熊本 その2

さあさあ、熊本の2話目だ。
前回に書いたのがもうひと月も前なのだけど、どうせ手探りの記憶な訳だし、忘れられない事は多いので、大丈夫だとは思う。


手持ち数百円で熊本市内に辿り着いた僕を待っていたのは、いきなりの土砂降りだった。
何気なく入った地下道があまりにも居心地の悪い(長時間居座るとか寝転がるとか出来そうにない)雰囲気だったので地上に出たところ、ものすごい水しぶきが歩道に上がっていた。雲行きは怪しかったので覚悟はしていたものの、真夏を思わせる激しいスコールで、しばらく他の通行人と一緒に雨が止むのをアーケードで待った。

アーケードの入り口付近では、やけに元気なマイクパフォーマンスで煽るゲーセンのお兄さん(ナイナイの岡村君も来たとかで、ちょっと有名らしい)がいて、まったく飽きなかった覚えがある。
 
そんな感じで、十月の熊本はまだまだ残暑と呼べるほど暑く、にわか雨も多かった。
ただし晴天率は悪くなく、まだまだ夜をどう過ごせばいいか分からなかった熊本では、川沿いに寝転がってばかりだったので助かった。
僕の場合野宿といえば、寝袋や毛布の用意などまったくなく、地面にダンボールでも敷いて寝るだけだった。どこかのアウトドア雑誌で 『スニーカーは枕になる』 と聞いてたので、それを実践するくらいだ。よって、冬場に野宿はない。出来ない。

よく寝た川原は白川の護岸で、白川はアーケードを抜けてシャワー通りという怪しい名の通りを抜けた所、国道3号線沿いにある。
路上演奏が終わるとそこへ向かい、コンビニで買った缶ビールを飲んで寝た。朝になると時々、上のほうで工事をしてるおっちゃんが「おはようさ~ん」と声を掛けてくれたりしたっけ。
そのうち、路上前の夕方にも立ち寄る場所になり、白川の流れをボーッと眺めるだけが時間の潰し方になった。よく、詞を書いていた。

だから時々、中高生のカップルが先に陣取ってると

ちくしょう、俺の聖域を汚しやがって。お前らどっか行け。こっちはどこも行くとこないんだぞ。

なんて心で毒づいていた。
別に僕の場所ではないんだが、通勤電車の位置とか馴染みの店のカウンターとか、そんなのと一緒だろう。この気持ちは、路上演奏場所の場合は少し違う。路上は早いもん勝ちだから。

初日の話をしよう。
熊本は九州でも博多に次ぐ規模の飲み屋街じゃないかと思う。
そんな感じだから、小心者の僕は唄う場所をどこに設定しようかと悩んだ。
夜の9時前ともなればアーケードのそこら中に路上演奏の若者が現れ始めたが、そこは決して僕の場所じゃない。僕はもっとうらぶれた通り、街灯がかすかに灯る程度の道端で良かったのだ。

が、熊本。
そんな場所を探していたら陽が昇るほど飲み屋エリアが広い。
なのでなんとなく見つけた銀行の横、駐輪してる自転車やバイクの影で演奏する事にした。
景気づけ(安定剤)の酒も飲んだ。飲んだので持ち金はもうないに等しい。
それでも、なかなか唄い出せない。時間は、刻一刻と無駄に過ぎる。

何を唄ったか、もう思い出せないが、とにかく30分ほど経って唄い出した。
唄い出すと僕の迷いは吹っ切れたのだが、反応はイマイチの様だ。
もう1曲やると、今度は反応があった。
小銭が入った。
更にもう1曲やると、千円札が入った。
これはイケると思い、もう1曲やろうと思った矢先に、警備の人にダメ出しされた。
凹んだ。
凹んだ挙句、千と何百円の上がりだけで尻尾を巻いて白川護岸へ消えた。
ヘタレは今もだが、なんとまあ諦めの早い旅唄い初心者だったのだろう。
夜しか稼げない街で生き抜くためには、唄える時間に唄うというのが鉄則なのに。


わずか3曲で終わった熊本初日。
さあ、明日からはどこで唄おう。
そんな呑気な考えのまま缶ビールを飲んで眠りに就こうとしたが、少しずつ不安になる。
果たして、他の場所でも苦情は出ないのか。
もしかしたら、アーケードしか唄えないのかも。
あれだけ通りがあるけれど、一時期の大阪がそうだった様に、取締りが厳しい街はとことん厳しいものだ。

戻って、もう一回唄おうか。

時刻は0時を周ったところ。

まだ、間に合うんじゃないか。

もし駄目だったら、諦めてもっと小さな町へ移動しよう。そう覚悟して、僕はもう一度だけ街に戻った。
アーケードでは、まだまだ沢山のミュージシャンが唄っている。
ここは無理だ。
音が重なるのだけは、絶対に嫌だ。
音声多重の演奏から逃げる様に角を曲がったのが、それからしばらく世話になるとは思いも寄らない、黄昏クラブ通りだった。

~次回へ続く

熊本 その1

九州で最も長く滞在したのが、熊本市だ。
長くなりそうなので、最初から分割形式にするつもりで書き始める。


九州を巡った2002年、福岡~佐賀、そして生まれ故郷の長崎と周り、島原から船に乗った。

いわゆる修学旅行のみの体験地だったため、知らないと言い切って良い土地だ。
なのに、フェリーに乗った時の手持ちは確か、800円ぐらいじゃなかったろうかと思う。
今なら、大移動にはちょっと躊躇してしまう金額だ。
恐いものなしというほどの心境ではなかったが、旅唄い初心者の僕にとって未知のものは全てただの未知であり、今日メシが食えるかどうかという悩みも熊本がどんな街なのか知らないという事態も、同様レベルの不安だった。

とにかく当時は、記憶に留めておこうという気持ちがなかったので、思い出しても移動経路自体が曖昧だ。
城下町島原のフェリー乗り場で夜を過ごしたのだから、島原港から乗ったのは間違いない。
それに、島原から熊本へ向かうフェリーは、今も当時もそこからしか出ていないはずだ。

ああ。少し思い出した。
静かな島原の街を、とても深夜帯には唄えないとみなした僕は、真夜中のアーケードを抜けて港まで歩いたのだ。
ただどうしても、その経路をどうやって調べたかを今も思い出せず(なんとなく、ではなかっただろうが)、見慣れないコンビニめいた店先でシーフードヌードルを食べた事だけが思い出される(※この頃から、全国シーフードヌードルレシート収集計画は始まっていた)

この調子で地図を眺めて、思い出していこう。

今になって地図で見れば、市街地から島原港までは2キロ強。
歩くといっても、大した距離ではない。
だけど、全く知らない街を真夜中に歩いて移動するのは非常に長く感じる。
道の途中に地図らしきものが見える度に確認していたので、確かに1時間以上はかかったと思う。

時期は、10月の半ば。
まだまだ九州の秋は暑かった。
その頃の出で立ちだけは、はっきりと憶えている。
ジーンズに黒い半袖のTシャツ。
首にはタオルを巻き、荷物といえば大き目のリュックと、ペラペラの薄いソフトケースに入ったギターだった。

そうそう。
恒例のキャリーケースなんて、まだ転がしていなかったのだ。
それだけ装備が少なかった訳で

・移動するにも要領は悪く
・唄う場所選びの要領も悪く
・着替えが1日分くらい
・そしてハーモニカ~、ポケットに少しの~小銭~♪

という、清清しいほどに天晴れな路地裏の少年っぷりだった。

島原では結局一銭にもならない演奏を終えていたし、カップラーメンを食べて残りが1500円(恐らく)ほど。
十年以上の旅を続けた今となっては、そんな軽装備で見知らぬ土地へ出発なんて恐ろしくて出来ないだろう。
いや、島原では夜の街で稼げないと諦めての移動だったので仕方はなかった。
それにしても、経験が増えるというのは僕の場合、逆に自分を臆病にしてしまう様だ。
恋に破れた乙女か、まったく。


雨がパラついたりと雲行きの怪しい港の朝だったけれど、船が進むに連れて晴れ間も見えてきた。
ウトウトする間もなく、1時間ほどで熊本港のターミナルに着く。
船旅は北海道に続いて2回目という事もあり、港にありがちな閑散とした風景にも不安はなかった。
火の国・熊本である。唄える場所はきっとある。
とりあえずの気がかりは、市街地までの移動手段だった。

熊本駅まで行けば何とかなるだろうと思ったので、港で確認するとバスがあった。
ただ、やけに遠くて高かったらどうしようかとも思った。
どこかで聞けば教えてくれるだろうが、明らかに足りない場合の落胆が嫌だったので、何も言わずに乗った。
初乗りからじっと運賃表を睨み、足りなくなりそうだったらいつでもピンポンを押せるように構えていた。
が、次第に上がり始める料金に心でストップをかけているうちに

「次は熊本駅~」

とアナウンスが流れ、結局は400円くらいで乗れた




のだと、思う(笑)。

捏造ではないのだが、どうしても思い出せない。
熊本駅を基本にしたのは間違いないし、そこまでのルートは限られている。
地図で見るところ、熊本港から熊本駅までは10キロ以上ある。
この根性なしが、徒歩で歩いたはずがない。
手持ちの減り方から考察するに、400円ほどでバスに乗ったと考えるのが妥当だ。


とにかく、歩いたのは熊本駅からだった。これだけは流した汗と共に憶えている。

これまた昨夜の島原と同じ2キロほどの距離だった訳だが、今回は真昼間。
市電の走る熊本市ではあるものの、まだまだ夜までは時間もあり、もう出費はしたくない。
駅前地図を見る限り、どうやら白川(この川には本当に思い入れがある)という川沿いに歩いて行けば市街地のようだ。


僕は、ひたすら川沿いを歩いた。
阿蘇山と熊本城を見るだけの修学旅行生だった僕にとって、どこを歩いても初めての景色ばかりだ。

時刻は正午に近く、すぐに汗まみれになった。

何を見ても知らない。

どこを見ても分からない。

知らない町の名前が、知らない川沿いに流れてゆく。

何度も何度も立ち止まり、肩の荷物を道端に投げて、タオルで汗を拭った。

不安は、なかった。

ただただ、どこまでも旅を続けていたかった。

空は、ゆっくりと曇り始める。


駅前の地図で目印にと覚えておいた路面電車の走る道が左手に見えたので、そこからは軌道敷に沿って歩いた。そこが道のりの半分だ。

だけど、殺風景な川原の道から開放されたせいもあり、そこから先は早かった。
古風なビル街を抜けると、大きな公園が見えた。
観光客用の案内板に 『熊本城』 の文字も見え始めたので、後は気の向くままに歩き始めた僕だったが、数分後には市街地の勢いに圧倒されていた。

気が付けば、大阪や福岡のど真ん中に来たような雑踏に晒されている。

熊本、実は賑やかだったのだ。

慣れ親しんだ百万都市の広島より、人が多い気がする。
静かな城下町だなんて思い込んでいたのは、なぜだろう。
ああ。
子供の頃、毎年のようにお袋が里帰りしてた天草が仮にも熊本県だったから

熊本=静か 

なんてイメージを勝手に作っていたのだろうか。
それとも修学旅行二日目の島原で武家屋敷の通りを見て、記憶がすり替わっていたかも知れない。全国の小中学校は、修学旅行の行き先を1箇所に絞った方が良い。

