記念すべき、というか第1回の投稿が北海道の話だった。
(札幌)http://tabiutai.blogspot.com/2009/04/blog-post.html
当初は、どういった感じのストーリーが展開されるのか、まだはっきりとは決まっておらず、とにかく書き出した。
書き出してみて、重いなあと反省して、次にはちょっと旅情めいた事も書いてみた。
(長門)http://tabiutai.blogspot.com/2009/05/blog-post.html
すると今度は、照れくさいなあ、となってしまった。
しかし、旅なんて恥ずかしい事の方が多く
「俺達は恥をかくために旅をしてるんだろう!」
とは、同じく旅ミュージシャンの言葉。
わざわざ恥をかこうとは思っていないが、結果的にそうなる事は多い。
なので恥を忍んで、そんな恥ずかしい、照れくさい話を書き続けている。
北海道の話をしよう。
札幌から函館へ伸びる渡島(おしま)半島に位置する、八雲という町だ。
平成17年の合併で、日本唯一の 『日本海と太平洋の両方に面した町』 になったらしい八雲。
知名度は低いはずだけど、素敵な出会いがあった町。
僕はその時、3度目の小樽で唄った後だった。
下関からスタートして、日本海側を縦断しようと思っていた、2003年の秋。
山陰を過ぎた辺りから順調になったので、寒くなる前に一度、北海道へ渡ろうと思ったのだ。
だから、次の目的地は本州に逆戻りだった。
そうなると一度、青函を渡る事になる。順当に考えれば、次の目的地は函館辺りだろうか。
北海道も3回目ともなれば、さすがに札幌・小樽だけでは物足りなくなっていたので、ちょうど良いかも知れない。
僕は、頭になかったルートを確認するために、午前中の小樽駅でしばし考えた。
函館までは半日を費やす事になるらしいが、実は手持ちが危ない。
ただ、途中の乗り継ぎ駅の長万部(おしゃまんべ)というのが気になる。
そういえば昔、タモさんがテレビで
「おしゃ、まんべ!!」
とか、やってたな。なんか有名な町なんだろうな。
軽々しくもそう思った僕は、そこを開拓地とする事に決めて、ひとまず函館本線に乗り込んだ。
切符は、千円で間に合うだけを買った。
あまり乗客がいなかったので気を緩めてポケットウイスキーなどをチビチビやっていると、列車は石狩湾を右手に見送りながら、やがて山間に入って行く。
天候は、晴れ。
気分は良かった。
ふと、網棚の上にギターを乗せる時に落としたチラシの様なものが目に入り、暇を持て余していた僕は、何気なく拾い上げてそれを眺めた。道央の案内めいたチラシだった。
ひとまずの目的地になった長万部は、まだまだ先だ。小樽から見れば南の太平洋側にある、内浦湾に面した長万部。
その途中に、僕は倶知安(くっちゃん)という地名を見つけた。聞き覚えがある地名だ。温泉もあるらしい。
温泉街は意外に稼げない。
そんな教訓もまだまだ知らなかった僕はワクワクしてしまい、通りかかった車掌さんに切符を見せて倶知安まで幾らなのか聞いてみた。すると、数十円プラスで足りる事が分かった。
程なく、僕は倶知安の駅に降り立った。
うーん。
どうだったんだろう・・・。
地理的には羊蹄山が南南東に見えたはずなのだが、それがキレイに見えたとかいう記憶もない。
今、一生懸命になって思い出してみるのだが、どうにも閑散とした広大な駅前が朧気に浮かぶだけで、具体的な記憶が蘇らない。
蘇らないのは、降りた瞬間に失敗だと決め付け、煙草を一服したのみだからかも知れない。
それは決して倶知安が悪い訳ではなく、下調べもせずに途中下車した自分が悪いのだ。
じゃあ次は長万部だと、素直に長万部までの切符を買った。
本数が少ないので、やけに待った。
暇になると空腹に気付くもので、駅の売店でおむすびを買って食べた。
食べるとなんだか気が楽になるもので、ビールなんか買って飲んだ。
すでに切符を買っているので、出費が気にならないのだ。
まだまだ未熟な旅唄いは、下調べのなさを反省材料にしなかった。しないまま、やがて来た列車に乗り込み、長万部へと向かった。
500円玉があったし、唄えばどうにかなるやと思っていた。
長万部駅は終点だったはずで、居眠りしている所を車掌さんに起こされた。
陽は傾きかけていたけれど、駅前に降り立つと青い空が広がっていた。
大地よりも、まずは広大な空が目に飛び込んだ。
白くかすむ青空から目線を落としていくと海らしき色が見え、その海へ向かって限りなく水平に、建物が並んでいた。
僕は、今もそうするように急いで電話帳を開いた。
― スナック
この町の飲み屋街には、どれくらいの店があるんだろう。どれくらいの規模なんだろう。それを、慌てる様に調べた。
だけど、僕が望むような形の飲み屋街などなさそうだという事に、薄々は気付いていた。
その頃の僕が望んだ、適度に飲み屋が密集して、民家はほとんど無く、代わりに人通りはほどほどにあるという、自分勝手な理想の場所など、ありはしないという事に。
