佐賀

結果として九州全県を周ったのが、2002年の秋から2003年の春までだった。
「当てのない」というのが「目的地のない」という意味であれば、これほど当てのなかった旅もない。
目的はあったが、目的地はなかった。


9月から福岡に渡り、九州で年越しになる事はおおよそ予想が付いていた。
予想外だったのは、途中から二人旅なんていう厄介に巻き込まれた事だ。

コージが広島の歓楽街である流川に居付いてから、どれくらいが経っていたんだろう。

僕は未だかつて、ここまで僕よりだらしない奴を見た事がなかった。

酒さえ飲めればいい。
女だったら誰でもいい。
歌はひどいわギターもひどい、ついでに僕より歯がない。牙しか残ってない。

人間、見た目ではないと言うが、内面を下回るひどい外面だった。
ギターは自前のペイント(マーカーだ、奴はマーカーでペイントしてた)で塗りつぶした日章旗デザイン
そしてこれまたマジックで書かれた 『天上天下唯我独尊』 の文字。
僕と同い年で32歳にもなる男が、天下に轟く悪名の広島暴走族でも躊躇するような事をやってのけ、当の本人のいでたちと言えば、今時マンガの泥棒でも生やさない様な伸びきったヒゲに、最後に床屋さんに行ったのはいつかしらというボーボーの髪(これは僕も言えた義理じゃない)。鋲を打った黒いレザージャケットに迷彩パンツで、追加するならおチビさんだった。

そいつがヘビメタから演歌までを中途半端に網羅したレパートリーで唄うんだから、そりゃあひどいモノだった。
何より、それでも投げ銭の入るこの日本がすごいと言うしかない。

そんなひどい奴とつるんだのは、僕もまた、ダメ人間だったからだろう。
前歯が全部なくなった口元でニヤッと笑うときのアイツの顔を、結局のところ僕は好きだったんだ。
思えば僕もコージも、お互い宿無し流れ者の気楽さと寂しさは共通の物だった。
すべてがポジティブに能天気なコージも、いちいち面倒くさい思考回路の僕も、単純に人との接点なしで生きていけるほどには強くなかった。
風来坊は、元来が寂しがり屋だ。そしてそれは、決して良い事じゃないと思っている。

繁華街で、気付けば朝までギターを鳴らして唄ってる様な連中だから、知り合う人間もピンからキリまでだ。更に困った事に、キリが8割だ。
いつもギャアギャアと大声で、わざとレパートリーにない歌をリクエストしては帰るお姉ちゃん。いつも歌なんかそっちのけで、頼んでもないギター講座を開いては去っていくお父さん。
いつも、久しぶり~、と数人でやってきて、今から行くキャバクラを思案して通り行く若者たち。
アンタらアタシが面倒見てやろうか? と意味ありげに微笑んでは座り込み、数分後、探し回っていた彼氏に見つかって、いや~! と叫びながら車に乗せられていくベロベロのお姉さん(面倒見てもらわずに良かった)。
いつも同じ歌をリクエストするけど、歌なんかそっちのけで、メシ食ってるか? と千円札を入れていくお父さん。
いつまでもいつまでも、僕たちの仲間になった気で、朝まで座り込んで唄う面倒くさい兄ちゃん。

そんなピンキリの来客の中、これこそ困った事なんだが、僕もコージも、そんな人達が大好きだったのだ。つまらない事に巻き込まれては

「たいぎぃ(広島弁で、面倒くさい・疲れたの意)
を連発するコージだったが、誰かの来訪を心から嫌がった事がない。

わざわざ、という行動に弱いのだ。
そして何より、言葉を投げあう『会話』ってヤツに、それこそまるで無人島で何十年も過ごした人間みたいにいつも飢えまくっていたのだから。

知らない場所では、誰しも早く知り合いが欲しい。
それがいずれ生き難さに繋がる事は、知っているはずなのに。
一期一会などどこ吹く風で、コージも、そして僕も、広島での知り合いは増えていった。

いつも通りすがりに「お疲れさん」と、『サッポロ生搾り』を渡しながら通り行く僕を、コージは当初

『お疲れさん』と呼んでいたらしい。

すでに広島に知り合いも出来たコージが「そろそろ『お疲れさん』が来るで」と時計を見ながら話していたんだと、後で聞いた。

何の事はない。
僕自身が、あいつに近づいたのだ。
僕が今でもあいつを責めたり出来ないのはここだ。
寂しがり屋は、僕だ。

それを確信したのが、佐賀だった。

雨や稼ぎや色々で、やがてどちらからともなく合流する事の多くなった僕とコージだった。
その晩俺は「明日から九州に行く」と告げ、最後の宴がどこまで続いたのかは覚えてない。
でも、はっきりと言えるのは、僕はその時点ではコージを誘っていなかった。
それが二人旅になったのは、決して寂しさからじゃなかった。

福岡~佐賀~長崎~熊本~鹿児島、と移動した11月。
僕は、久しぶりの広島へ電話をかけた。
宮崎へ移動する前日だった。
流川でお世話になっていた母さん・・・ちょっと歳を召したスナックのママさんだったが、僕は「母さん」と呼んでいた。

「いつでもええけ、飲みにきんさい」と、顔を出す度に、タダで飲ませてもらっていたお店だ。
そこに、なんとなく気になっていた事を確認しようと電話をかけたのだ。

虫の知らせなんて気の利いたものじゃないが、電話をかけた事は大正解だった。
久しぶりやね~元気しとるね~、と母さんは上機嫌だったが、僕がコージの事を尋ねると、すぐに声が曇った。

「困っとるんよ~。来るたんびに、お店のボトル1本なくなるし・・・なんか、最近は唄っとらんのじゃないかねぇ。」

九州へ渡る数日前、僕がコージを母さんの所に連れて行ったせいだ。
僕は

「すぐ戻ります」

と告げ、明日の宮崎の稼ぎで、なんとしてでも広島行きを決めようと思った。
僕が紹介したヤツのせいで、人を困らせるのは嫌だ。

日豊本線でたどり着いた宮崎は、なんとも僕に温かい街だった。
お陰で広島までの移動費を超え、また再び九州へ戻れるほどの稼ぎになった。
良い出会いや誘いもあり、これが急ぐ身でなければ・・・と、コージを恨んだ。


高速バスで広島に戻った僕がコージを探すのは、至って簡単だった。
新天地公園はホームレスその他、身分不詳の連中の坩堝で、ヤツは上位に君臨するダメ人間だったからだ。

「ああ。コーちゃんなら、そのビルの2階で寝とると思うよ」

僕が薄暗いエレベーターで上がると、ダンボールが敷き詰められた廊下に、でかい引きずり荷物とギターケースと、コージが転がっていた。
違法もここまでくれば、拍手したい気持ちだ(ここはそのうち僕も世話になり、宴会の声がでか過ぎてバレて即退去命令が出た)。

コージの第一声は、思いもかけなかった。

「おぉ・・・どしたん・・・」

僕は、てっきりいつものハイテンションで、なんしょん~! 帰ったがかや! と、酒臭くわめきたてると思っていたのだ。

まずは挨拶代わりの生絞りで乾杯して、近況より何より、母さんが困っている事を告げた。
するとコージにも色々・・・ホームレスにしか見えない三十路の歌唄いだってロマンスはあるもので、実は広島で付き合っていた女の子とどうだこうだ・・・とあるようで、僕が機を伺って

「俺と、九州に行ってみんか?」

と尋ねると

「ワシも、潮時じゃと思っとったんじゃ・・・」

なんて返事が返ってきた。
とりあえず当てもなく流れて来た広島だけど、別に未練はないと。

そして僕らは、数日中に九州へ向かおうと決めた。
まずは福岡までの移動費、高速バスの4000円を稼ごうと、唄った。
2日目に大きな稼ぎがあり、タイミングを考えて、明後日に出ようと約束した。

なのに、いよいよ出発前夜だという時に、ヤツは酒代で金を減らし、自分の移動費を確保できなかった。

腹も立つが、なんとなくは読めていた結果。
僕は珍しく銀行口座なんかに入れておいたとっておきの1万と数千円を引き出し(後にも先にも、そこに自らお金を入れた事はない)、とにかく、この夜が明けたら出よう、と言い聞かせた。
言い聞かせても、ミユキの金があるからいいや~、なんて手持ちを減らされるのは嫌なので、朝まで一緒にいた。