という事で、許して熊本。
PARCOもあるのに。


そ~んな感じで、旅唄い初心者の手塚幸が辿り着いた大都会・熊本(言い過ぎかな)。
次回からは、少しずつ重いエピソードも出たりして。

という訳で、続く。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=32.795031,130.702522&spn=0.007973,0.017853&z=16&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1
(白川沿い)

新潟

この2年間、新潟県は新潟市に本拠地を置いて活動している。

それは多々事情があるのだけれど、単純に住む場所が出来たという旅唄い人生の中で画期的な出来事の影響が大きい。

新潟県内に初めて訪れたのは、新潟市ではなく新発田市だった。
例の、日本海沿岸縦断の頃だ。
もう7年ほど昔で、今でこそ一緒にライブを行なったり珍道中を重ねている桑名シオンに出会う遥か以前の事だ。新道の飲み屋街を直感で探り当てて、居酒屋村さ来の前でビクビクしながら唄ったのが、懐かしく思い出される。

新発田で唄った翌日は、秋田から悪天候が続いていた秋空もすっかり晴れて、信濃川にかかる万代橋を見ながらの日向ぼっこが気持ちよかった。
ただその時には、まさかここまで長い付き合いになる土地だとも知らず、素通りして柏崎に行ったんだっけ。
今も昔も大都市が苦手なせいで、市内を避けてしまった。
古町の飲み屋街をしっかり見ていれば、きっと素通りなんてしていなかっただろう。


僕の路上風景の中、実はこの2年で明らかに変わった事がある。

こいつだ。


このシロクマだ(この際、酒の量は放っといてもらおう)。
手塚ファンなら誰でも知っているであろう、最近は僕より人気上昇中の小憎らしい旅の道連れ。

ファビぞう である。

今では『たびっくま』と命名されてブログまで書いているファビぞうに出会ったのは、古町通り8番町を東へひとつの静かな小道、鍋茶屋(なべちゃや)通りだった。

新潟市古町通りの飲み屋街では2年間も集中的に唄っているために、エピソードは数知れない。

たくさんの名物人間にも会っているし、顔馴染みも多い。
でもファビぞうに会った頃、僕はまだまだ古町に馴染んでいなかった。

鍋茶屋は、弘化3年(1846年)創業の、新潟で老舗の料亭。

150年も前というと、徳川将軍で言えば12代家慶の頃ではないか。
そんな由緒ある料亭の名前を冠する通りとも知らず、このバカは吉田拓郎など唄っていたのだ。
問題はもちろん吉田拓郎ではなく、タクシー1台通れば人が端の端に避けなきゃいけないほど狭い通りで、人の足を止めていた事だ。
鍋茶屋さんから苦情が来ていたか定かではないが、斜向かいのお店が良い顔をしていなかった様子で、僕の鍋茶屋通り時代は2ヶ月と持たなかった。
風情ある静かな通りでガチャガチャ演奏などしていたのだから、そりゃあ、お店は嫌がるに決まっている。
今になって考えれば浅はかで、非常に申し訳なかった。

そんな短い鍋茶屋通りでのエピソードは、これまた短いくせに濃密な話題がたくさんあって選ぶのに困るのだが、ここはまあ、ファビぞうの話を。


人通りは少ないけれど、やけに身なりの立派な方々ばかりが通る鍋茶屋で、僕はそこそこに稼げていた。
何しろ新潟市、飲み屋街での路上演奏者を見かける事はなく、珍しさは先行していたと思う。
背面のビルのテナントさんも声を掛けてくださるし、隣のダイニングで出張演奏もさせて頂いた(ここは後に、姉妹店でもお世話になった。ソウズさん、また稼いだら行きますね)。

その日もポツポツと唄ってはポツポツと人の足は止まり、順調に演奏は続いていた。
何より、一組のお客さんが長くないのが特徴で、そこはやはり長居できない雰囲気もあったからだろう。
まだまだ宵の口の時刻、4~5人の団体さんが声を掛けてきた。
演奏もワンコーラスそこそこにチップを頂く中で、男性が1人、手持ちの紙袋の中から日本酒の小瓶を差し出してくれた。さすがは酒どころ新潟。
頂いたのは、お隣五泉市の菅名岳(すがなだけ)という銘酒で、恐縮しながらも心でウヒヒと涎を垂らして頂いていると、1人の女性が唐突に尋ねてきた。

「日本中、旅してるの?」

日本中を回ろうと決めている僕ではなかったが、結果的にそう言ってもよいレベルになりつつあるので

「ええ、どこでも唄い回りますよ」

と笑顔で答えた。
すると女性は、おもむろにバッグから白い塊を取り出し

「この子、ファビィっていうんだけど、一緒に旅に連れて行って」

と、僕に頼むのだ。

僕は人にモノを頼まれると簡単に断れない。
だからそんな時の条件反射で、つい

「え・・・ええ、いいですよ!」

と、またまた笑顔で安請け合いしてしまった。
内心、まあ今だけ話を合わせていればいいかな、ぐらいで済ませたかったのだが、僕は更に

「男の子ですか? 女の子ですか?」

と聞き返してしまったのだ。
男の子よ、と答える女性に僕が三度、笑顔で言い放ったのは

「じゃあ、名前ファビぞうにします」

だった。
命名してしまった・・・。


集団の1人が電車の時間やら何やらでバタバタと後にすると、残されたのは銘酒・菅名岳と、シロクマのファビぞうだった。
なんだか、どこかで聞いたような話だ。
四日市の[ひ]~ちゃんが連れ回る愛兎・ぴかすけと出合った時も、日本酒がらみだったっけ。
参照 http://hp.kutikomi.net/higurashian/?n=column3&no=9


たかが縫いぐるみとはいえ、自分で命名したものを置き去りにも出来ず、その日はなんとなく荷物に紛れてファビィを持ち歩いた。
翌日もやっぱりカバンを開けると無表情にそこにいて、なんとなくギターケースに投げていた。
翌々日もやっぱりいて、誰かに見せた気がする。

「2日前に出来た、旅の連れなんですけど・・・」

そのうち、いつもの鬼ころしにストローを差すと、隣に座るようになっていた。
翌日も鬼ころしの隣が定位置になり、心なしか笑顔になっていた。

なんか、酒好きなのかなこいつ・・・。

1週間ほど後、鍋茶屋通りで苦情が出てしまい、僕は初めて表通りに演奏場所を移した。
その後、1年以上お世話になる香月堂ビルの前だ。
お店のお兄さんに鼻で笑われたり睨まれたりしながら、緊張しながらもなんとか唄い終えた。
唄い終わって片付ける時に気が付いたのが

あ、ファビィがいない

そうだ。
鍋茶屋でお巡りさんに囲まれて焦ってたから、慌てて忘れたんだ。

「一緒に旅をさせてね」 と言ってくれた女性には申し訳なかったが、これでなくなってたら(その時にはまだ 『いなくなって』 じゃなく 『なくなって』 という感覚だった)、それはそれで仕方ないかとも思った。

が、あった。
というより、僕が唄っていたビルの前で、じっと待っていた。
座りの悪いモコモコのお尻で、壁にもたれて待っていた。


いろんな事が起こる。

まさか、2年も新潟で居付く事になるなんて思わなかった。
まさか、シロクマを連れて旅をするようになるなんて思わなかった。
まさか、シロクマの方が僕より人気者になってブログなんか始めるとも思わなかった。

そしてまさか、誰も立ち止まってくれない路上演奏でちょっと凹んでいる時にシロクマから元気付けられたり、バッチリ稼いだ夜の祝杯をシロクマと上げる日が来るなんて、思いもしなかった。


いろんな事が起こる。
だから、これからもファビぞうと、いろんな事を見て回ろうと思っている。



Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=37.923952,139.045793&spn=0.000937,0.002073&z=19

東広島

そもそも、旅の定義ってなんだと考えた事があった。
きっかけは

「旅と旅行って違うんですか」

と尋ねられた事だ。
その時はきっと、違うよ違うよ! 旅行は行って帰るだけなんだけど、旅はどこまでも続くんだよ! みたいな 『旅こそ格上発言』 に終始したと思う。
その後、何度もその曖昧な格付けに説得力が欲しくて


・旅は目的が決まってない
 だの
・旅は期間が決まってない
 だの
・旅はお土産目当てじゃないんだぜ

といった根拠の見えない、言ったもん勝ちの定義を捏造していた気もする。
だけどやがて、目的のある旅をしたり、期間限定の旅に出かけたり、お土産がメインになってしまう旅を繰り返し、その捏造定義を自分自身がひっくり返してしまった。
何のことはない。
旅と呼ぶとカッコイイから、僕はそう言ってたに過ぎないのだ。

素直に思い返せば目的がない旅は一度としてなかったし、目的がない旅は、どこかうら寂しい感じもする。
路上で誰かに尋ねられる
「目的はなんなの?」
という質問に上手く答えられない時は、やはり自分自身がいちばん寂しくなる。

正直に話してしまえば、路上で唄う事を継続するのに、旅をしているというバックグラウンドは都合がよかった。旅が目的か歌が目的か、その時々の精神状態で使い分けられたから。
歌を生業にする事も、流れ旅を続ける事も、人の生活を支える根源とするにはあまりにも浮世離れした心細い行為だし、どれだけの旅人やミュージシャンに否定されても、僕の唄い方ではそれを認めざるを得ない。
でも、それで良かった。
浮世離れした自分ならば、他人と比較する物差しもない。
そうする事で、僕は自分を卑下せずに済んでいた。
もちろん、生活ぶりで考えれば、それはとても人の生活と呼べるものじゃなかった。
ホームレスの年配男性に毛布と風邪薬を分けてもらってインフルエンザをやり過ごしたり、救急車で運ばれては入院費を踏み倒すしかなかった事もある。そもそも僕がホームレスだったのだから。

ただし、人の生活は必ず何らかの手応えと共に向上するもので、僕が旅と歌に費やした時間は、そういう意味では間違いなく僕を正しさに導いてきてくれたろう。
正しさは、例えばこうして振り返る痕跡のひとつひとつだ。
生きる事は、誰にとっても痕跡を残してゆく事だろうし、その痕跡を人生と呼ぶのだろう。
曲がりくねった道の先端に、今の自分がいる。
残した痕跡の美しさや醜さは別として、それは紛れもなく人の人生だ。
ならばようやくそこで、思い出を残す旅行と、痕跡を残す旅の違いに辿り着く。
旅の痕跡は、決して文化遺産にイタズラした記念の落書きなんかじゃない。


広島で唄い始めた頃の懐かしい話を書こうと思い、その照れ臭さに、つい話が長くなった。
東広島市、西条という小さな町の話を始めよう。
僕が、日本酒と路上演奏を覚えた町。

