年の自分の姿だとは、まだ知らなかった。

港に横付けされた大きなフェリーが見える窓際では、老夫婦が外を指差しながら、何かを話している。

4時に着いたら電話する、と話しているのは、若い女の子と見送りの家族だ。

そうだった。この船は30時間以上をかけて、早朝の4時に小樽へ到着するらしい。
今では新型のスクリューを搭載した高速船に変わり、20時間で到着する。
その代わり、乗船券の値段は上がった。
時間が短くなったのに高くなるなんて、と憤っている僕は、フェリーを遊園地の乗り物と勘違いしているようだ。


30時間の孤独な船旅。
とはいえ、広島からだって大阪からだって、移動中はいつも独りだった。
街中で唄って誰かと笑っても、夜が終わる前には独りに戻っていたはずだ。
なのに胸に引っ掛かる不安は、目的地の遠さと、本当に誰も知人のいない心細さだった。
仲間との馴れ合いにウンザリして逃げ出したのに、ここにきて自分の意気地のなさを知った。

15分が経ち、まばらだった待合室に乗船客が増え始めた。
あちこちで、しばしの別れを惜しんだり、身体に気をつけて、と言う声が聞こえる。
お車で乗船のお客様は・・・とアナウンスも流れ始め、周囲は急に慌しくなる。
慣れた様にのっそりと身を起こしたソファーの男性と目が合い、一瞬、不思議なシンパシーを感じた。
お互い独り者だな、という、暗黙の会釈を交わした。
その時だった。

「あ~、間に合いました~」

耳に響くその声は、長々とイエス様のお話を聞かせてくれたヨッちゃんだった。
ピンクの電話(違うけど)の2人が、なんと見送りに来てくれたのだ。
あの後フェリーの時間を調べ、まだ僕がいたら車で送ろうかと話していたらしいが、もういなかったので直接来てみたという。
僕は思いもかけなかった事態と、苛々しながら話していた事実に気まずさがあったので、これ以上ないくらいに恐縮していた。

「わざわざ・・・すみません」

わざわざ、といえば、なぜか真っ赤なワンピースに着替えてきたヨッちゃんは

「せっかくなんで、見送りに来ようと思ったんです」

と、照れくさそうに笑っていた。
僕も同じように照れ笑いで

「見送りって、嬉しいもんですね」

と、答えた。
そのうち、徒歩でご乗船のお客様は・・・と、乗船を促すアナウンスが始まり、フェリーへ続くタラップ前には列が出来始めた。
ソファーから起き上がったあの男性が、不機嫌そうに僕らの横を通り過ぎた。
僕が悪いわけでもないのだが、なんとなく申し訳なく思った。

見送りに来てはもらったが、さっきが初対面なので、そうそう話す事もない。
僕は不自然に黙り込んで、ヨッちゃんも黙っていた。ミヤちゃん(この例え、本当に失礼だな)に至っては、最初から喋ってない。

これ以上は間が持たないので、僕も乗船口へ向かうため、じゃあ、と断って荷物を抱えた。

「じゃあ、わざわざありがとうございました」

僕が言うと、ヨッちゃんは恥ずかしそうにミヤちゃんと顔を見合わせて

「ええ。神様が、行くようにおっしゃってくれたんで」

と笑った。
その時の僕が、いったいどんな顔だったのか知りたい。
漫画かアニメだったら、フニャフニャフニャ~、と情けない効果音と共に崩れていただろう。

もしも彼女が
「どうしても見送りに行きたかったんです」
と言ってくれてたら、僕は帰りにまた、聞きたくもないイエス様の話を聞くためそこを訪ねただろう。
だけど実際に僕がその場を訪れたのは翌年で、自分達で出したお店をやってる、と教えてくれたそこは閉めてあり、赤く塗られた木製の格子だけが、張り紙と共に埃をかぶっていた。
破れてめくれた張り紙には 50%off と書かれてあった。


《追記》
フェリーに乗り込んだ僕は『フェリーには必ずカップ麺を買って乗り込む事』という勉強をした。
それから北海道では、6月でも凍え死ぬかもしれないという勉強をした。

その後フェリー慣れした僕は、カップ麺用意に周到になっただけではなく、大浴場1番乗りとコインランドリー1番乗りの記録を続けるのだった。








Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
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