翌日は福岡へ移動。
酒の残った頭でウトウトしていれば、バスなんてあっという間だった。
福岡は初めてらしいコージだったが、ここは僕に似て観光なんかまったく興味のないやつ。
バスを降りてすぐに駅前のでっかいサウナに誘ったら、ホイホイと付いてきた。
コージも僕も、汚れきっていた。
まずは汗も垢も泥も流してすっきりしたい。
何より、二人旅の初日。ここは形だけでもキッチリとしたいじゃないか。

なのに、キッチリなんて言った舌の根も乾かぬうちに、風呂上りのビールでニヤける二人。


僕も僕で、せっかく宮崎で稼いだ金だったけれど、下ろしてしまうと後は諦めも早いもの。
早々に宴会を始めてしまったのだ。
コージもコージで 気を良くしてしまい

「これがお前の言う旅唄いなら、ワシも考えてみてええが」


なんて、まだ初日の本番も終わらぬうちから調子に乗る始末。
しかし九州はそんなに甘くなかった。
何より、世間が甘くないのだから。


とにかく、こいつと周った九州・・・福岡~長崎~熊本~大分と、思い出すだけで悔しさ満開のエピソードばかりなのである。
長崎ではいきなり、着いた途端にバスから降りられなかった。

飲み過ぎのせいだ。
運転手と二人、必死になって抱き起こし、引きずり降ろした。

僕も経験済みの熊本は、相変わらず良い感じだった。
コージもなかなかの人気者になってくれたが、最終日に目の前の鰻屋さんが親切に下さった鰻丼を、「大好物」と言い切った挙句、半分しか食べられなかった。これも、二日酔いのせいだ。

年越しは長崎でやろうかと言ったのは、僕だった。
龍踊りで有名な長崎くんちが開かれる諏訪神社下の小さな地下道は、飲み屋街では難しい三ヶ日を過ごすのにちょうど良い気がしたのだ。
ほとんど毎日サウナに泊まれるほど調子の良かった街でも、長くなると

「まだ旅に出ないの?」

と、次第に胡散臭く見られてしまうからだ。
タビタビ詐欺みたいに思われてしまうんだろう。

年末の長崎は、思ったほど稼ぎも良くなかった。
それでもギリギリ、屋根つきの場所で夜は越せた。
じゃなきゃ南国とはいえ、冬には雪も降る長崎で、無事に過ごす事は出来なかったはずだ。
長崎で雑居ビルに潜り込んだりはしてないから、金があればサウナで、なければ24時間の店で朝を待っていた。
意外に昔の事を覚えている僕も、長崎の事になると記憶が曖昧だ。
もしかするとすごく大変だった事を、記憶が否定したがっているのかも知れない。
氷点下の夜、雑居ビルの廊下で衣類をありったけ身にまとって朝を待った日々は、いつも思い出したくないから。

そう。それよりコージだ。
コージは特に長崎を気に入る事もなかったようだ。
昼の金の使い方を次第に口うるさく言い始めた事や、いちいち、ここはなんとかで、これは・・・と、捨てたはずの地元を説明する僕にも嫌悪感を隠せない感じだった。

新年も明けて数日。

「別行動しようや」

言い出したのは、僕だった。
発端は、二人一組で分ける稼ぎの少なさだった。
どうしても、寒い冬には人通りも少なく、こればかりはどこにいても大変なのだ。

最初は、コージを広島から連れ出すためだけの九州移動だった。
目的は、達成した。
後はコージが個人的に気に入った熊本へ戻ってもいい。
が、いつまでも付き添う理由はない。
何よりも僕が、コージの路上での振る舞いのだらしなさに嫌気が差したのだ。

その日の足で僕は、どうでも良さそうな顔で納得したコージを長崎に残し、同じ県内の佐世保へ移動した。
佐世保は初体験だった僕は、命からがらといった感じで唄い終えた。

次に久留米へ行き、荒っぽいオヤジに絡まれかけたりしながらも、なんとか唄った。
降り出した雨を避けて転がり込んだサウナで一息ついてビールを飲んでいると、演歌が流れていた。
氷雨だった。
嫌な事に、コージのヘッタクソな、風情も情緒もないダミ声の氷雨を思い出した。

翌日は、佐賀へ向かった。
僕はそろそろ、本州へ戻るつもりでいたのだ。

佐賀は、昨年の秋口に、楽しく唄えた街だった。
寒い真冬とはいえ、白山の飲み屋街は長崎より活気付いて見えた。
飲み屋街にデン! と構える饅頭屋さんの付近に歌唄いがひしめいていたけれど、僕は集団に紛れては稼げないので、まずは他所を当たった。

正月空けて以来、ようやく大台の稼ぎが出た僕は、ひとまずギターをしまった。
それから饅頭屋のビルのあたりで唄う若い子に声をかけて、ダラダラと話していた。
コンビニで酒を買って、グダグダとしゃべり続け、僕もお兄さんと旅してみたいな~、なんて言わせて調子に乗って酔っ払い、目が覚めたら誰もいなかった。
置いてけぼりは、するのも、なるのも、本当に僕の得意技らしい。

白々と明け始める空の下、凍えながら駅へ歩き、長崎に置き去りの馬鹿野郎に電話をした。
僕と同じホームレスのくせに、プリペイドの携帯電話なんか持ちやがって。
あの馬鹿は、この寒さの中で生き延びているんだろうか。

電話は、コール5つくらいで繋がった。
眠そうな声が聞こえる。
福岡の、いつもホームレスの寝てる広場で一緒に寝てるらしい。
馬鹿か。死ぬぞ。ていうか、よく福岡まで動いたもんだ。


朝一の電車で博多へ向かい、僕は地下鉄にも乗らずに天神へ歩いた。
真っ白な息を吐きながらたどり着いた広場のベンチで、ひときわ大きな荷物を置いて寝転がるヤツがいる。

「おい」

僕の声に、のっそりと影が起き上がった。
周囲のホームレスが、ちらりと様子を伺っている。

僕は寝ぼけたままのコージに言った。

「サウナ行くぞ。相棒」

僕とコージは真冬の寒さを忘れるみたいに、ガンガンに汗をかき、二人でビールを空けた。
次に僕が愛想を尽かす小倉までは、また二人の旅は続くのだった。






Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
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神戸

神戸では、もう唄わないだろうと思っていた。
どうしてもアーケードで唄いたい、という知人と共にここを訪れたのが10年近く前。
まだまだ路上演奏を始めたばかりの彼は

「これで俺たちも、三宮デビューですよ!」

と、日曜深夜のまばらな人通りの中、数組がうるさく演奏しているそのアーケードで喜んだ。
僕はといえば、なんで好き好んでこんな騒々しい場所で唄いたがるのか理解できないまま、2、3曲だけ形式的に演奏し、そして誰一人立ち止まる事もなくギターをしまった。

神戸遠征。
知人はただ、それをやりたかっただけなのだ。
これでまた広島の片田舎に戻っても

『俺、神戸でストリートやりましたよ!』

と、自慢げに語る武勇伝が出来て嬉しいのだろう。
武勇伝なんて、おこがましい。
ただの、話のタネだ。
僕は話のタネに唄う彼と、だからそれ以来一緒に唄っていない。
ついでに、賑やか過ぎる神戸で唄う事もないと思っていた。
それがどうして三宮なんだ。

その冬、僕は初めての奈良県での演奏をなんとか手応えのあるものにして終わり、本拠地の広島へと移動していた。
雪は少なかったが、やはり2月の街は当然のように冷たく、深夜の人通りの少なさはそのまま、生活費と移動費にダメージを与えていた。
毎晩、入ったか入らないかの収入で小さな移動を重ねながら、そろそろここでまとまった稼ぎが欲しい、と思ったのが神戸だった。

神戸には、数年来の友人がいる。
名前を Lyou としよう。ま、そのまんまなのだが。

数年来といっても年に一度、8月6日に広島で会うだけのミュージシャン仲間だ。

思い起こせば山陽道を西へ東へ移動する事の多い動きの中で、なぜか通過するだけになっていた神戸に降り立つのを決めたのは、なんの見返りもないのに被爆者への追悼を胸に毎年広島へやって来てくれるLyouへの、せめてもの恩返しだった。

ただ、妙な事があった。

その頃の僕は今と変わらず、自分の日々の動きを、ネット上で日記にしてあちこちに知らせていたのだけど、Lyouへ宛てて書いた『神戸に行く』という日記に対して、奈良の友人がしつこくメッセージを入れてきたのだ。

こいつもまた8月の広島で会った恐るべきマイペースミュージシャンで、亡くなった河島英五にギターを教わった事が何よりの自慢という、やんちゃな、けれど憎めない奴だった。
名前を、かっちゃんとしよう。これまた、そのまんまなのだが。