家を飛び出しては実家に引き戻されを繰り返して、何度目の東広島だったろう。
イラストレーター志望だった僕は、当時24歳。
唯一と呼んでいい友人のアパートに転がり込み、絵の仕事など皆無に等しい中、居酒屋のアルバイトを続けながら、まだ学生だったその友人と青春の最後の灯火みたいな生活を送っていた。
高校時代にパチンコを教えてあげた(友人曰く、負け方を教わったらしい)はずの僕に、友人はパチスロを教え込んでくれたが、そのうち奇跡的な大勝ちの挙句、僕はメーカーも定かではないギターを勢いで購入していた。遊びとして、友人の詞に曲をつけたりもしていた。
ただ、ギターテクニックに関しては少し弾ける、といったレベルで、路上で演奏などという恐れ多い事も始めてはいなかった。
そのレベルは、実は今も大して変わっていない。

そうこうしている内に友人は大学院卒業も間近となり、僕はアルバイトに時間を割かれ、倦怠期の同棲カップルみたいなすれ違い生活は、無事に就職を決めた友人が広島を去る春に終わった。
僕は勤め先から紹介されたアパートへと移り、気が付けばようやくの事で広島での一人暮らしが始まったのだ。

すでにイラストレーターに見切りを付けていた僕は、次に物書きになりたいと考え始めていた。
どうしてそう、ろくでもないものばかりに憧れるのか自分でも不思議なのだが、ひとつは名前のせいだと思うことにしている。男のクセに 『みゆきちゃん』 なんて名付けられた僕は、自分の事を普通じゃないと思いながら育った。
いつの間にか変わり者と思われる事が楽になり、十代も半ばになると、変わり者なんだから少しぐらい世の中から逸脱しなきゃ、なんて事まで考え始めた。
すでに自分のプロデュースを考え始めていた訳だが、人はそれを 『演じてる』とも言う。役者になろうと思わなくて、本当によかった。

すれ違いが多かったとはいえ、のべ数年を友人と一緒に生活していた僕。元々が大家族で育ったため、一人きりの生活というヤツが苦手だったのだろう。午前から深夜までのバイトが終わると、部屋に帰ってもする事が思いつかなかった。
物書きを目指すなら、何か書けばいいのに。

アルバイトは西条駅前の小さな小料理屋だった。
初めに面接に受かった居酒屋の店長さんが、シフトの少ないウチより良い所を紹介するからと世話してくれた新装開店のお店だった。
西条は数年前から広島大学がキャンパスを移転し始め、街自体が学園都市へと移行を進めていたために、大学生のアルバイトがほとんどだったのだ。だから、週に5日、6時間以上なんて長時間を働ける飲食のバイトはなかった。

店長さんの知り合いという事もあり、あっという間にバイトが決まった駅前の上品な小料理屋さん。
確かに毎日の様に仕事は出来たが、オープン2日前に板前さんが女将さんとケンカして辞めたり、突然 「昼間からの定食も始めるわよ」 と見切り発車でイメチェンを図ったり、そのせいで真昼間から飲んだくれてる社長さんや先生様方が準備中にも関わらずカウンターを占拠したり、支払いの滞っている業者さんへの謝りもすべて日給五千円の僕が任されるという、涙なくしては語れない激動のお店だった。仕込から不慣れな僕は、朝10時出勤で深夜2時終了の仕事をオープンから1か月は続けた。

調理師免許などない僕は板前さん不在のお店で、それでも表向きは板前さんにならざるを得ず、カウンター内で背を伸ばして立っていなければならなかった。
料理のバイトは好きだったが、人と話すのは苦手で居酒屋のホール仕事さえしたくなかった僕には荷が重く、胃の痛い日々は続いた。
それでも女将さんの人望か優しいお客さんも多く、カウンター越しに差しつ差されつ話しているうちに、板前もどきも文字通り板に付き、苦手だった日本酒も美味しく飲める様になった。なってしまった。東広島・西条は、日本三大酒都であり、元来アルコール好きの僕が日本酒色に染まるのに時間はいらなかった。

そうやって、広島での一人暮らしはアルバイトだけで過ぎていった。
女っ気はなかったかといえば、全くなかった。
逆に、女なんか、という真っ暗闇な時代だった。
というのも、17歳から付き合っていた地元の恋人と2年前に別れており、2年も経つのに引きずっていたからだ。

今はただ~ 5年の月日が長すぎた春と言える~だけです~

なんていう名曲があるが、設定だけはあの歌そのままだ。
遠距離にも関わらず連絡も少ない僕の自分勝手さに飽き飽きした恋人が、新しい恋人を作って結婚したというありがちな話なんだけれど、唄い始めた頃の僕は、二十二歳の別れというその曲をリクエストされても絶対に唄わなかった。
冷静になって考えれば愛想を尽かされて当然の男だったのに、別れというのはいつも、自分が被害者なんだろう。
何よりもその彼女の、結婚へのスピードに驚愕したっけ。

だから24~5歳の頃は、今の僕から想像できないほど暗い生活を送っていたのだ。

と思っていたが、それはどうやら僕の思い込みで、友人知人に言わせれば、そんな性格は今の僕から容易に想像出来るらしい。
なんだ、やっぱ暗いんだな。。

そんな根暗な僕が唄い出した理由も、やっぱり暗かった。
(開き直りきれてなくて、なんか嫌だな・・・)


冬だった。
それはそれは寒い夜だった。
瀬戸内といえども東広島は標高差が激しく、冬場は氷点下にだってなる。

つもの小料理屋のバイトを終え、誰かに借りたままの白い自転車で、アパートまでの道のりを僕は走っていた。風はもちろん切るように冷たかったが、1日中のバイトで疲れた身体にはちょうど良かったろう。
珍しく早仕舞いした平日の夜で、帰ったらゆっくりと酒でも飲めればと思っていた。そう思わない夜はなかった。さっさと酔って寝るのが、ひとりきりの僕には楽だったのだ。

岡町通りという飲み屋街は、小さいながらもスタンド(広島では、スナックをそう呼ぶ)や料理屋さんが軒を連ね、楽しそうな声が漏れてきそうだった。
幾つかの店は、女将さんやお客さんに連れて行ってもらった事がある。
いつでも飲みにいらっしゃいね、と誰もが言ってくれていたが、一人で行く事はためらわれた。
どこそこのお店の、という看板を背負えば、好きなお酒も好きな様には飲めなくなってしまう。
コンビニで缶ビールと安いウイスキーでも買って、部屋で酔いつぶれた方が楽だ。
クリスマスの楽しい家庭を窓から覗く不幸な主人公みたいな気持で、僕は飲み屋通りを走り抜けて帰った。

そう。
12月。
毎年、教会のクリスマスの飾りつけやら自宅の飾り付けやらとイベントの準備であっという間に過ぎていたクリスマスが、やってくる。
だけどもう、家を捨てた僕には、目に見えるクリスマスなんてなかった。
恋人もいない。
友達もいなくなった。
この町には、知り合いなんていない。
物書きだなんて口先ばっかりで、実際には夢なんかなかった。
家を飛び出した目的も見失って、アルバイトに追われているだけの生活をごまかすために、その場しのぎの言い訳を続けているだけだ。
僕には何もない。
僕にはもう、何もなかった。

ビールを1本空けただけの、木曜日の夜。
ひとりの部屋で、不意に叫びたくなった。
ただ一人、他愛もなく語りかける事の出来た友人の存在の大きさを思い出す。
僕が恋人との別れに打ちひしがれて長崎から戻った時、何も言わずに朝まで車を走らせてくれた友人。
実は自分だって似たような時期に恋人と別れていたくせに、何ヶ月も後になって笑いながら話してくれた優しい友人。
あいつは、もうこの町にいない。
冗談交じりに歌を作ったギターが、安いケースに包まれて部屋の隅にあるだけだ。
深夜2時前。
僕はギターを抱えて、岡町通りへと歩いた。

飲み屋街といっても、12時を回れば次々とネオンは消えていく小さな街だった。
僕は、道の外れに座り込んだ。
すぐに、コンクリートの冷たさが身体を震わせた。
人気はない。
ギターを出してみる。
錆びた弦の音が、誰もいない道端に重く響いた。
誰もいない。
誰も見ない。
それで良かった。
誰かに話したい事なんてない。
誰かに掛けて欲しい声などない。
僕には、何もないのだ。
ただ、叫びたかった。

久しぶりに手にするギターを、指でかき鳴らした。
それに呼応する様に、遠くで酔っ払いが大声を上げた。
自販機を蹴り飛ばす様な音。
僕は負けたくなかった。
アンタが酔って叫ぶ様に、僕だって叫びたいんだ。
僕は、酔っ払ってなんかいない。
僕は、ひとりだって生きていく。
僕は、変わり者なんだから。
僕は、寂しくなんかない。
ただ、叫びたいだけなんだ。

歌の形など成さないままに、僕はもう好きに叫んでいた。
風が冷たく、指先はすぐにかじかんだ。
弦を殴る右手に痛みが走った。
どこをどう弾いてるのか分からない。
血が流れているのかもしれない。
ならば、それでもいい。
血を流して唄うなんて、なんて僕らしいんだと思った。

やがて吐く息が真っ白に変わり、力尽きる様に僕はギターを置いた。
寒さに両手がしびれて、ただただ痛かった。
うなだれて、肩で息をついて、そしてまた嘘をついた事を悔やんだ。
ひとりで叫ぶ声は、何ひとつ僕を楽にしなかったからだ。

ひとりは、いやだ。

ひとりは、いやだ。

 コツン、と音がした。
目の前だ。
うなだれていた僕は、ゆっくりと目を上げて息を呑んだ。
が、途端に身体が竦んでしまった。
薄明かりのビルを背後に、黒い陰がひとつ、フラフラと揺れながら突っ立っていたからだ。しかも、やけに足元が覚束ない。さっきの、自販機を蹴り飛ばしては叫んでいた酔っ払いだろうか。
僕は、その人影の腰から上を見上げることが出来ず、しばらく無言で固まっていた。
僕も自動販売機の様に蹴り飛ばされるかと思っていたが、やがて影は、ふらつく足取りのまま駅の方へと消えて行った。

何事もなくホッと息をついて安心した僕は、気が付けば道の上に白っぽい缶ジュースがあるのを見つけた。さっきの酔っ払いが置いていったものだろうか。

恐る恐る手を伸ばして握ったそれは、とても温かだった。
やけに幼稚なウシの絵と、カタカナで『ミルクセーキ』という文字が書いてあった。
凍った様に冷たい手のひらには、じんわりと、少しずつ温かさが広がっていく。
途端に、僕の瞼が情けないくらいに震え始めた。
この街でひとりきりになって、心も、身体も、ようやく温かいものに触れた気がした。
5年間も付き合った彼女さえ、僕の叫び声を聞きながら平然と消えて行ったというのに・・・。

泣いても泣いても涙は止まず、ミルクセーキはいつまでも温かかった。
さっきは恐くて顔を上げられなかった自分が、バカに思えた。

僕は、何を恨んでいるのだろう。
僕は、何を思い違えているんだろう。
この町で生きてゆくのなら、こんな事じゃいけない。
人を、信じよう。
裏切るより裏切られる方が良いなんてとても言えないけれど、裏切られる事はいつも悲しいけれど、疑ってひとりになるよりは、きっとましだ。
じゃあ僕は、人を信じるしか生きてゆく方法はないじゃないか。

ひとりは、やっぱりいやだ。


もう今年で40歳を迎えた僕が、冬場になると自動販売機をじっと見つめる事がある。
田舎町で時々、似たような得体の知れないミルクセーキを見かけるけれども、あの甘い温もりはどうしても見つからない。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」

いつもの夜

取っ手の外れかかったギターのハードケースを脇に抱え込んで、車輪を軋ませながらキャリーバッグを引いている。これだけの事で、いつも半日分の体力を使うみたいだ。
ようやく涼しくなり始めた9月の終わり、いつものシャッター前へ辿り着いた頃には、Tシャツが汗まみれになってしまった。


僕は、ギターと荷物をその場に転がし、目の前のコンビニへ駆け込む。
大袈裟に頭をペコペコ下げながらタクシーの列を横切り、やたら酔客のたむろする店内へ向かう。
レジには、高校生アルバイトのユウちゃんが、いつもの笑顔で立っている。まだ、午後10時前だ。
僕は手早く発泡酒を1本と紙パックの鬼ころしを2つ手に取ってレジに置くと、ポケットの小銭を探る。


「今からですか?」
と、アルバイトのユウちゃん。


「とりあえず飲んだらね」
と、僕。


「荷物、大丈夫なんですか」
釣り銭を渡しながら、ユウちゃん。


「ん、大丈夫」
と、やっぱり僕。


買ったばかりの発泡酒を開けながら戻ると、当然の様に、そのままのギターと荷物がある。
薄暗いシャッター前で、寂しそうに転がっている。
商売道具と生活品の一切が入ったカバンを道に放り出して場所を離れるなんて、無用心にもほどがあると思う。が、これは治安どうこうの問題ではなくて、僕の願いが込められた行為だった。
いつもの場所で、いつもの僕が唄う街角。
街がそれを望むなら、決してギターはなくならないと。
盗られるなら、むしろ現金の方だった。
ギターケースに10円玉を投げる傍らで500円玉を取って行こうとする、なんとも情けない現場に度々出くわした。僕がケースを外に向けなくなったのは、それからだ。
盗めば目立つギターや荷物を取っていく様な真似は、誰もやらない。


据わりの悪くなった折りたたみの椅子に腰掛けて、僕は誰にも分からない様に、目の前のビルに発泡酒を小さく掲げる。
今夜もここで唄わせてもらうため、ひっそりと、この街に挨拶をする。
譜面台を立て、ギターを取り出し、ハーモニカをひと鳴らしして行うチューニングも、すべてがいつもの夜だ。


夜の街は嘘くさい色付きの灯りに照らされて、それでも本物の人間が歩いている気がする。
タクシーを降りては、これから繰り出す店の算段をしている集団も、携帯電話を睨みながら歩くクラブ帰りの女の子も、もう3回も退屈そうに通り過ぎている派手な車も、誰もが楽しい時間を求めては、まだ夜を終われずにいるみたいだ。
誰もが楽しく過ごす事を夢見ながらも、楽しい場所にも時間にもありつけずに歩き続けているなら、この僕もまた、夜を終われない。


発泡酒はあっという間になくなり、僕は紙パックの清酒にストローを差す。
飲んだくれて唄う人間は、まだまだ古臭い人種をメインに数多くいるいるんだろうが、鬼ころしをステージドリンクにまでしているヤツは、僕くらいだろうか。
昨今じゃあ潔癖な世の中になってしまい、煙草も吸うし酒も飲む様な歌唄いは二流、三流に見られるんだろうけれど、ならば僕は四流以下の歌唄いでいい。街が楽しければ、僕も楽しい。ストリートミュージシャンなど自分勝手に唄っていると勘違いされることも多いが、僕は誰かの楽しさの中にこそ、癒されている。


「じゃあ金はもらうな」
と言われて、時に困るんだけど(笑)。


僕が欲しいお金は、高級車を乗り回す金でも、海外へ遊びに行く金でも、数十万円もするビンテージギターを買う金でもない。
飯を食えて、ほどほどに酒も飲めて、煙草代があって、そして眠りにつく場所があればいい。
それだけの金を欲しがるのは、それでも好きな事をやっている身の上では贅沢なんだろうか。


よく尋ねられる事のひとつに


「幾ら入るの?」


という質問があり、それは 「食べていけるの?」 という心配よりも純粋な興味らしいから、僕個人の話でよければ、ここに書こう。
ピンからキリまでというのが本当に正確な表現で、十数年に及ぶ活動の中で、最高金額ならば10万円に近い事もある。
それを言うと驚きと共に嫌な顔をされるのだが、それは十数年で1回きりの話だ。ゼロ、というのが2割を占める現状の中で、稼働日数で割れば、平均すると1日に3千円くらいじゃないだろうか。
長くなった街では、ほとんどそれくらいに落ち着く。


「それでも、1ヶ月で9万円でしょ」


と、またしても 「悪くないバイト」 の様に言われるが、それは1年365日休み無しが前提で、しかも天候も考慮に入っていない。何よりも、必ず入る給料ではないという感覚がない。ゼロが3日続けば、普通は根性も体力も尽きる。それを 「好きな事をやれている」 で納得するのは僕だけの理屈であり、他人が言う事ではないと思っている。
だから 「好きでやってるんでしょ」 と言われるのが、実は好きではない。


世の中のシステムは、さほど複雑じゃない。仰々しく、理(ことわり)と言ってもいい。どんな仕事も金をもらうには犠牲がある。
僕の分かりやすい犠牲といえば、タダ聴きだ。
タダ、というのは現金のチップに限らず、一言のねぎらいもない事だ。
酒の勢いでリクエストが入る夜の盛り場で、何でもかんでも金を出せなんて野暮な事は言わない。
けれど悲しい事に、散々あれこれ嬉しそうにリクエストしたにも関わらず 「まだまだ勉強不足だな」 と、もっともらしく言い訳をして10円も置かずに立ち去るいい歳をした大人の多い事。
お互いに初対面の人間同士が


「何やってるの」
「唄ってます」
「じゃあ、なんかやってみて」


という会話を経ているのだから、少なくともリクエストは、他人への頼み事だ。
他人に道を尋ねて 「ちょっと、分かりません」 と言われても、誰も 「不親切だ!」 とは怒らない。
まだ 「いくら払えばいいの?」 と聞かれれば 「いえ、気にしないでください」 と返す気持が、僕にはあるのに。
「頑張って」 とか 「よかったよ」 の社交辞令は、自分の気持も明るくすると思うんだけれど。
世間一般の商売じゃないから問題にならないが、寿司屋かラーメン屋でやったら、無銭飲食だ。
そういう人は、まずいラーメンを食ったら金を払わないんだろう。嫌なグルメだ。


最低だなと思うのは、今しがた歌をリクエストした人が 「ありがとう」 と言って財布を出すと、それを遮る人だ。自分の懐が痛む訳でもないのに。
そういう人は決まって


「この人のために、ならないから」


と言うのだが、チップはすごく僕のためになるのだ。だから、本当の事を言えばいいのに、と思う。
「もったいない! そんな金があるなら俺におごれ!」 と言えばいいのに。
ある種類の人間は、自分が得をする事が少なくなると、人が得をする事が悔しくなる。


楽しんだ人が、お礼を言ってくれる。
楽しんだ人が、チップをくれる。


その二つを、僕は差別して考えた事はない。
人によっては、現金というのは失礼だという考えもあり、小銭じゃ格好が付かないと思う人もいる。すごく申し訳なさそうに、空の財布を探っている人もいる。そういう時は、こちらも申し訳ない。だから、次にお会いできた時にでも、と僕は笑う。


何のために唄っているのかは分からない僕にも、誰のために唄えばいいのかを考える事がある。文字の如く、もう会えないかもしれない一期一会を日本中で繰り返し、たくさんの人に応援を受けてきた。
応援は、立ち止まってくれての笑顔であり、酔っ払いが笑いながら投げていく小銭であり、通りすがりの一瞬のうちに掛けられる声であり、大声で歌う僕に嫌な顔もせずに通り過ぎてくれる人々の心であり。


ごく稀に、僕の歌に不相応な大金を置いて行ってくれる人がいる。
それから、道の向こうから走ってきてはお金を入れて 「頑張れよ!」 の一言だけで帰っていく人。
実は、ギターケースに投げられるチップの中で、金額としていちばん多いのが、こういったお金だ。
そういう人に限って、こちらがお礼を言う間もなく去ってしまう。
なんとも、ありがたい人達だ。


こう書くと、やっぱりお金か、思われてしまうだろう。
それでも僕は、唄っても唄っても一銭にもならず飯も食えない日々に、そういった人達への思いで唄い繋ぐ事がある。
そのチップは、僕の歌への正当な評価ではないかも知れない。
ただ、夜の盛り場で唄っては食い繋いできた僕自身の事は、認めてくれているのだ。
大袈裟に言えば、生き様への評価だ。
そう信じる事で、誰も見向きもしない道端でも、幾夜も唄ってこられたのだと思う。




折りたたみ椅子に腰掛けて、ストローで日本酒を飲んでいる僕は、まだ唄い出さない。
午後11時を回って、いつもの着物姿の女性が静かに会釈をして通り過ぎ、いつもの893ナンバーの真っ黒な車が盛大なクラクションで走り過ぎ、隣に立てかけたギターが、不意に夜風で音を奏でる。風雨に打たれ、雪にもやられ、ボロボロの、だけど僕のすべてを見続けてきた、たった1本のフォークギター。


僕は煙草を灰皿に押し付け、ようやくでギターを握る。
街にはまだまだ。声と光が溢れている。


さあ、いつもの夜が始まる。


函館

小樽、札幌は何回も訪れていたけれど、函館は初めてだった。
理由は、やはり移動手段の偏りか。
一気に動いて一気に戻る、という船旅に慣れてしまい、ついついスッ飛ばしていた函館だ。
慣れというのは安心感でもあり、新しい事にチャレンジする気持ちを忘れると、それはたちまち慢心と臆病に変わる。


昨夜の八雲で、臆病を振り払った僕。
何もないと感じた所から、偶然を自力で掴み取ったという自信は大きかった。
「今なら何でも出来る」 という万能感に支配されるのは良くないけれど、未知のものに立ち向かう時に、モチベーションは大事だ([ひ]~ちゃん関係者談)。


さてさて。
無人駅のトイレのヒーターでモチベーションをギリギリ保った僕は、乗客のそう多くない始発で函館へ南下した。
通学の学生や出勤の方々に混じると、すぐに場の空気を変えてしまう大荷物の旅唄い。
天気はすこぶる良く、またしても函館本線の心地よい魔物に捕らえられてしまい、一睡もしてないので、ウトウトがスヤスヤに変わる。
しかし、それを許さないうちに列車は終点の函館に着いた。

函館駅は、視野の開けた東側の国道と、海に挟まれていた。
残念ながら大きな改装工事でも行っている様子で、全体像が分からなかった。
ただ、歴史、とまでは重厚さを感じないが、どこか発展に取り残された駅前商店街と路面電車の停留所の佇まいが、懐かしさに似た気持ちを呼び起こす。
港町。きっと、好きな町だろう。
駅を北へ上がっていけば、連絡線の消えた今もなお青函を結ぶフェリーの往来する函館港がある。明日はきっと、お世話になる。

とはいえ、まずは今日の事。とにかく、どこかで身体を休ませたかった。
夜と違ってうららかな陽気の函館だったが、右も左も分からない町で、適当に休みながら(眠りながら)時間を潰す方法が見当たらない。
なので、例によって公衆電話のタウンページ。