僕はしつこいメッセージに、これは恐らくLyouと仲の良いかっちゃんが羨ましがって逐一様子を知りたがっているのだろうと苦笑いで流していた。
まさか、楽しそうだからといって、わざわざ奈良から神戸にやってくる奴はいない。


17時のHANDS前は、前後左右へと目まぐるしく人が流れている。
いつも通り防寒には念を入れていたが、海からの風が衣服の隙間から吹き込み、夜もまた冷え込む事は予想するに容易かった。
煙草を吹かして寒さをやり過ごしていると、定刻どおりに横断歩道の向こうからやって来るLyouが見えた。

その姿は、ギターを抱えたイチローのようだ。

相変わらずのハンチングに「久しぶり」と笑い、彼も笑った。
そして

「今、かっちゃんが車で神戸に向かってるみたいです」
という報告で、再会の笑みは大爆笑に変わった。

楽しそうだからといって、奈良から神戸まで来るアホがいたのだ。

おかげで、毎年の広島への遠征を労うはずだった会話は、かっちゃんの無謀な大移動へとスライドして、終始その無邪気なバカっぷりエピソードに、生ビールのジョッキが重ねられた。

聞けば、仕事で和歌山にいたというかっちゃん。
海を渡った訳でもなく、余計に遠回りだったんじゃないのか。
楽しそうだからといって、明日の仕事も考えずに移動する距離じゃない。
何度考えても、苦笑いのオンパレードだ。
そういえば、そんな無茶をする人が、富山にも一人いたっけ。。


21時。焼き鳥屋を後にして、僕とLyouは東門街の通りを物色した。
なかなか道端でギターケースを開くには難しい場所なのだが
運良くというか最近営業を停止した大きなホテルがあり、僕らは

「これは、俺達に唄ってくれといわんばかりのお膳立てじゃないか」

と、嬉々として荷物を置いた。
初めての場所で緊張してしまう僕も、今夜は心強い仲間がいる。
もう1名、心強いかどうかは分からないが間違いなく楽しい仲間が増える。

神戸の夜は、始まった。

しばらくは、お互いに選曲した歌を交互に唄って行くスタイルでスタートした。
Lyouは、色んなストリートミュージシャンを見てきた中で、もっともストイックが似合う男だ。
ストイックなんて今時どこにあるんだという時代に、やはりストイックだ。
数年後、ギターを抱えてアメリカへ行った時も、帰国するまで誰にも行き場を告げていなかった。
それもまた、ストイックだ。
僕だったら絶対に、日本にも飽きたからさ~、とかニヤニヤしながら口が滑るはずだ。

イチロー顔の男は、皆ストイックなんだろうか。

今度、イチロー選手と仲の良いマナカナさんに聞いてみよう。

Lyouの唄い上げる、街を不快にしないセンスの良い選曲と、コンビニで買ったハイネケンと、冷たい風のコンビネーションが心地良い。

途中、ヤクザっぽいのが投げ専用の帽子を指差し

「唄ってもええけどな、これはしまえ」

と言ってきた時も、気の大きくなった僕は睨み返していたほどだ。危ないもんだ。
それでもまあ、投げ銭なんて入る時は勝手にどこにでも入るもの。
それを画的に許せない集団もいるという事にして、睨んだものの形式上さらりと従ったので大阪の二の舞にならずに済んだ。
一の舞である大阪の話は、また時間があったら書こう。

あれこれやってるとLyouの携帯が鳴った。
奴が、到着したらしい。

迎えに行ったLyouとやがて現れたでっかい、モッサリした、満面の笑みの男。

僕は彼の筆舌に尽くし難い行動力を

『お前、アホやろ!?』

と、最上級の賛辞で迎えた。
アホも、嬉しそうだ。

なんにせよ今夜の主役は彼に奪われるわけだが、そんな夜もいい。
路上演奏は初めてというかっちゃん。。。

そう。何を隠そうかっちゃんは、これが路上デビュー。

路上演奏なんて邪道だと、今まで一切やらなかった男が何を血迷ったのか、和歌山から車を飛ばして神戸にやってきた。
そこまで人を豹変させた責任を感じたが、唄い出した彼を見て、そんなもんは吹っ飛んだ。

メッチャ楽しそうやん!!!!!

引っ込めた投げ銭入れなどものともせず、人は絶えなかった。
たこ焼きも差し入れされた。
オヤジ連中が声をかけると、かっちゃんは何度でも、師匠の歌である名曲『酒と泪と男と女』を、バカでかい声で唄った。嬉しそうに唄った。シラフなのに、飲まれて飲んでそうだった。

そのうち、さっき文句を言ったヤクザ屋さんのお偉方さえ味方に付けたかっちゃんの勢いがキャバ嬢を引き連れたダンディーから一万円札を投げてもらうのに、時間は掛からなかった。


奈良のかっちゃんは、すこぶる上機嫌で、その顔を見る僕とLyouも、終わり良ければという顔で笑った。
僕の路上人生の中で、こんなにバカ笑いした夜も少ないだろう。

まだ終わりそうもない神戸の夜だったが、僕以外の二人には朝からの仕事がある。
Lyouを乗せて走り去るかっちゃんの赤いテールを見送ると、途端に寂しさが溢れた。
楽し過ぎただけに、寂しさは純粋に胸で溢れた。
一緒に楽しみ続ける事が出来ないのは、時間の都合だけじゃない気がした。
稼ぎの半分以上は、僕一人がもらってしまっている後ろめたさもあった。
まだまだ、大きなビルの影の向こうで続いてるはずの夜にもう一度飛び込もうかと思ったけれど、Lyouとかっちゃんからもらった楽しさを汚してしまいそうで、やめた。
そのまま、見送った車を背中にして、僕は瀬戸内の真っ暗な海が見たくなった。


誰もが列車や船や何かに揺られて進む旅の中、僕は、旅そのものに揺られて生きているのだ。
瞬間、同じ船に乗って、一緒に笑って、一緒に唄って、そして、僕だけが皆を見送る。

いつの間にか明け始めた海の上、大きな船が遠くに見える。
あれに乗る事も出来るし、あそこから手を振ってもらう事も出来る。
難しい事はない。
多数に入りたければ、多数に入ればいい。
それが、寂しさのせいでもいいじゃないか。

「寂しさに負けないってのは、寂しさを理由に失敗しない事だよ」

いつか自分で口にしたセリフが、涙を誘いそうになった。
だけど、泣いてもどうしようもない。
去り行く船に、笑って手を振り続ける方が、なんだか良い。

だって、ここは神戸。

泣いてどうなる訳でもないさ。






Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=34.698296,135.190201&spn=0.015772,0.021114&z=15

出雲

まずは唄えそうな場所探しという事で、リサーチのつもりで座ったラーメン屋台だったが、オッチャンは数十年ぶりに出雲へ帰ってきた自分じゃ分からないと言う。

「どっか、唄っても良さそうな場所ってありますかねえ」 と尋ねた僕に、困った顔もせず

「ん~・・・分からへんな~」

と、おもいっきり大阪弁で答えてくれた。

仕方ないので、自力で探す事にした。
先行投資は水に消えたが、誰かに尋ねたところで結局、気乗りしなかったら唄わないんだし。
ん? 投資は消えてないか。ラーメンは食ったんだ。。

出雲の飲み屋街は一箇所集中型で、逆に困る事もなかった。
僕は駐車場そばの焼き肉屋横でギターを出し、準備にかかった。
車の往来はあるが、駐車場付近で道も大きく取ってある。問題はないだろう。

人見知りの僕も元気な片田舎では、なぜか緊張感が薄くなる。
いつもなら唄い出すまでに3本は吹かす煙草も、1本で済んだ。
日本酒も、1合で済んだ。いや、なら飲むなというところか。

気負わずに唄っていると、早速の通行人がヤジを飛ばしながら通り過ぎる。
ヤジと言っても、愛のあるヤジだ。好きだな、田舎町のこういう気さくなところ。
とか思ってると、ヤジのお兄ちゃんが戻って来て
「頑張れ!」と小銭を入れてく小憎らしさ。
好きだな、こういう人(笑)。


初めての出雲から、もう8年ほど経つだろうか。
今ではその場所じゃなく、もっと狭い、代官町の入り口で唄ってるけれど。
それでも僕にとって思い出の場所。
出雲の縁結びの神様に会った場所だ・・・。