いつもの如く、飲み屋街を探す。

嬉しい事に、スナックの欄はズラリと番号が並んでいた。

珍しくメモを取ったのは、あまりの眠さに記憶力が低下している事を自覚していたからだ。
そしてもうひとつ、明日から本州に南下するための予備知識を得るため、手っ取り早くネットカフェを探した。6年以上経った今となっては、町名も忘れた。たぶん、花、という字が入った町名だった。
駅前の大きな地図で、飲み屋街と思しき地名をいくつか確認する。
有名な五稜郭から、そう遠くない位置にありそうだ。
恐らく、夜にテクテク歩いていたらすぐに分かりそうだった。なので、こっちは後回し。
次に、ネットカフェ。
こちらはずいぶん、遠くなりそうだ。
路面電車に乗るか。

結局、知らない町で知らない路面電車に乗るくらいなら歩いてみようと思い立ち、僕は市電に沿ってしばらく進んだ。
歩いて、見る。それが旅の基本だろう。
『どつく前』 という行き先の市電が否応なく気になったが、どうも行き先が違う。
どつく前は、たぶん函館ドック前。

駅前にまず見えるのは、松風町の大門商店街
なんと大門!(※津市 参照)。
それこそ、開拓移民の時代から商業を営んでそうな店舗が軒を連ねる、時代を切り取った様な商店街だった。
松風町って、すごく素敵な名前。

通りの向こうにサウナの文字を発見したので、これは、と思いちょっと覗いてみた。
が、どうにも営業してるっぽくない・・・。
調べ物もあるしさ、という大義名分でごまかし、僕は遠くネットカフェへの道のりへ舞い戻る。
翌朝に歩いたら、実はしっかり営業していたサウナ。

「くそっ。明日の青森よりも目の前の事をもっと調べてりゃ良かった」

と後悔したのは、ネットカフェまでの道のりが恐ろしく長かったからだ。
住宅地をすり抜けたネットカフェに汗だくで辿り着いたのは、90分後。


このブログを書きながら調べてみたが・・・僕が探し当てたネットカフェは、恐らく花園町の自○空間というネットカフェ。
五稜郭まででも3キロ近くあるのに、そこから更に倍ほど歩いた産業道路沿いの、地図で確認するところのラサール高校が見える辺りなのだ。
そうだ。なんか学校が見えたのを覚えてる。

「週明けの産業道路に荷物を投げて~」

と唄ってるのは、僕の『ささやかな渋滞』だが、たぶんその歌詞の元になったのは、ここか熊本だ。
ダラダラに汗をかいて

「これで店内に入ったら、さすがに嫌がられるよな」

と思い、汗が引くまで道端で座り込んでいたのだ。
コンビニで缶ビールを買ってヘラヘラしてたら、道行く車の窓から不思議なほどにジロジロと見られた。

いやあ。思い出した思い出した。
調べてみるもんだ。


さあさあ。
ネットカフェには無事に入ったものの、歩き疲れて缶ビールなんて飲んだヤツが調べ物などするはずもなく、よく寝て気がついたら終了時間。
また、あの道を歩くのか。トホホ。

それでも体力は回復したので、まだまだ明るい空の下、今度は繁華街を探す。
五稜郭公園の緑が眩しい。

さすがは観光地なので、あちこちに目印や案内図があって便利だ。
それを見ながらテクテク歩く函館。迷いようもない。
と思ったのに、なぜか目的地とズレてゆく雰囲気。

函館の道。
どこか違うと思っていたら、放射状、同心円状の道が多いのだ。
同じく北海道の札幌や、京都の町ならば、碁盤の目の様に道が交差する。
真っ直ぐ歩いて真っ直ぐ曲がれば、脳内地図は位置を誤る事がない。
しかし、微妙に曲がり行く1本道を頼りにすると、いつの間にか目的地から離れてゆくのだ。
そりゃ、どこの町でも一緒なんだろうけど

曲がってるのに曲がってる感じがしない

というのが、函館の罠だった。
すでに駅前サウナの罠に引っかかっている事を、この時点では知らない旅唄い。

目的地付近である五稜郭公園入り口の十字街には、到着した。
午後の4時過ぎくらいだったろう。
北海道で有名な丸井今井デパート付近は、やはり賑やかだ。
放課後の学生や、ショッピングの女性、まだまだビジネスの方も多く歩いている。
それでも1本裏手に入っただけで急にひっそりとした道が現れるのが面白い。
散策が楽しい街。

今夜、僕が唄おうと思っているのは、五稜郭公園前電停からひとつ手前、中央病院前電停の裏道だ。
裏道とはいうが、僕が唄うからにはメインストリート。紛う事なき夜の王道。
昨日の失態を避けるため、今日ばかりは明るいうちに歩いてみたが、良い通りじゃないかと思う。
車1台しか通らない感じが、米子の朝日町通りを髣髴とさせる。
名前も知らないその通りにネオンが灯るのを、僕は待った。

陽が落ちた。
昨日、八雲で固めた決意だが、さすがに緊張してくる。
良い通りだとは思ったが、すんなり唄わせてくれるとは思わない。
さっき通った地下道からはギターと歌声が流れていたので、函館に路上シーンがない訳じゃない。
デパートの前で唄ってるのも、遠くから見えた。
だからといって、飲み屋街での演奏が「あり」なのか「無し」なのか、それは出たとこ勝負だ。
僕は、遠くに地下道の演奏を聞きながら、表通りのガードレールに腰掛けて、ウイスキーをあおっては時間を待った。

今からまさに飲みに行くぞ、という団体が、数多く通り過ぎて行く。
そのうちの3割ほどが、だんだんと僕の唄う通りへと流れ始めた。
頃合いだろうか。
と思った矢先

「お、ストリートミュージシャンか」

とは、通りがかりの団体さんからの声。

「ええ。旅しながら唄ってるんですけど、今夜は函館でお世話になります」

そう僕が返すと、珍しく興味津々に質問してくる真っ赤な顔の男性。

「おお、そうか。函館はミュージシャン多いからな。地下か? 向こうか? 後で聴きに行ってやっから」

そう言って本当に来てくれる人は数少ないが、悪い気はしない。
なので僕は

「いえ。そっちの、裏の飲み屋街で唄おうと思ってるんですが」

と、答えた。
すると途端に男性は

「そりゃあ、やめた方がいい!!」

と、半分笑いながら驚いた。
これには僕も驚き、やっぱ危険地帯なんかなあ、米子もヤクザ多かったしなあ、と躊躇し始めた。

「やっぱ、まずいですか?」 と尋ねれば

「う~ん。向こうで皆と唄えば?」と答える。

見知らぬ街への緊張感には、八雲でもらった元気も空気が抜けていく様だ。
しかし、今夜はやらねば。
漁師のお母さんにきちんと唄えなかった心残りは、ここでしっかりと唄う事でしか果たせない。
僕は、半笑いの男性に、もう一度だけ食い下がった。

「好きな感じの通りなんですがねえ。危ないんですか」

男性は、やっぱり同じ様に笑いながら答える。

「そりゃ、よっぽど上手いなら別だけど」

そうか・・・。



なんだ いいじゃん ( ´,_ゝ`)オイオイ


「まあ、頑張って」

と去って行く男性に頭を下げ、僕はギターケースを抱えた。
ちょっと酒が足りないのが心配だが、唄いに行こう。


すぐにビールが来た(爆)。
裏通りの、更に裏路地へ入りそうな店舗の横で座り込んだ僕にグラスのビールを持って来てくれたのは、3軒ほど隣のお店。
お礼を言って、帰りにグラスを返しがてら寄る事にした。

その後も、思ったより数多くの人が立ち止まってくれた。
聴いてくださった地元の方に尋ねてみると、数年前までは、唄ってる人がいたらしい。
すごい上手かったよなあ、と、誰もが噂する。

「すみませんね、そんな場所で唄って」

と、さすがに恐縮したのだが いやいや兄ちゃんぐらい唄える人ならいいよ と言ってくれた。
僕が上手いと思っているのは、半分は歌であっても半分は選曲なのだ。
真正面から 「歌が上手い」 と言われて、どんな歌唄いも嫌な気分になるものか。
そんな良い雰囲気で、かなり長時間に渡って唄えた。

後で店に呼んでもいい? と言ってくれた方がいたが、どうやらタイムアップなので、函館の夜は唄い収めにした。
午前1時半。
荷物をまとめ、ビールを差し入れてくれたお店にグラスを返しに行く。
だいぶ余裕が出来たので、1、2杯飲ませてもらおうかと思う。

コンコン、とドアを開けると、いらっしゃい、と静かな店内。
あれ・・・?

「これ、頂いたんですが・・・違いますよね?」

「ええ、違います(ニッコリと)」

間違えた、隣だった。クラブMARIA
再び、コンコン、とドアを開けると いらっしゃ~い! と賑やかな店内。
ご馳走様でした、とグラスを返すや否や

「ちょっと座って行ってさ~」

と、山本リンダ似の色っぽいママさん。
僕もそのつもりだったので、荷物を置かせてもらい、先にトイレを借りた。
素敵な函館だったが、難を言えばコンビニもなく、トイレをどうしようか悩んでいたのだ。
飲む体制を万全にして、着席。

「アタシ、こういう人好きなのさ~」

と、ビールを注いでくれたママさん。

クラブMARIAの丸いカウンターには、お客さんと女の子たち。
せっかくなのでとリクエストを頂き、唄わせてもらう。
お客さんも若いのに落ち着いた方が多く、すごく真面目に聴いてくれた。

程なく落ち着いて、また飲み始める旅唄い。
ママさんは良い感じに酔ってるがベロベロでもなく、逆に真面目な面持ちで話しかけてきた。

「アンタが良かったら、しばらく店の前で唄ってもらっていいよ~。きちんとイス置いてよ」

本当に嬉しい言葉だ。
路上で唄っている人間なら、その大きさは分かるはずだ。

だけど、僕には自信がない。
お店の名前を背負って唄うというのは、難しい。
とても名誉に思うが、内情は単純じゃなかった。経験は、いくつかあった。
それぞれに色んな思惑があり、ただ唄いたいだけの僕は、いつもその思惑に応えられなかったのだ。

それに僕は、急いでいた。
もっと、日本中を唄い回りたかった。
いや。唄う事はすり替えだったかも知れない。
何か、動き回る事でしか紛らわしきれない気持ちを抱えて、僕は唄う旅を続けていた気がする。
逃げていると呼ばれても仕方がない行為だ。

だけど、ただひとつ。
何かの代替行為として旅を続けていたのだとしても、唄う事そのものは僕に厳しかった。
決して、逃げ込めるような生温い行為ではなかった。

他人と自分とを
言葉と生き様とを
雨と太陽とを
疲れと眠りとを
気温と気圧とを
季節と温もりとを
短くなるタバコの先端を
待つ人のいた時間を
待つ人もなく迎える帰郷を

そのどれもを、決してごまかしてはくれなかった。
それはいつも、僕の喉元に突きつけられていた。

家のないお前は、さあどうする?
最後の小銭も失くしたお前は、さあどうする?
誰も見向きもしない事を、さあどうする?

唄う事は、いつも現実を突きつけてくれた。
そういう意味で僕の 『歌そのものとも言える旅』 は、夢なんかじゃなく現実だった。

函館で、最後のグラスを空ける。

僕は、何度もお礼を述べた。
頑張ってねぇ、とママさん。
お礼のつもりで来たのに、チップをもらって店を出る僕。
また、きっと来ます。
そう言っては、それっきりの函館。
そういう事だ。
そういう事を、僕は平気で覚えている。
一期一会なんて、夢のまた夢。

返しきれない心が、いつまでもいつまでも、日本中に置き去りのままだ。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=41.849105,140.740356&spn=0.435785,1.060181&z=10&iwloc=00045852d22638630692e

山越駅

珍しく、前回より時系列に沿って話は続く。
要するに、真っ暗闇の海岸沿いを歩いてた黒いカエルさんが、それからどうしたのか。


八雲の隣、山越駅に辿りついたのは午前3時前だったか。
駅より、僕にとっての救いは、広々とした駐車場が併設してあるコンビニを発見した事だった。
どこまで続くか分からない真っ暗闇を歩く旅人は、恐らく誰もが、こうやって文明の灯りに安堵するものだ。
小さな無人の駅舎ひとつでは、やはり深夜に心細い。


一般には馴染みの少ないかもしれない山越を、僕もおさらい気分で説明しよう。

明治36年に開業されたこの駅だが、この段階ではまだ国鉄所有ではなく北海道鉄道である。
当初は「山越内」という駅名で、翌年から「山越」に名称変更された。
ヤムクシナイは、アイヌ語で「栗の樹がある川」の意味。

江戸時代に松前藩が平定したヤムクシナイ場所。
そのうち江戸幕府の直轄領となり、最北端の関所を設けたらしい。
辿りついた晩には暗くて文字も読めず 「なんで関所みたいな門があるんだろう」 と思ったが、その通りに関所だったのだ。

そんな歴史のある山越駅で、朝を待つ事になった旅唄い。
始発は、午前7時を回らないと通らないらしい。
「じゃあ、もう一駅くらい歩けば良いじゃないか」 と他人事なら言えたが、自分事なのでやめた。
もう、カエルさんのライフゲージが、肉体的にも精神的にも少なかったのだ。

まずは朝までどうしようかと、真っ暗な無人の駅舎に向かって引き戸に手を掛けたら、スッと開いた。
ラッキーといわんばかりに、即座に荷物を隅に置く旅唄い。
気分的には、カエルさん・1UPだ。

ところが、試しにうずくまってみたものの、暖は取れない事も判明。
そこで、コンビニ登場。
こんな山奥で荷物も取られるものかと、タッタカターとコンビニに向かう。
が 『時間つぶしに延々と立ち読み』 なんてマネの出来ない小心者の自分を思い出し、トイレを借りて暖かいコーヒーだけ購入して、駅舎に戻った。

ああ暖かいな~、と感じたのも束の間の錯覚。
夏の終わりの出発のために衣類の手持ちが少なかったので、総出で対応しても寒さが押し寄せる。
これは、朝までなんか持たない。
変に水分なんて補給したら、トイレが近くなるだけだった。
カエルさん、再びライフ減。
よって、トイレはあるかな~と探してみたら、キレイなトイレがあるある。まあ、無人とはいえ駅だし。

しかし、体内の水分を放出すると体温もそれだけ持っていかれる。
駅舎とトイレを往復する事3回目、僕はひとつの違和感に気付いた。
普通だったら手洗いのすぐ横にあるはずの、あのガーッと温風で手を乾かすヤツが、壁の妙な場所に、しかも半端な高さで設置してある。
なぜ? と思い、そっと覗いてみると

ヒーターだった。

北海道! 恐るべし!!

これって電源入るのかな、と思いながらも勝手にスイッチオンすると

ジワ~


点いた点いた~!!


その後は、腰の高さ辺りに設置されたヒーターで、裏表まんべんなく温めながら朝を待ったのだ。
カエルなのに、干物状態。
以上で、山越の夜は終了(笑)。

せっかくなんで、次回はこのまま函館編に続こうと思います。


                       写真参照 wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JR_Hokkaido_Yamakoshi_Station.jpg

 
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八雲 その2

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

これは、スサノオノミコトが詠んだ日本最古の和歌と言われる。
北海道の八雲は、どういう経路か知らないのだが、開拓指導者の徳川慶勝により、その歌に因んで命名されたらしい。

八雲立つ、といえば出雲の枕詞。

出雲で調子の良かった旅唄いだが、果たして、遠い蝦夷地でも神様の導きはあるのか。
という事で、八雲編の後半をどうぞ。

袋小路の入り口は、道幅で5メートルくらいだった。
そんな狭い道。シャッターの下りた店の玄関先でギターケースを開いて座っている僕は、通りがかる人にかなりのプレッシャーを与えたろう。
だけど、その不自然さにプレッシャーを感じるのはこちらも同じ。

例えば、こういう時にいちばん困るのが

「何してるの?」

と純粋に尋ねられる事だ。
だが、この時ばかりは、それでも良かった。
誰か声でも掛けてくれた方が気が楽だった。
反応はといえば、未だカーテン越しの影と

「よ~いよい♪」

と笑いながら通り過ぎたオッチャンだけだ。
ああ! 早く誰か酔っ払い来て!ストリートミュージシャンには稀有な台詞)


気落ちして歌が止まってしまうと、自分の中の何かが切れてしまいそうだった。
いつもなら一晩に同じ歌を何度も唄うなんて、リクエストじゃない限りやらないんだけど、不本意な昭和ヒットメドレーを繰り返した。
なるべく絡みやすい歌を唄い続けた方が得策と判断した。
手塚幸ファンなら 「どうしたんですか」 と驚くほどのバーゲンセールだ。

バーゲンの甲斐があったのか、右手の車道に車がゆるゆると止まって助手席の窓がウイ~ンと開いた。
中から、女性がにこやかに微笑みかける。
僕も歌の途中だったがチャンスは逃さず、演奏を続けながら微笑み返しを送った。
すると

「そこ、通れますか~?」

車が、入りきれなかったらしい・・・。
すみませんでした~、とわざわざ謝ってくれるお姉さんが、非常に申し訳なかった。

ようやくの好反応とはならなかったが、それでも少し安心する。
袋小路の関係者が、嫌な顔をするでもなかったからだ。
ここで演奏なんて恐らく誰も思い浮かばない反則技的な場所だったにも関わらず、八雲の人は心が広い様だ。
さすがは北海道、開拓民の血か。

唄い出して1時間以上。
普段なら、そろそろ何か反応がないと不安になる時間だった。
そして、実際に不安はあった。
けれど場所が場所だけに、これは仕方ない。
いつも思う様に、唄えるだけマシだとしよう。
飲み屋街としては、人通りも明らかにない。
飲み屋街というか、ここはささやかな飲み屋ブロックなのだから。

人は、少ないが通り続けている。
僕はいつもの小休止を少なくして、なるべく唄い続けていた。
さすがにネタが尽きてきたので(本当は大量にあるのだが、気分の問題)唄い慣れた曲にスライドして、マイペースに切り替えた。
パチンコ屋のネオンもまだ消えてないし大丈夫だ、なんて考えながら唄っていた時だ。
何やら風呂敷包みを抱えたお母さんが、慌しく横切って行った。
普通のお母さん、といった出で立ちだったが、どこかのお店の関係者の様にも思える。
通り慣れた道に、まさか得体の知れないギター弾きが座っているとも思わず驚いたのだろう。
お母さんは、あら、と小声で振り返っていたが、それでも笑顔に見えた。
僕も会釈を返したが、もうお母さんは角を曲がっていた。

用事を終えたのか、さっきのお母さんが戻ってきたのは10分後だったか。
ニコニコと、また駆け足で通り過ぎた。
通り過ぎたと思ったが、違った。目の前に立ち止まってくれた。

「お兄さん、なんかスゴイね~! アタシ、そこのお店で飲んでるから、おいで!  ジュースでも奢るからさ!」

人の好い笑顔が印象的なお母さん(推定47歳)は、そう言うと 「そこの奥だから~」 と、再び袋小路の闇へ消えた。
あまりにも不意打ちだったので珍しく戸惑っていた僕だったが、現状打破の機会を逃す訳もなく、急いで荷物をまとめた。
せっかくだからジュースじゃなくてビールを貰おうなんて、不届きな事を念頭に置いていた。

支度の遅い(荷物の多い)僕を心配してくれたのか、再び戻ってきたお母さんに案内されて、お店に入った。入って、驚いた。
小さなスナックか居酒屋さんかと思っていたら

広々としたホールと長いカウンターがあり
なんと特筆すべきはギターやらベースやらドラムセットの置かれたステージがあった。

「ここはねえ、昔はダンスホールだったのさ」

カウンターに案内された僕は、北海道独特のアクセントでお母さんの説明を受けていた。
なるほど、全盛期が偲ばれるといった雰囲気で、ホール中央には不規則にテーブルが並び、数名のお客さんが飲んでいる。男性も女性もお客さんの様で、皆ラフにくつろいでいた。
僕が店内をしげしげと見回していると、上品なママさんがおしぼりを持ってきてくれたので、恐縮しながらも、とりあえず生ビール(恐縮してない)をもらった。

「いやあ。こんな人、珍しいからさあ」

そう言って笑うお母さんとグラスを合わせて、まずはお礼を言った。
お母さんは良い飲みっぷりで

「外なんかじゃなくて、ここで唄っていけばいいよ~
 ほら、こっちの方がチップも入るからさ~

と、僕の肩をバンバン叩きながら話す。
豪快ながら、なんて鋭い所を突いてくれんだろう。
助かります、と照れながらも、心でガッツポーズをする旅唄い。

しばらく色々と話をさせてもらい、僕のビールは2杯目になった。
聞けば、ずいぶん古くからやってるお店で、ゴールデンカップスのメンバーも演奏に来たらしい。
マスターもかなり音楽好きらしいが、今は飲みに出かけていると聞いた。
こういうお店のマスターって、そういう人が多い気がする。

「そろそろ、ステージで唄ったら?」

とママに促されたので、緊張の面持ちで準備に入った。
横目で見ると、ホールのお客さんも期待している様子だ。
そこで更に緊張する旅唄い。

おっとりと上品だけれどやけに手際よくマイクセッティングするママさんに感嘆しながら、僕はたどたどしい挨拶で唄い始めた。
まだまだ完成されたオリジナルも少ない頃で、そうでなくても初めての場なので、カバー曲を中心に唄ったと思う。
それが良かったのか、偶然に居合わせただけのお客さんも、かなり真剣に聴いてくれた。
少しだけ、リクエストにも応えさせてもらった。

悔しい事なのだが、今となっては、お店の名前も、お母さんの名前さえ失念してしまっている。
それでもチップを頂いた事だけは忘れていないのが、なんてイヤらしいんだろう。
何せ、路上で唄い出せはしたものの、実は今夜中に投げ銭が入る自信がなかったのだ。
明日は駅前で昼に唄おうかとも考えていたところに救いのお呼びがかかり、安心感と緊張感が複雑に絡んでいた。