嘉山さんはこの町で、本当にいろんな人と結びつけてくれた。

「俺はな、ミユキちゃん。あんたに心をもらったよ」

そう言う嘉山さんのお気に入りは、河島英五の『時代遅れ』だった。
若い頃は柔道で慣らしたという嘉山さんが、酒に酔い、歌に涙した。
決して酒は1日2杯じゃないだろうが。

時代遅れの町で、時代遅れに人情もろいオヤジ相手に、時代遅れの店で、時代遅れの旅人が唄う。
出雲の始まりは、そんなふうだった。
補足しておくけれど、時代遅れってのはこの場合、褒め言葉なんだぜ。
もちろん、僕の歌に対してもだ。


嘉山さんのお店は、和風スナックだった。
マスターは飲みに出かけ、ちょっと朝丘雪路似のママさん(歳はご本人より若い)が切り盛りするという、これまた時代がかった定番のお店。
名前を「かなこ」という。
今ならば、なんて良い名前だ! と暖簾だけで大絶賛していたところだが、その頃の僕はまだ残念ながらマナカナファンではなかった。
当時15歳のマナカナさんより、NHK『びっくりか』のセイ子お姉さんが好みだったろう。


僕はマスターに紹介されてお店で唄った。
年配の優しい常連さんに囲まれ、かなり唄った。そして腹いっぱい食べさせてもらった。
翌日も唄わせてもらい、更に翌日には松江のパブで唄う事も決まった。
明日は旅に出るという僕に、招待してくれた店の社長は松江の最高級ホテルを用意してもてなしてくれた。
この3日間、一銭も使う事のなかった僕の手元には、10万近い金が残った。
たかが、道端の歌唄いが。

その後、旅の動きに困っては、いつも出雲を訪れていた。
その度になんとか持ち直し、旅は続いた。
イベントで唄わせてもらい、他にも繋がりは増え、僕は広島から大阪へ行くにも、あえて山陰を通っていたぐらいだ。

年に5回は訪れる町。
まるで新しい故郷が出来た様だった。
道行く人も

「久しぶり」
「いつ帰ってきたの?」

と、親しげだ。

そうやって、数年が経った。
路上唄いの旅も5年ほどが過ぎ、各地にお気に入りが出来始めると、しばらく出雲との縁が遠くなった。
なんだかんだで1年ぶりになりかけたある日、僕は関東から広島へ戻る旅路の上、出雲へと立ち寄った。
久しぶりの代官町は平日で人気がなく、雨が降り出しそうな夜だ。

2時間唄ってみたが何もなく、やはりそんな時に限って雨は降り出す。
僕は仕方ない、と荷物をまとめ、千円の持ち合わせで久しぶりの『かなこ』さんへ顔を出した。

あら、と少し驚いたのはママさん。嘉山さんの姿は見えず、お手伝いのお姉さんがいた。
お久しぶりです、と挨拶して熱燗を頼んだ。

常連のお客さんが1人、お連れさんとカウンターで飲んでいる。
後ろでは、ちょっと見慣れない4人の団体さんが入ったばかりの様子だった。

「嘉山さんはお元気ですか?」

僕が尋ねると、ママさんはお通しを出しながらちょっと顔をしかめた。

「飲みすぎでぇ、寝ちょーが」

らしいな、と笑い、僕はグラスの熱燗を飲み始めた。
しばらくすると、カウンターのお客さんに挨拶を頂いた。
「どこ行ってたの?」
「ええ、東京まで」
そんな会話の中、お連れさんに

「このお兄ちゃん、ミュージシャンだよ。なんか唄ってもらったら」

と紹介してくれた。

その時の僕は久しぶりに故郷に帰ってきた気分だったので、嬉しくて、すぐにギターを出して唄わせてもらった。
チップをもらい、酒の追加を頂いてご機嫌だった。

そろそろ、とお勘定を済ませた常連のお客さんは

「まだ、飲んでていいから」

と、僕の前につり銭を置いて帰った。
お連れさんも喜んでくれた様子で、僕も満足だ。

料理の手も空いたママさんが煙草に火をつけていたので、僕は上機嫌で、もう1杯お酒を頼んだ。
だけどママさんは熱燗を用意するではなく、僕にひとこと言った。

「ミユキちゃん。あんたが唄うと他のお客さんが唄いにくいんだわ」

とっさに、すみません、と笑って謝ったが、ママさんは冷たく続けた。

「うちもカラオケ1曲200円、商売でやっとるけんね。営業妨害だが」

僕は黙り込んでギターをしまい、そのうち出された熱燗を一気に飲んだ。
気付けば後ろでは、カラオケの本を持て余している団体がいた。

ご馳走様、と小さく呟いた僕に、ママさんがお勘定を書いて渡した。
1500円。
僕はその代金を払い、申し訳ない気持ちで、カウンターに乗ったままの頂いたチップを置いて出ようとした。
するとママさんは怒ったように「そげな事、言うちょらんが」と、金をまとめて僕に手渡した。


雨の中、僕はトボトボ歩いた。
自分が、情けなかった。
バカさ加減に気付かなかった自分が悔しくて、どこまでも歩いた。
来た事もないような遠くの、公園の公衆トイレの広い個室に新聞紙を広げて、ずぶ濡れのまま寝た。
一気に飲み干した熱燗が、胸の中でずっと燃えていた。


それからどれくらい経ったろう。
数年後、僕は改めてその時のお詫びをするため「かなこ」さんへ行った。
ママさんは変わらない風情で、あらいらっしゃい、と招いてくれた。
常連の方も、相変わらずだった。
姿の見えない嘉山さんの事を尋ねると、糖尿で長い事入院しているという。

しばらく静かに飲んでた僕にママさんが

「久しぶりに唄えばええだが」

と笑顔で促してくれたが、僕にはもう、断ることしか出来なかった。
ただ、結局は自分から謝れなかったが、やっとあの日の酒が胃に落ちた気がした。



あれから出雲でいちばん変わったものは、オッチャンのラーメン屋台かも知れない。
小さかった屋台はしっかりと大きな骨組みで囲まれ、隣にはテーブルとイスが並んでいる。
オッチャンは変わらず、いつも寡黙にラーメンを作り、丼を洗い、仕込みを続けている。
相変わらずの大阪弁だけど、出雲の町に愛されている。

決してでしゃばる事なく、『おっちゃんラーメン』の看板だけが夜風に吹かれている。









Googleマイマップ「西高東低~南高北低」http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.572449,132.670898&spn=2.086457,3.526611&z=8


作中、承諾を頂いてない一部の固有名詞を脚色しています。
ご了承ください。

長崎

誰しも、生まれた町があり、育った町がある。
まあ、村だったりするかも知れないが。




僕にとっての産まれた町は、九州の最西端に位置する、小さな町だった。
こう書くと、僕の事を多少でも知ってる人は 
「え? 広島じゃなかったの?」 と思うだろう。
それはそれで、また違う話がある。

今回は、紛れもなく生まれ育った長崎の話。


高校をあっという間に中退してバイトなんかもあっという間にやめ続けては
一生パチンコで暮らせていけりゃ楽だなあぐらいにグダグダしてた僕は
その頃、楽器なんてまったくやっていなかった。
まったく、は言い過ぎか。中学で習ったクラシックギターで、CとAmとFとGは辛うじて知っていた。Fにいたっては、初心者が誰でもつまづくレベルで、つまづきっ放しだった。思えば今も、つまづいたままだ。


音楽といえば、もっぱら聴くのが専門で、それもアニキがステレオで流す

松山千春や長渕剛やユーミンや甲斐バンドや中島みゆきや中森明菜だった。

中森明菜は異端に思えるのだが、アニキも二人いれば、まあ、そんなものだ。
僕が自主的に聴いたのは、中学の悪友の間で流行ってたスネークマンショーやそれに付随するYMOのコミカルなおふざけ盤で、おおよそ今の音楽性を表立っては支えていない。ただし、人間性としては堂々と表を支えている。




そんな僕だったから、そのうち家族から飛び出して、好き勝手にやった。
好き勝手な生活のBGMは、尾崎豊でありアルフィーだった。
なんでまた・・・と、この取り合わせに驚く方もいらっしゃるかも知れないが、なんだかそうだったのだから仕方がない。酒飲みは、ビールも焼酎もカクテルも同じ様に飲めるものだ。混ぜはしないが。


ああ、その頃の事を余すことなく書こうとすると、本題にまったく触れられない・・・。


なのでここは端折って、そんなだらしない生活のイラストレーター志望の世間知らずが家を飛び出して借金でも作ってあちこちに迷惑をかけて、それでも懲りずに飛び出してガッカリさせて、なのにまだ飛び出してこれでもかと言わんばかりに迷惑をかけて 「帰ってくるな」 と言われた後から、物語を始めよう。