何とか喜んでもらったが、残念な事にお母さんは

「アタシは明日が早いから」

と、途中で帰られた。
お母さんは漁師で、夜中の2時に起きるという。
海の女の優しさと豪快さに、心から感謝した。

「まだ飲んでていいからね」

と言ってくれたお母さんとお店に甘え、僕はしばらくカウンターで飲んだり、演奏させてもらったりを続けた。
そのうち
すごい勢いで酔っ払って入店してきたファンキーなオジサンが実はマスターで
今日は旅のミュージシャンの方が来てるのよ、というママの説明も聞いたか聞かずか
おうおう!! と僕の演奏にノリノリで握手してくれた。
こういうお店のマスターって、そういう人が多い気がする・・・。

結局、0時くらいだったろうか。
お店の閉店に合わせ、僕も荷物をまとめた。
頂いたチップは、函館まで十二分に足りる。

「明日は、函館に行こうと思います」

ママさんには笑顔で挨拶をした僕だったが、実際はまだまだ不安があった。
僕が閉店まで甘えたのは、今夜の行き場を考えていないからだ。
なるべく遅くまで時間を費やしたかった。
本来なら、あまり長居せず、ある程度でお店を出ればよかったのだろう。
申し訳なかった。

外に出ると、八雲の町は眠り始めていた。
酒で熱くなった顔に、冷たい風が気持ちよかった。
だけど僕は知っていた。この心地良さは、あっという間に命取りだ。
まだ9月の末とはいえ、野宿の準備などない僕には堪えるはずだ。



僕は国道5号線に向かって歩いた。
夜の間は眠らない事に決めたからだ。
せっかくなら1駅ぐらい歩いてやれと、僕は星を頼りに方角を決めて歩き出した。

冗談ではなく、カシオペアを見て方角を確かめた。

この行き当たりばったりな決断もまた、途中で後悔に変わる。

案の定、一気に冷えが来た。
コンビニで飲み物を買った後、カバンの中の長袖シャツを出して重ね着した。

この時点では知らないのだが、僕が向かっているのは八雲から1駅の山越(やまこし)という駅だ。
距離で、ほんの4キロ程だ。大した距離でもない。

なのに、2時間もかかった。

その頃、僕の荷物は短期旅行用の車輪の華奢なキャリーバッグで、ギターケースは背負うタイプではなかった。こいつが結構、腕に負担なのだ。
その状態で、そのうち現れる舗装もそこそこな道路を歩くと予想以上に疲れるのだが、路面よりも道そのものが大問題だった。

やがて、歩道が消えるのだ。

コンビニにパチンコ屋、ビデオ屋っぽい灯りを背中に南へ歩く事、20分ほど。
次第に街灯が少なくなり、真っ暗な民家の影だけが右手にある。
更にいうと、南下する僕の左手は海で、思いっきり海岸線になっていた。
大型のトラックや乗用車が結構な速度で走る道だったので、僕は用心深く歩いた。
こんな時間に歩道を歩く人間は誰もおらず、僕は歩いてくる中、どっかの駐車場でカップルを1組見ただけだ。歩道では自転車さえ通らなかった。実に、駅前から20分の距離で。

ただでさえ歩行者なんかいそうもない道を、僕ときたら真っ黒な服に真っ黒なギターケースで、ご丁寧にキャリーバッグまで真っ黒だった。

反射素材は何もなく、轢いてくださいといわんばかりだ。

なるべくガードレールのある側を歩き、ガードレールさえなくなると、歩道と思しき幅のある方を選んで歩いた。
右へ左へと安全な道を探すのだが、その間も信号のない国道をビュンビュンと走り去るトラック。
これは、たまったものじゃない。
大昔の携帯ゲームに

車が左右から走って来る道路を カエルを操って 轢かれない様に渡る

というのがあったが、まさしくそれだった。
しかも、僕はゲームの様に3匹もいない。

それでもだ。
それでも1時間ほど気をつけながら歩いていると、今度は街灯さえなくなった・・・。

落ち着け! 落ち着け! 暗闇に目を慣らせ!

そう言い聞かせて煙草でも吹かしていると、確かに目は慣れた。
慣れたが、道行く車の知った事ではない。
ドライバーは人影など見えない国道を

まさか真っ黒なカエルが右に左に横切ってるなんて思ってくれない。

ひたすら耳を澄まして目を凝らし、僕は神経を尖らせるしかなかった。
冷や冷やモノで、カメの歩みだ。カエルでカメって、どんな生き物だ。

やがて、最大の難関がやってきた。

進行方向へ向かって、ゆるやかな右カーブ。
僕は、海岸線の逆を歩いていた。なんとか時折、自販機などがあって安全だったからだ。
しかし、どう見てもある一点で歩道が消えている。ガードレールが、終わりを告げている。
そのまま車道の端を歩いたりしてると、前方からの車に対して死角になるので

かなりの確率で、カエルさんサヨウナラだ (。-人-。)チーン…

どうしよう。
反対側って、海だよな。
さっきから 「ドドドドドド・・・」 って聞こえるもんな。
海鳴りだよな。
ジョジョじゃないよな。

そして不安げに目を凝らす左前方。
ガードレールはあるけど・・・

歩道、なし(´,_ゝ`)プププ

ノォ~~~~~っっ!!

これは、いくらなんでも歩けないだろう。
考え込んでいるうちに、前方からヘッドライトらしき灯りが見えた。
見えたと思ったら、グゥゥゥウォ~~~~!! と一瞬でトラックが走り抜けた。

右側を歩いた場合のシミュレーション上、まず1匹目のカエルさんが死んだ。

こうなったら、歩道はないがガードレールのある海側を歩こう。

また耳を澄まして目を凝らし、僕は海側に渡って歩みを再開した。
ガードレールが道標にはなっているものの、高さで二十メートルくらいはある断崖だ。
踏み外せば2匹目のカエルさんも無事ではすまない。
車、来ませんように・・・。

そうこうして怯えながら歩く事、5分。
街灯は皆無に等しく、右手にまばらにあったはずの民家の灯りもない。
車も、なぜかピタリと通らなくなった。
こうなると、いちばん明るいのは空だった。見た事もない満天の星空だ。
僕は今まさに星明りで歩いているのだと、妙な感動が胸に沸き起こっていた。
不思議な感慨に、つい立ち止まってしまう。

断崖の下、相変わらず低い音で海鳴りが響いている。
その音は、天空から聞こえてくる様にも思える。
見上げれば星は数え切れないほど、星座盤みたいだ。
水平線の下に、漁船の灯りもチラホラ見えた。
あのお母さんも、そろそろ海に出る時間なのかなあと思い出す。
今日1日を、思い出す。

呑気に酒でも飲みながら列車に揺られた昼間。
唄う場所が見つからないと決め付けて焦り始めた夕方。
開き直って唄い始めた八雲の道端。
今、こうして真っ暗な海沿いの国道を歩いている僕は、一体、何の集大成なんだろう。
失敗や成功はあったろうか。
反省材料はいくつもあったが、どこにも失敗などなかった気もする。
失敗した訳でもないのに、一時はかなりへこんだものだ。
なんて、馬鹿らしいんだろう。

星明りで歩く道のりの険しさを知ったけれど、それもまた僕だけの小さな体験だ。
浮かれてみたり、勝手にへこんだり、誰かのお陰で持ち直してみたり、そんな繰り返しの旅。
いつか、それらは何かになるのだろうか。

もう一度、満天の星空を眺め、何らかの答えをねだる様に僕は大きく息を吸い込んだ。
薄っすらと雲の帯が棚引いて、星々に照らされている。
快晴の様にも見えていたが、雲が出てるんだな。そう思った僕だったが、全くの見当違いだった。
雲に見えていた空の帯は、なんと天の川だった。
星明りに照らされているのではなく、それこそが星の集まりだったのだ。
天の川がこんなにはっきりと見えるなんて生まれて初めてだったので、気が付かなかった。

しばしの感動の後、訳の分からない涙が溢れて止まらなかった。
いや、訳はあったろう。
それこそ幾千億という星の集まりで輝いて見える天の川が、その姿の通り、僕のちっぽけで小さな小さな後悔や経験さえ積み重ねる事でひとつの答えを導けるだろうよと、暗に囁いている気がしたのだ。
明日の函館もまた、知らない町だ。不安はある。
けれど、僕には唄い出す事でしか前に進む方法がない。
唄った結果の対価でしか、生きる希望も実力も手には入らない。
明日は、躊躇せずに唄い出そう。


涙は止まらなかったけれど、僕は歩き出した。
止まらないままに歩き出した瞬間、背面から轟音と共にトラックが追い抜いて行った。
そこで、僕は一気に青ざめた。
猛スピードのトラックのせいじゃない。

あと2、3歩で、道が終わっていたからだ・・・。

実は、立ち尽くしていた所でガードレールは終わり、道の先に茂る雑草の向こうは断崖絶壁だった。
ヘッドライトが照らしてくれたお陰で見えたのだが、ウルウル涙混じりに歩いていたら3匹目のカエルさんも、どうなっていた事やらである。


函館本線八雲駅から南へ1つの山越駅に到着したのは、それから30分ほどだった。
そこでも僕は寒さのために窮地に陥る訳だが、それはまた、次の機会に話そう。


※なお、今回よりコメントの書き込みに、アカウント入力を省略してみました。
  設定方法が分かってなかったんです。。。
  初コメント歓迎ですので、お試しがてら、よろしくお願いします。
  コメント記入者の欄で『名前:URL』を選択してください。
  URLは、未入力でもOKです。
  携帯からのコメントは・・・どうなのか分かりません。
  

ちなみに下の写真は、まったく逆方向の積丹半島・島武意海岸でのものw



Googleマイマップ「西高東低~南高北低」

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=42.255654,140.272483&spn=0.001755,0.004436&z=18

八雲 その1

記念すべき、というか第1回の投稿が北海道の話だった。
(札幌)http://tabiutai.blogspot.com/2009/04/blog-post.html

当初は、どういった感じのストーリーが展開されるのか、まだはっきりとは決まっておらず、とにかく書き出した。
書き出してみて、重いなあと反省して、次にはちょっと旅情めいた事も書いてみた。
(長門)http://tabiutai.blogspot.com/2009/05/blog-post.html


すると今度は、照れくさいなあ、となってしまった。
しかし、旅なんて恥ずかしい事の方が多く

「俺達は恥をかくために旅をしてるんだろう!」


とは、同じく旅ミュージシャンの言葉。
わざわざ恥をかこうとは思っていないが、結果的にそうなる事は多い。
なので恥を忍んで、そんな恥ずかしい、照れくさい話を書き続けている。


北海道の話をしよう。
札幌から函館へ伸びる渡島(おしま)半島に位置する、八雲という町だ。
平成17年の合併で、日本唯一の 『日本海と太平洋の両方に面した町』 になったらしい八雲。
知名度は低いはずだけど、素敵な出会いがあった町。



僕はその時、3度目の小樽で唄った後だった。
下関からスタートして、日本海側を縦断しようと思っていた、2003年の秋。
山陰を過ぎた辺りから順調になったので、寒くなる前に一度、北海道へ渡ろうと思ったのだ。
だから、次の目的地は本州に逆戻りだった。
そうなると一度、青函を渡る事になる。順当に考えれば、次の目的地は函館辺りだろうか。
北海道も3回目ともなれば、さすがに札幌・小樽だけでは物足りなくなっていたので、ちょうど良いかも知れない。