僕が歌唄いを始めて、2~3年が経っていた。
それは今の本拠地(それさえも最近じゃ戻っていないが)広島であり、当時は彼女の実家の店を手伝い、二束のわらじだった。この二束のわらじが、一生涯の曲者である。


成り行きではあったが、風来坊の身の上をやめる決心で、僕は長い事連絡を絶っていた家族に電話をした。今では仕事も任されている身だし、広島にきちんと身をおいて生活していくと。
実はその時すでに彼女に振られており、借りているアパートの名義を自分にしなければいけなかったからだ。親不孝も限りを尽くした上に、まだ脛を齧るというのかコイツは。


なのに、だ。
それまでやりたい放題だった僕に相当の憤りもあったにも関わらず、両親が家族が許してくれたのに

僕は、そこをやめた。


逃げた。
彼女がいなくなった今となっては、続ける意味を見つけられなかったからだ。
なんて子供染みた、身勝手この上ない話だ。
しかも、それは初めてでなく、そうやって同じ様な状況で広島のバイト先を辞めるのは、これが3回目だった。
毎回、親が頭を下げたはずだ。




僕はもう、やりたい事しか出来ないワガママな人間だと、自分をあきらめた。
どれほど誰かに頭が上がらず、何かを我慢し続けていようと、絶対にどこかで限界が来る。
逃げ場が、酒だったり薬だったり血を流す事だったり、中途半端な逃げ道ばかりだった。
いっそ、キリストを裏切って銀貨30枚で売り渡したイスカリオテのユダみたいに首を吊って死んでしまえばいいのにと、家族ならずとも思ったはずだ。僕が思ったのだから。

家族のためにも、もう、家族とは別れよう。
まるで、浮気相手に本気になった男の、出来損ないの言い訳みたいだけど。





それから僕は、本物の宿無しになった。
宿無しになって2年後、久しぶりに九州の地を踏んだ。
福岡から始まり、佐賀へ行き、順路として長崎に辿り着いただけだった。
よそよそしい、だけど知り尽くした街で、僕は旅人になって唄った。
時間を潰す場所なら、いくらでも思い浮かんだ。
そして、その一つ一つの場所に、誰かの記憶があった。
そして日本中のどこへ行こうと、この町の記憶は僕の心の片隅で、意地の悪い神様みたいな邪魔をする。

大波止、といえば長崎の港だ。
僕は、昨夜眠りこけた港の倉庫街を抜け出し(追い出され)、ギターを担いでは当てもなく街中へ歩き出していた。
一晩中唄っていても知り合いなんか会わないくせに、なぜか道端で、昔のバイト先の先輩に会った。やっぱり同じバイト先で知り合った人と結婚したが、噂では何らかの借金で負われて、挙句、病んだ人だった。病んだ内容までは知らない。
そういえば1度、金を借りたいと電話があったっけ。
でもその人はもう、大学時代に柔道部の主将で大らかだった頃と違い、なんだか卑屈で嫌だった。
やつれた頬で卑屈に笑い、宿無しの歌唄いを 「いいなあ」 と羨み 「ボクなんか、本当に明日死ぬかも知れないしさあ」 と、やっぱり卑屈に笑った。我が身の不幸を寂しそうに口にして、何か少しでも自分の手にしようと一生懸命だった。
僕は、身の不幸を他人のせいみたいに話す彼に 「まあ、みんな大変だから」 と、よくあるセリフを口にして、早々にその場を去る事しか出来なかった。
よくあるセリフなんて、大嫌いだったはずの僕が。

彼の披露宴以来、数年ぶりの再会は、大声で笑うでもなく、肩を叩きあうでもなく、お互いの不遇をそれとなく口にしながら懐を探り合う、みっともない再会だった。
仕方ない。僕は僕でその時、昨夜入った大事な千円札2枚がポケットに無い事に気付いて愕然としていたのだから。

彼と別れ、僕がいた頃にはなかった港の近くのでかい遊歩道に行き、なけなしで買った缶ビールを飲みながら、暗い気分は抜けなかった。
だからそれ以来、彼の事は嫌な思い出として忘れたがっていたし、そのうち忘れた。
そして、ある日思い出す。


数年後、僕はまた九州にいた。
その街との相性は最高に悪いのか、どこで唄ってもダメだった。
毎晩10時間ほど唄っても300円がいいとこのある日、僕は最後の10円玉で電話をかけた。
中学からの友人が、この街にいるからだ。
思い立った時、更には金に困った時だけたまたま電話するだけの友人。
惨めだったが、なんだか心細くて、来てくれとは言わないまでも声が聞きたかった。10円玉一枚で実のある話など出来るはずはないのだが。
それでも彼は、いつも精一杯の優しさで僕を受け止めてくれていた。だからこそ、その優しさに触れたくて電話をかけたのだ。

繋がった電話は相変わらず突然の僕に、いつもの驚きようだったが、声が重苦しかった。

「あの・・・さあ・・・今・・・転勤で横浜にいるんだ」

そうかゴメンゴメン、という、僕の強がった笑い声は、彼に届く事なく通話は終わった。
僕は、長崎で会った変わり果てた先輩とのやり取りを、なぜか思い出した。
同時に、時の流れと自分の不義理を嘲笑った。


長崎は今や僕にとって、よく知っているが、よその土地だ。
なのに、夕方の西坂公園から見下ろす駅前も稲佐山のシルエットも、路面電車のブレーキの音も、コンビニの店頭さえ、何もかもが空間を越えて、記憶に埋もれたはずの誰かの面影に繋がってしまう。
時間だけが、それを越えきれないまま。


それを人が故郷と呼ぶのならば、時間を取り戻せない僕に、故郷は無いのだろう。







Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
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熱海

昨夜に秦野駅前で頂いた虎の子の千円を頼りに、古くからの温泉街・熱海に到着した。


まだ時刻は朝の7時前。
曇り空のせいで8月の暑さも和らいでいるが、蒸し暑い。
夜までは何ひとつ行動予定はないので、駅前で時間を潰すのみだ。

僕の目的はひとつ、今夜の稼ぎで、翌日には金沢まで移動する事だった。

行くよ、と、友人に約束していたのだ。
実際問題、ここから金沢までがどんなルートか幾らかかるのか詳しく考えてはいない。
それを考えるのは、今夜を唄い切った後の事だ。
考えたからといって、何になるわけじゃないのだし。
とりあえず、一万円あれば足りるだろう。



熱海は二度目だ。

数年前に初めて訪れたこの町でのお気に入りは、駅前のバーガーショップ。
このご時世に、大きく 『コーヒーおかわり無料』 の横断幕が心強い。
歩いて日本一周中の旅人にも是非、その折には満喫して欲しいものである。



100円のコーヒーを、更におかわりしながら粘る早朝。
よく見れば、周囲にも同じような一人旅風の客がまばらに見える。
大きなデイパックを床に置き、地図を枕に眠りこける男性。
可愛いピンク色のキャリーバッグを仲良く並べて、携帯電話に見入る若い女の子達。
そして、同じくキャリーバッグとギターケースを放り出して、ただただ昨夜の眠りを取り戻す旅唄い。
駅のベンチは、さすがに背中が痛かった。


キャリーバッグは神奈川の大事なファンの方から譲ってもらったものだ。

車輪が一つダメになってたのを見かねて、引越しの荷物整理と称して僕にくれた。ありがたい事だ。
おかげで標高の高い熱海の駅前から海岸線へのクネクネとした急な坂道を、なんとか下りきることが出来た。
それでも帰りの上り坂では腕もパンパン、汗だくになり、これが車輪の足りない3輪キャリーだったらどうなった事かと背筋が凍ったものだ。改めて、感謝した。

午前9時半を回ると、バーガーショップの2階も少しずつ賑やかになってくる。
僕は深い仮眠から目覚めて、取り出したまま埋まる事のなかった白紙のノートをしまい、もうすっかりやる事がなくなったので駅前を後にすることにした。
以前に訪れた時、一度だけ駅前の土産物屋が並ぶ場所で昼間に唄ったのだが、良い反応ではなかったからだ。良くない反応とは、お店の方々の視線の事で、とりあえず大阪からの観光客にリクエストはもらった。

だけど、やっぱり僕の演奏は夜の街のものだ。
前回は踏ん切りがつかずに見送った熱海銀座での路上演奏を、今夜だけは、どうしても決行しなくちゃいけない。



熱海銀座へ下りて行く、まるで断崖を転げるような道すがら、煙草屋の店先にゴールデンバットを見つけた。
ゴールデンバットは、1個20本入りで300円が相場の煙草市場において珍しい140円の両切り煙草だ。
貧乏ミュージシャンには、なんとも嬉しい安煙草。
ポケットの小銭は、狙ったように残り140と数円。
バッグ内に、お茶のペットボトルとウイスキーはキープしてるので、これで夜を待つとする。




する事がないと言い切ると本当になくなるもので、それではまだまだ夜は待てない。
時刻は、ようやく正午。
のんびりとした街中風景を眺めるのは、利用者も少ないバス停の古びたベンチ。
ぼんやりと煙草の残り本数を計算しながら火をつけて仰ぎ見る空は、相変わらずの曇り空。
海へ吹き抜ける風は湿り気を帯び始め、どうやら雨は避けられない予感。
このまま夜を迎えて、金沢行きの移動費を稼げというのか。
一万円あれば足りるだろう。


一万円・・・・・・・・・。


鬱蒼とした気分は続く。



気分転換に始めた車の県外ナンバー探しは、思ったより時間潰しになった
さすがは観光地。東北・九州、果ては北海道方面からの車も発見できたが、30種を越えた辺りで重複が分からなくなり、面倒くさいのでやめた。多分、正確にカウントしていれば50はいったんじゃないかと思う。

14時頃から、ポツリ・・・パラパラ・・・と頬に雨を感じた。
ギターが濡れるとまずいので、海岸の135号線に出て、しのげそうな場所を探す。
国道は、ビーチ直行の元気な水着家族で賑わい、老いも若きも楽しげだ。
どこか身を紛れさせるのに都合のいい場所はと物色していると、玄関に簡易シャワーを設置したような大きなホテルがあり、中を見るとフロントでは水着の子供が走り回ったり、老夫婦が腰掛けてじっとしているソファーがあったり、どこかの団体の物なのか大荷物の山があったりで、とってもフリーダムな雰囲気。


ここならしばらくのんびり出来るかと思いきや、ものの2分で


「お客様? お手続きはお済みでしょうか?」


と、顔だけは笑顔のスタッフさん。


「いえ、連れを待ってるだけなんで」 と大ウソをつくも


「本日、大変混雑しておりますので、ロビーのご利用はご遠慮願えますか」


と、一蹴された。

ギターケースを抱えたロン毛の30代はサマービーチに溶け込めないのだと実感した。


雨が思ったほど降らないので、あきらめてまた元の通りに戻る。
時刻は16時。
20時から唄えるとして、まだ4時間。
こんな事なら、まだ駅前にいた方が時間が潰せたかも知れないと軽く後悔するが、今からあの坂道を登る気力はない。それは、最後の余力に残しておかないと。


後は、どうやって時間を潰したんだろう。。
営業前で慌しくしている居酒屋の店先の様子を眺めたり、逆に閉まり始めるシャッターの音を聞きながら、座り込んだ道端で通行人に訝しく見咎められながら、ペットボトルのお茶を3分の1までならいいやと飲んでたりしたんだっけ。
とにかく、なんとかそこで夕暮れは過ごした。ひたすら、雨が怖かった。
だけど空は降り出しそうで降らない状態を保ち、そして時刻はようやくで19時を回った。
すっかり固まってしまったヒザを伸ばすと、僕は今夜の演奏場所に見当をつけるため、小さな川を越え、スナックと思しき看板の並ぶ一角へと向かった。

初めての町ではいつも同じ壁にぶつかる。
どこで唄ってよいのか見当がつかないのだ。
元々、道端に唄ってよい場所というものなどないのだから、仕方がない。それは自力で作るものだ。
かといって、どこでも良い訳でなく、やっぱり人の流れだ店先の環境だと判断材料はある。
そしてそれがやってみないと分からないというのが、最大のネックだ。


商店街のある銀座町から飲食店の多い中央町へは、糸川という小さな川を渡る。
川沿いには、春にはたくさんの花を咲かせそうな桜の木が並んでいた。
桜橋という名の、風情のある石造りの緩やかなアーチ橋がかかっていて、僕はなんだか気に入った。
長崎産まれの僕は、石橋があるとなんだか落ち着いてしまうのだ。
橋の真ん中で唄う、という手もあるにはあるが、車の往来もあるようで、邪魔になりそうだ。
僕が唄う事で街の雰囲気を悪いものにはしたくない。それはいつでも、どんな街でも思うことだった。


なので橋を渡った右手の家屋の並びに、営業されてない様子の店舗兼住宅らしきものを発見したので、そこにしようかと思った。雨は時折パラつく感じで降っており、軒先なら多少は防げそうだった。
何より時刻は20時を30分は回り、そろそろどこかに落ち着くべきだ。
僕は、そこに荷物を降ろし、緊張しながらも荷物を用意し始めた。


譜面台を立てる様子を、タクシーの運転手が不思議そうに眺めていく。
熱海のストリートミュージシャン事情はまったく知らないが、恐らくこの場所で唄うなんてヤツは僕のような旅の歌唄いでもない限り存在しないだろう。
誰も唄いそうにない場所。だからこそ意味があるように思う。
それは決して奇をてらう訳でなく、そこに歌があれば素敵なんじゃないかと思わせる場所で、且つ、若年層のストリートミュージシャン気取り(あえて言わせてもらうけど)が決して立ち寄れそうにない場所。
根性のない若い子は、僕の開拓した場所で真似る事は出来ても、開拓精神は持ち合わせていない。
誰かが必死で市民権を獲得した後、そこを荒らす輩の多い事。
僕はいまだに、それがストリートのメッカ(ああ、書いてて恥ずかしい)といわれる場所であろうと、数組が一斉に音を出して騒音バトルを繰り広げる状態を心底憎んでいる。


と言いながら僕もさして根性の持ち合わせがあるでもなく、初めての場所でいつもそうするように、ウイスキーをあおり、道行く人を眺め、少しずつ勇気を振り絞って唄い始める事になる。
譜面台(もっぱら曲選びのみに使う)を出すと、心なしか 『やらなきゃ』 という気分になるので、心の準備が出来ないときにはなるべく早く出す事にしている。
どんなにそれが見当違いの場違いな場所でも、譜面台を立ててギターまで出したのに何もやらなかったら、見る人は 『何やってんだ』 と思うだろう。
なのに、だ。譜面台を出してギターまで出して 『さあ、熱海よ』 と構えた僕への仕打ちは

いきなりの土砂降りだった。

この上ない程に絶妙な最悪のタイミングだった。

ちょっと道に伸びたひさしでは全く意味を成さないくらいの大雨に、僕は大急ぎで荷物をしまった。
ああ、なんとか日中は持ちこたえてくれていたのに、なんでまたここに来て・・・。
何か始まりそうな予感に足を止めていた人達も、蜘蛛の子を散らすように走り去ってしまい、僕はといえば軒先に身を細く立ち尽くし、恨めしく空を見上げるだけだった。
道路を叩きつける雨粒は跳ねて、1時間も僕の足を濡らし続けた。


熱海・・・あきらめよう。
そうも思ったのだが、あきらめるのは明日の金沢行きであり、今夜をあきらめたところでゴールデンバット2本が増えるわけでもない。ましてや、メシ代が降ってくる訳じゃない。熱海がダメな訳じゃなく、天候がダメになっただけだ。
残りを1本にしてしまう煙草に火をつけて、僕は湿った指で吹かした。
息を吸い込み、大きく吐き出し、まるで雨が上がる儀式のように、土砂降りの空に煙を吐き続けた。


そんなインチキおまじないが効いたか効かずか、雨脚は弱くなってきた。
時刻は、22時前。時間は間に合う。
それでも一度たたんだ荷物を同じ場所で開くのは悔しくなり、僕は橋の向こうにある、煙草屋の軒先へ移動する事にした。
桜橋を渡る時、この界隈の案内でもしているのか橋の上にずっと立っていた年配の女性が、じっと僕を見ていた。情けなかった。


弱くなったとはいえ、まだ本降りに近い雨の中、しまうのに手間取ってすっかり濡れたギターにあきらめもつき、さっきとさほど変わらない軒先で、僕はもう濡れながらでも唄う事にした。
橋の上のおばあちゃんは道行く人に声をかけたり話し込んだりしながら、やっぱりじっと僕を見ている。
別に、構いはしない。だって僕は旅唄い。変わり者の最上級に位置する変わり者の中の変わり者なんだから。