僕は、頭になかったルートを確認するために、午前中の小樽駅でしばし考えた。
函館までは半日を費やす事になるらしいが、実は手持ちが危ない。
ただ、途中の乗り継ぎ駅の長万部(おしゃまんべ)というのが気になる。
そういえば昔、タモさんがテレビで


「おしゃ、まんべ!!」


とか、やってたな。なんか有名な町なんだろうな。
軽々しくもそう思った僕は、そこを開拓地とする事に決めて、ひとまず函館本線に乗り込んだ。
切符は、千円で間に合うだけを買った。


あまり乗客がいなかったので気を緩めてポケットウイスキーなどをチビチビやっていると、列車は石狩湾を右手に見送りながら、やがて山間に入って行く。
天候は、晴れ。
気分は良かった。


ふと、網棚の上にギターを乗せる時に落としたチラシの様なものが目に入り、暇を持て余していた僕は、何気なく拾い上げてそれを眺めた。道央の案内めいたチラシだった。
ひとまずの目的地になった長万部は、まだまだ先だ。小樽から見れば南の太平洋側にある、内浦湾に面した長万部。
その途中に、僕は倶知安(くっちゃん)という地名を見つけた。聞き覚えがある地名だ。温泉もあるらしい。


温泉街は意外に稼げない。
そんな教訓もまだまだ知らなかった僕はワクワクしてしまい、通りかかった車掌さんに切符を見せて倶知安まで幾らなのか聞いてみた。すると、数十円プラスで足りる事が分かった。
程なく、僕は倶知安の駅に降り立った。


うーん。
どうだったんだろう・・・。
地理的には羊蹄山が南南東に見えたはずなのだが、それがキレイに見えたとかいう記憶もない。
今、一生懸命になって思い出してみるのだが、どうにも閑散とした広大な駅前が朧気に浮かぶだけで、具体的な記憶が蘇らない。

蘇らないのは、降りた瞬間に失敗だと決め付け、煙草を一服したのみだからかも知れない。

それは決して倶知安が悪い訳ではなく、下調べもせずに途中下車した自分が悪いのだ。


じゃあ次は長万部だと、素直に長万部までの切符を買った。
本数が少ないので、やけに待った。
暇になると空腹に気付くもので、駅の売店でおむすびを買って食べた。
食べるとなんだか気が楽になるもので、ビールなんか買って飲んだ。
すでに切符を買っているので、出費が気にならないのだ。
まだまだ未熟な旅唄いは、下調べのなさを反省材料にしなかった。しないまま、やがて来た列車に乗り込み、長万部へと向かった。
500円玉があったし、唄えばどうにかなるやと思っていた。


長万部駅は終点だったはずで、居眠りしている所を車掌さんに起こされた。
陽は傾きかけていたけれど、駅前に降り立つと青い空が広がっていた。
大地よりも、まずは広大な空が目に飛び込んだ。
白くかすむ青空から目線を落としていくと海らしき色が見え、その海へ向かって限りなく水平に、建物が並んでいた。


僕は、今もそうするように急いで電話帳を開いた。
― スナック
この町の飲み屋街には、どれくらいの店があるんだろう。どれくらいの規模なんだろう。それを、慌てる様に調べた。
だけど、僕が望むような形の飲み屋街などなさそうだという事に、薄々は気付いていた。
その頃の僕が望んだ、適度に飲み屋が密集して、民家はほとんど無く、代わりに人通りはほどほどにあるという、自分勝手な理想の場所など、ありはしないという事に。


国道を挟んだ海側に数件のスナックや料理屋がある様子だったので、僕はそちらへ渡った。
それから、格子状になったやけに幅の広いその道を、僕は何度も何度も行き来してみた。
だけど夜になったからといって、どうにも座り込んで演奏など出来る雰囲気ではない。
騒音苦情か、でなければ余程の変わり者として、10分で通報される自信だけがあった。
道端で唄いながら旅を続けようという余程の変わり者のクセに、そんな事を考えていた。


僕は、また少し考え込んだ。
どうしようか。
夜にならなければ、分からないこともある。
でも、うまく唄えたからといって、ここで一晩を過ごすにはどうしたらいいだろう。
函館まで行ける小銭は、まだ残っているだろうか。
何も分からない。
何の下調べもない事を、初めて怖いと感じた。


次第に夕日が海と反対側に落ちてゆく。
僕は歩き疲れ、線路を渡る高架の上で黙り込んだ。
とりあえず歩き回ったが、海側も山側も、それっぽい場所が見当たらない。
最後の手持ちで、動くしかない。


改札では、仕事帰りの人や学生で、小さなラッシュになっていた。
ここで唄うのはどうだろうかと、一瞬だけ考えた。
でも、駅前で唄うのは駅員とのトラブルの可能性が高い。
ギターを出してはみたけど止められたじゃ、格好も付かない。
すべてを言い訳にして、僕は移動を決めた。


簡単な直線だけで終わる様な路線図を見ると、函館が聞いて呆れるほど、手持ちはまったく足りやしなかった。動けるのは駅10個分ぐらいだ。
僕はとにかくその中から、いちばん大きい町なんじゃないかと思われる駅を選ぶしかなかった。
いくつかの駅名の中、八雲という駅名が実線で丸く囲まれていた。
多少は、規模の大きい町かも知れない。
僕は、その駅に賭けた。勘だけだ。


1時間もかからず、八雲へは到着した。
駅の規模としては決して大きくなかったが、道路沿いに建つビルや雰囲気は良い感じに思えた。
早速タウンページを開いた僕だったが、すぐに落胆した。スナックの欄は、数行で終わっていた。


スナックの在り処を捜すまでも無く、僕は待合室で考えた。
もしかすると、この駅前がいちばん良いのでは、とも思えた。
時刻は午後7時過ぎ。
まだまだ帰宅する人々が駅を使うだろうし、駅構内から少し離れれば、苦情もないかも知れない。
そして、上手くいけば今日中に函館へ移動出来る。
函館ならばさすがに、深夜まで唄ってどうにかなるだろう。
しかし、その考えもまた、すぐに消えた。消さざるを得なかった。
函館への最終は、すでに終わっていたからだ。




これまで数年。
広島や、大阪や、北海道。九州でも唄い、途方に暮れた事は多かった。
だけど、ここまで心細い事がなかったのも事実だ。
北海道の未知の町で、自分の得意な土俵が見当たらない。
たとえ結果的に一銭も入らない夜だったとしても、唄う事で自分を鼓舞してきた部分がある。
だからといって、まだ唄える場所があるか分からないこの町で、何の反応も実入りもなかったとしたら、一体どうすればいいんだろうか。

すべては、計画性のない行き当たりばったりな動きのせいだ。
余計な出費を抑えて、最初からストレートに函館までを移動していれば良かったのだ。
つまらない後悔が湧き出る。湧き出たが、今更そんなものに意味はない。
残された方法は、八雲というこの知らない町で唄って稼ぐのみだ。
とにかく歩いてみよう、ここで一晩を過ごすとなれば、まだまだ時間はある。

周辺を歩いた挙句に分かった事は、あちこち歩いても仕方がないという事だけだった。
駅から見える距離に、1件のパチンコ屋がある。
大通りから1本裏道に入ると駐車場があり、併設するように飲食店があった。
駅前を除くと、その裏道のみが人通りの多い場所だ。多少なりとも、夜のお店の灯りが見える。
その、ほんの5~6軒のお店が集まる袋小路の入り口で、ここしかないと決めた。
よく、飲み屋のテナントビルの下で唄う事があるが、それと同じ理由だった。
ここを通るからには、お客さんにしても業界人にしても、お酒の入る世界の住人だろうと思ったからだ。

決めたには決めたが、踏ん切りは付かない。
何せ、どっかと腰を下ろしたお店の入り口は、いつ背中のシャッターが開くとも知れない。
この数年に少しだけ蓄えてきた勘を働かせたが、分からなかった。
上手い具合に今からお店を開けそうなお姉さんが通りかかったので

「こちらは営業されてるんですか」 と尋ねると

「いえ・・・今日は閉まってらっしゃると思いますけど」 というギリギリの答えが返ってきた。

それでも少々安心した僕が

「そうですか~。今から唄おうと思ってたので、気になったんです」

なんて余計な一言を発すると

「はあ・・・」

と、要領を得ない感じの作り笑顔で、いなされた。
意味合いとしては 「はあ?」 だったのだろう。

何とかで不安材料のひとつが消えた僕は、意を決してギターケースを開く事にした。
譜面台にハーモニカホルダー、その他諸々が、車も通れない細い袋小路の路上に並べられていく。誰が見ても不思議この上ない光景なのは分かっている。
この時ほど、なんで僕は駅前で唄えないんだろう、と自分で思った事もない。
明らかに、そっちの方が自然に見えるのに。

だけど、先程のお姉さんに 「ここで唄おうと思って」 なんて言ったからには、後へは退けない。
そういった追い詰め方で唄わざるを得ない様にするのが、こういう時の対処法だ。
誰が訝しんでも、何か? と澄ました顔で黙々と準備を進めるのだ。
ポケットウイスキーの残りを流し込み、妖艶なスナックの看板を眺める。
そうすれば、夜を唄う路上唄いの魂は少しずつ盛り上がっていく。
今夜もまた、ここで男と女の飽くなき駆け引きが繰り広げられるのさ、なんて。

が、そこに

チリンチリ~ン ♪

と、可愛らしいお子様のお乗りあそばす三輪車が軽快に通り行くと、路上唄いの魂は少し凹んだ。
お子様の三輪車は、どんな時も戦意を奪う。
いつまでも戦火の絶えない国では、お子様型ロボットの運転する三輪車をそこかしこに走らせればいいと思う。

戦意は奪われたが、喪失はしていない。
したら死ぬ。

そんな訳で、こういう時に便利な長○剛大先生(今更、伏字もないだろうに)の、とんぼよ~、を唄い出す旅唄い。
いきなり、お向かいの2階でカーテンが開くが、唄い始めたからには逆に何が起こっても止める理由にはならない。
カーテン越しの人影に愛想笑いをしながら、僕は歌を続けた。
止めたら死ぬ。

唄い始めまでにかなりの時間を浪費したせいで、40分も唄うと、周囲は一気に人影がまばらになった。
買物帰りの方や三輪車のお子様は消え、逆にフラフラと町を徘徊している様な雰囲気の通行人が増えている。
近隣の苦情が出るならば、すでに出ていてもおかしくない時間なので、あくまで様子を伺いながらだったが、僕はかなり安心して演奏を続けた。
ただし、反応はまだゼロだった。
それでもいい。それでいい。
今夜のうちに、ひとつだけでも反応があればいい。
たったひとつの反応さえあれば、気力は持つ。
唄わなければ何も出来ない身を実感した今となっては、今夜は唄わなかった駅前さえも明日の昼には唄えるだろう。
今夜をどうするかは、唄い終わってから考えよう。
僕は最後のウイスキーを流し込んで、臨戦態勢になった。


~起死回生の八雲編とその後に続く~




Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=42.255654,140.272483&spn=0.001755,0.004436&z=18