ヤケクソという、もはや感心しない唄い始めにはなったが逆に気は楽になり、さっきまで貧相だったはずの表情も柔らかくなった気がした。
心なしか、たまに通る人達も、笑顔で見ていくようだ。
誰だって不意打ちの土砂降りに遭えば、心の余裕はなくなる。雨が上がれば、笑顔は戻る。大袈裟だけど、急な土砂降りを避ける術があるって事は、すごく幸福な事なんだと思った。




ちなみに僕の名前の 『幸(みゆき=しあわせ)』 という漢字は、象形文字だと聞いた事がある。
幸せに形があるのか! と驚いたが、文字の発祥を聞いて更に驚いた。
昔の罪人は木製の手かせをされてたらしいんだけど、それが外れて逃げられる状態を 『幸』 という文字にしたんだとか。
大金持ちでもなく、健康とか名誉でもなく、看守の不手際でまんまと逃げおおせた罪人こそが『幸せ』だなんて、なんて僕にピッタリな名前なんだろう。




ちょっと話がそれたけど、気の持ちようは色んな事の見え方を大きく変える。



橋の上のおばあちゃんから千円もらって嬉しくなっただけなんだけど。


そう、おばあちゃんの話をしよう。

おばあちゃんは、いつも橋の上に立ってるらしい。
何をする、とかは聞かなかった。
でも、道行く夜の方々と親しげに挨拶したり話し込んだり、観光地図片手のカップルにも優しく話しかけたり、街の生き字引みたいな存在なんだと思った。
そのおばあちゃんにして
「28年間ここにいるけど、唄ってる人なんか見た事ない」
と、なんらかのお墨付きを頂いたのは相当に嬉しかった。やっぱり僕は変わり者だな。


がんばってねぇ、と、年配の人特有の柔らかさと大らかさで励まされて、僕は明日も熱海で唄いたくなった。
だって常々、ポン引きに気に入られればその街では唄っていけると思っている僕が、町の生き字引に応援を受けたのだ。これは、何よりも強い味方じゃないか。
それにしても、ついさっきあきらめてた奴が、なんて現金なものだろう。


生き字引のおばあちゃんを味方につけると強かった。
後は雨も上がるし人も来た。
東京からの観光という若い男の子達に唄っていれば、煙草を買出しに来たお店のお姉ちゃんにもお釣りを頂く。
かと思えば、その子が話したのか噂は噂を呼び、あちこちからお店のマスターや重厚な顔つきのバーテンダーや、熱海の業界人が続々と集まり、恥ずかしいくらいの拍手も頂いた。
自販機前というのは意外に小銭が入りそうで入らないというジンクスも打ち砕かれ、熱海ではその夜、小銭王になった気分だった。「お釣りある?」とふざけて言うお客さんに、いつもなら「あいにく」と答えるのに、自信満々で「ありますよ」と答えた。ありますよ、と言われると向こうも出さなきゃ格好がつかず、「ああ、こまかいのあった」なんて苦笑いしながら更に小銭は増えた。


申し訳なかったのが、販売機の売り上げを回収に来た煙草屋のお母さんにまで、ニコニコと笑顔で対応された事。
いやあ、熱海。素敵な町だ。


今も手元で使っているのだが、面白いものも頂いた。
やっぱり煙草を買いに来たおば・・・お姉さん(夜の街なんで、そこはまあ)がずっと座り込んで、心配したお店の人が迎えに来たんだけど、そのお店の方が 


「これ使った方がいいわよ」 と、ザルをくれた。


僕はいつもギターケースを内側にして地味な帽子でも置いて唄ってるんだけど、投げ銭入れはこうあるべし! といったアドバイス付きで、きっとお店で天ぷらでも出してそうなザルを頂いたのだ。
僕はその後、そのザルに日付を入れて使っている。ただし根が小心者なので、帽子の中にこっそり入れて使用させてもらっているが。



いつまでも帰らないGカップのオッパイお姉ちゃんや、「すみません、迷惑かけて」と、そのオッパイ姉ちゃんと今夜知り合ったばかりなのに気を使ってくれるお姉さんがようやくで帰ると、桜橋のおばあちゃんも今夜はおしまいらしい。
どうだったぁ? と尋ねるおばあちゃんに、お蔭様で、と笑顔を返すと、いつの間にか空に星が見えていた。



すっかり濡れたギターを拭きながら詫び、荷物をまとめ、近くにコンビニを探した。
公衆電話から、明日の金沢行きを友人に報告するためだ。
投げ銭は一万円を少し超え、しかもほとんどが硬貨であった。ポケットがすごい事になっている。
僕はなるだけたくさんの五円玉と一円玉を組み合わせて缶ビールを買い、飲みながら電話をかけた。
どこにいるやらの旅唄いが明日のライブに間に合うらしいと聞き、彼も嬉しそうだった。


しかし、実際はとんでもない事態になり、結局ライブには間に合わなかった。
金沢に着いたのは、ライブも終わって打ち上げのさなかであり、電話の彼は渋々僕を迎えに来る事になるのだった。
まあ、それはそれで、その折に話そう。



何にせよ、熱海の夜は終わり、僕は午前中に歩いた急斜面を大荷物で歩いて上り、途中のバス停のベンチでパンをかじり、汗だくで駅前に辿り着いた。
充足感と安堵感と疲れが、最高に心地良かった。
あっという間の眠りから覚め、生垣の横の石のベンチで起き出した僕は、そろそろ開くはずの改札へ向かった。
今日は100円コーヒーで時間を潰している暇などない。




朝5時の改札はそろそろ開く頃で、駅員がひとり、夏休みの貧乏旅行っぽい高校生二人と交わしていた会話が面白かったので、書いておこう。


「熱海って・・・何県なんですか」

「静岡です」

(心配そうな高校生二人)静岡だって・・・どうしよう」



いったい、どんな旅だったのか未だに気になる。
駅員も何が問題なのか量りかねて、やけにクールだったのが更に面白かった。
しかし、その駅員。
僕が「金沢まで」と言った時には

「金沢って・・・北陸のですか?」


と、驚きを隠せない様子だった。普通列車だったし。

そういや熱海から金沢って、日本列島の裏表みたいな位置関係で、鉄道旅行に詳しい人なら聞いただけで、乗継やらの面倒くささにウンザリだろう。もっともマニアになれば、それが楽しいのだろうけど。




そんな訳で熱海の夜は終わった。

あれから三年が経とうとしてるけれど、まだ再訪は果たせていない。

桜橋のあばあちゃんと、食えなかった名物のまご茶が気になっている。









Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
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長門

苦手な路上演奏シチュエーションというものが、ある。

基本、人前で唄うのに緊張は付き物なんだけれど、中でも特に、昼間の路上演奏は苦手だ。
風貌や表情が隠せないから。


その前年、九州をひと周りした僕は、日本海に憧れた。
始点を下関に設定して東へ、そして北へと上がる旅を選んだ。
結局は途中の舞鶴から毎度の小樽へ出航してしまい、逆に函館から南下するルートへと変わったんだけど。。

昨年から九州に残しっぱなしだったろくでなしの連れと熊本で近況を語った僕は、小倉へ移動して一晩を過ごし、翌日には下関へ到着していた。
下関の駅裏にある小さな地下道は九州へ渡るたびに何度も唄わせてもらっていたので、そこまでの緊張もなく演奏を終えた。下関の心温まるエピソードや苦い経験は、また次に話そう。


なんにしても、山口県は瀬戸内側しか詳しくなかった僕(それでも大して知ってる訳じゃない)。
『日本海』という、オーソドックスな旅の憧れではあるけれど、その漠然としたイメージに惑い、下関から後の移動地はまったく決めていなかった。
要は、地名が浮かばないのだ。
よって 『駅の路線図を見てなんとなく決める』 という方法に頼った。それが、長門だった。
余談だけれど、この適当な目的地の決定方法は、この時に確立されて以来、今に続くものだ。


下関には近場にネットカフェもなさそうで、小倉に戻るのも癪だ。それにせっかく昼間に稼いだ手持ちをあまり減らしたくなかったため、電話帳で探した『幡生(はたぶ)』という、申し訳ないが聞いたこともない地名のネットカフェを選んで夜を越す事にした。下関から一駅だった。たった一駅でも、逆方向に進むよりはいい。

見も知らぬ町で一晩を過ごし、また翌日、見も知らぬ町へと電車で向かう旅唄い。
なんとまあ、金さえあれば優雅な事だ。
ただし昨夜のネットカフェと移動費の3000円ほどを出費しただけで無一文に近い僕は優雅じゃないので、真っ先に長門市駅付近で唄う場所を考えなければならない。


それにしても長門市・・・。

なんてのどかで、柔らかい日差しの海の町・・・

童謡詩人・金子みすゞの生まれた町・・・


とか今でこそ言ってるが、駅前をぶらりと歩き、そこかしこに貼られているふっくらとした大人しそうなお嬢さんのポスターやら何やらを見るまで、僕はまったく気付いてなかった。
長門なんて言わず仙崎と言ってくれれば、かまぼこと共に思い出したのにな。


長門市の駅は小高い山手にあり、見下ろせば箱庭のような町の向こうには海が広がっていた。
右手を舐めるように仙崎の町が伸び、それは青海島へと繋がる。
なんだか、僕が唄うなんてためらうほどの微笑ましい町だった。
しばらく僕は、左右に広がりながらキラキラと光る紺色の海を眺めてボケーっとしていた。
どうにも夜に唄える下世話な場所もなさそうなので、ボケーッとしてる時間なんてないはずなのに。

そろそろ日の傾く気配を見せる駅前で相変わらずボケーッとしてると、純朴そうな女子中学生の群れがやってきた。
とても苦手な状況に無視を決めていると 「なんか、やるんですか~」 とはにかみながら尋ねられ、更に苦手な状況になった。
「いや・・・まあ・・・暗くなったらね」 なんて要領を得ない返事をすると、残念そうに帰って行った。

若い女の子は僕の歌など聴かないと思い込んでた僕は、つい、そんな返事しか出来なかった。
本当は、そんな事なかったのかも知れない。
せっかくだし照れずに、なんかやりゃあ良かったな・・・と遅い後悔に後押しされ、南口へ向かう連絡通路の角に座り、唄ってみた。仰々しく看板など出せなかったが、やってみた。
だけどもう、タイミングを逃したのか人っ子一人来なかった。



肩を落として南口に自販機でも探していると、15~17の男の子が二人、やってきた。
ニコニコと何か話しかけたそうにしてるが、どうにも言葉がない。
やがて、2人の小声の会話から日本人でない事を察した僕は、ケースからギターを出して、勝手に唄った。
彼らの全然知らない歌だろうけれど。

2曲唄い、男の子の一人が缶コーヒーを、もう1人が100円玉1枚と見知らぬ国のコインをくれた。
元気に走り去る彼らに手を振り、別れた。素敵な笑顔だった。


もう数曲唄ってみようと思っていると、また一人、測量作業の男性が手を休めてやってきた。
珍しいね~、と笑う男性は、尾崎豊の卒業をリクエストして一緒に唄った。

色々と話をして、次はどこに行くの? と尋ねる男性に、とりあえず北へ、と答えれば、オレンジ色に染まり始めた駅舎からは家路を急ぐ人達がまばらに出てくる。
男性は礼を言うと荷物をまとめに車へと戻った。
僕もギターをしまい、最終がなくならないうちに改札へと向かう。
男性にもらった500円で、萩に行こうと決めた。





駅前で唄うことは、本当に数少ない。
皆が、行き場を持っているからこそ出入りするこの場所で、僕だけが行き場を持たない事が寂しくなったりしてしまうから。
公園で、母親の迎えをずっと待っている子供みたいな気分だ。
ひとり、またひとりと減っていく友達に手を振り、僕が待つのは始発の電車だ。



 気になるのはいつも始発と最終だけで

 野良猫ばかりのこの道で朝を待つ



いつしか、そんな歌を作ったけれど、その晩に辿り着いた萩の町は夜の8時で真っ暗になってしまう街で、文字通りに始発を待つ事になる。






Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=37.405074,138.867188&spn=16.275379,28.125&z=5

札幌

大都市は苦手だ。

飲み屋街の路上演奏でメシ食ってこうなんて思ってるんだから、いい加減に慣れればいいものを。
なのに、捻じ曲がった根性がすぐにジャマをする。
しょせん九州の片田舎根性なんだが。


札幌といえば、はぐれる事の多い街だった。
小樽で知り合って居酒屋で飲み明かし、始発で一緒に眠りこけた網走のカナダ人・デイビッド(めんどくさいな)とはぐれたのも札幌なら、せっかく

「飲みに連れてってやるから」

と誘ってくれたオジ様と、ものの2分ではぐれたのも札幌だ。
しかも「今夜の稼ぎ分は保障する」と言うセリフに乗ったのに、まだ未納だった。
妙なスケベ心を起こした自分のせい、という事で渋々もとの場所に戻って唄ったけれど。


もうひとり、いたっけ。

僕はその頃、幾度目かの北海道の旅で、すでに知り合いも出来始めていた。
秋の小樽で知人を通して知り合ったのは、札幌在住のミュージシャンだった。
音楽の好みやスタイル、世代的なものもあり、彼女とはすぐに仲良くなれた気がした。
気がした、なんてまるで尾崎豊の『15の夜』だが、それは僕の、独り善がりの勘違いだったのかも知れないって事だ。

彼女との再会は、翌年、夏の岐阜だった。
美濃の山中で開かれる野外音楽イベントに誘われたのだ。
紹介してくれた女性ミュージシャン以外に知り合いは誰一人としていなかったが、初対面の人間にあつかましいほど馴れ合える僕は、彼女が呆れるほどにすぐにスタッフや出演者達と打ち解け、仲間面しては酒と音楽に酔って騒ぎ、深夜に眠った。
そして、楽しい思い出は残った。

彼女ともしばらくはメールなどで連絡は取り合っていたけれど、もっぱらお互いのHPで近況を知り合っていたと思う。
そんな折、僕は彼女の誕生日に不意打ちをくらった。
祝いの言葉を贈った僕に、彼女は

「上辺だけの祝いなんていりません」

と、冷たい返事を返してくれたのだ。
原因は、僕のHPでの言葉だった。

自分のひねくれた心に甘過ぎる僕は、時折、公の場であるウェブ上でも毒づいて言葉を並べてしまっていた。
それは今も続いてる事だけれど、その時は特に酷かった。
ふざけるように無力さを並べ、自分を卑下して他人を持ち上げたかと思えば

「・・・死にたい(笑)」

なんて、笑いにもならない日記を書いていたのだから。


笑、なんて付けてはいるが、自分では精一杯のシグナルのつもりだった。

俺は皆に心配かけないように明るくて楽しい人間を演じてるんだけど、どうか気付いてください、本当の俺は臆病で弱くって、ついでに思春期から精神疾患もあったりして、安定剤とかそういうのに頼らないとダメな時もある脆い人間なのに、勇気を振り絞ってストリートミュージシャンの真似事なんかやってて、本当はすごく頑張ってるんだよ、そりゃ誰でも大変かも知れないけど、俺だって頑張ってるんだよ・・・

彼女にしてみればそういう感じを受けたのであろう、赦しだけを求めるような、あまりにも幼稚なシグナルだった。
確かに薬剤を飲み過ぎては救急車で運ばれるような生活だったが、彼女に関係はない。
彼女にはただ、僕の冷笑的な「・・・死にたい」が、どうしても許せなかったのだ。


一方的にメールもアクセスも拒否されて、今もおそらく連絡は取れない。
当然といえば当然だろう。
彼女を優しい、甘やかしてくれる理解者と勘違いして、早朝でも深夜でも泣き言のような電話や、逆に酒で浮かれた電話をかけては迷惑になっていた事さえ、そうなるまで気付かなかったのだから。



北海道に行くのは、いつも9月頃だ。
毎年、広島の暑い暑い原爆記念日を過ごしている僕は、9月ならば丁度いいと、涼しくなり始めて心地いいだろうと、いまだに北海道に心地よさを求めて旅に出る。
あっと言う間に過ぎ去っていく北海道の秋を忘れ、ついつい上着さえ持たずに旅へ出る。
そしていつも北海道は、ついこの間まであんなに暑かった夏との遠さを思い出させてくれる。
その暑さは、もうここにはないよ、と。
これは涼しさではなく、寒さだよ、と。

十月も近い深夜のススキノで、いきなりの雨に打たれて逃げ込んだ狸小路の屋根の下。
僕は軽い震えを身体に走らせ、一度も直接には見ることの出来なかった、優しかった彼女の冷たい瞳を想像する。

あなたは、まだ北海道をナメてるの?

そんな声が、聞こえるみたいだ。

冷たい瞳で言われるなら、まだましだ。
その真っ直ぐな瞳にはぐれ続けて、僕は今年も札幌で唄うんだろう。









Googleマイマップ「西高東低~南高北低」http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=37.405074,138.867188&spn=16.275379,28.125&z=5