国道を挟んだ海側に数件のスナックや料理屋がある様子だったので、僕はそちらへ渡った。
それから、格子状になったやけに幅の広いその道を、僕は何度も何度も行き来してみた。
だけど夜になったからといって、どうにも座り込んで演奏など出来る雰囲気ではない。
騒音苦情か、でなければ余程の変わり者として、10分で通報される自信だけがあった。
道端で唄いながら旅を続けようという余程の変わり者のクセに、そんな事を考えていた。
僕は、また少し考え込んだ。
どうしようか。
夜にならなければ、分からないこともある。
でも、うまく唄えたからといって、ここで一晩を過ごすにはどうしたらいいだろう。
函館まで行ける小銭は、まだ残っているだろうか。
何も分からない。
何の下調べもない事を、初めて怖いと感じた。
次第に夕日が海と反対側に落ちてゆく。
僕は歩き疲れ、線路を渡る高架の上で黙り込んだ。
とりあえず歩き回ったが、海側も山側も、それっぽい場所が見当たらない。
最後の手持ちで、動くしかない。
改札では、仕事帰りの人や学生で、小さなラッシュになっていた。
ここで唄うのはどうだろうかと、一瞬だけ考えた。
でも、駅前で唄うのは駅員とのトラブルの可能性が高い。
ギターを出してはみたけど止められたじゃ、格好も付かない。
すべてを言い訳にして、僕は移動を決めた。
簡単な直線だけで終わる様な路線図を見ると、函館が聞いて呆れるほど、手持ちはまったく足りやしなかった。動けるのは駅10個分ぐらいだ。
僕はとにかくその中から、いちばん大きい町なんじゃないかと思われる駅を選ぶしかなかった。
いくつかの駅名の中、八雲という駅名が実線で丸く囲まれていた。
多少は、規模の大きい町かも知れない。
僕は、その駅に賭けた。勘だけだ。
1時間もかからず、八雲へは到着した。
駅の規模としては決して大きくなかったが、道路沿いに建つビルや雰囲気は良い感じに思えた。
早速タウンページを開いた僕だったが、すぐに落胆した。スナックの欄は、数行で終わっていた。
スナックの在り処を捜すまでも無く、僕は待合室で考えた。
もしかすると、この駅前がいちばん良いのでは、とも思えた。
時刻は午後7時過ぎ。
まだまだ帰宅する人々が駅を使うだろうし、駅構内から少し離れれば、苦情もないかも知れない。
そして、上手くいけば今日中に函館へ移動出来る。
函館ならばさすがに、深夜まで唄ってどうにかなるだろう。
しかし、その考えもまた、すぐに消えた。消さざるを得なかった。
函館への最終は、すでに終わっていたからだ。
これまで数年。
広島や、大阪や、北海道。九州でも唄い、途方に暮れた事は多かった。
だけど、ここまで心細い事がなかったのも事実だ。
北海道の未知の町で、自分の得意な土俵が見当たらない。
たとえ結果的に一銭も入らない夜だったとしても、唄う事で自分を鼓舞してきた部分がある。
だからといって、まだ唄える場所があるか分からないこの町で、何の反応も実入りもなかったとしたら、一体どうすればいいんだろうか。
すべては、計画性のない行き当たりばったりな動きのせいだ。
余計な出費を抑えて、最初からストレートに函館までを移動していれば良かったのだ。
つまらない後悔が湧き出る。湧き出たが、今更そんなものに意味はない。
残された方法は、八雲というこの知らない町で唄って稼ぐのみだ。
とにかく歩いてみよう、ここで一晩を過ごすとなれば、まだまだ時間はある。
周辺を歩いた挙句に分かった事は、あちこち歩いても仕方がないという事だけだった。
駅から見える距離に、1件のパチンコ屋がある。
大通りから1本裏道に入ると駐車場があり、併設するように飲食店があった。
駅前を除くと、その裏道のみが人通りの多い場所だ。多少なりとも、夜のお店の灯りが見える。
その、ほんの5~6軒のお店が集まる袋小路の入り口で、ここしかないと決めた。
よく、飲み屋のテナントビルの下で唄う事があるが、それと同じ理由だった。
ここを通るからには、お客さんにしても業界人にしても、お酒の入る世界の住人だろうと思ったからだ。
決めたには決めたが、踏ん切りは付かない。
何せ、どっかと腰を下ろしたお店の入り口は、いつ背中のシャッターが開くとも知れない。
この数年に少しだけ蓄えてきた勘を働かせたが、分からなかった。
上手い具合に今からお店を開けそうなお姉さんが通りかかったので
「こちらは営業されてるんですか」 と尋ねると
「いえ・・・今日は閉まってらっしゃると思いますけど」 というギリギリの答えが返ってきた。
それでも少々安心した僕が
「そうですか~。今から唄おうと思ってたので、気になったんです」
なんて余計な一言を発すると
「はあ・・・」
と、要領を得ない感じの作り笑顔で、いなされた。
意味合いとしては 「はあ?」 だったのだろう。
何とかで不安材料のひとつが消えた僕は、意を決してギターケースを開く事にした。
譜面台にハーモニカホルダー、その他諸々が、車も通れない細い袋小路の路上に並べられていく。誰が見ても不思議この上ない光景なのは分かっている。
この時ほど、なんで僕は駅前で唄えないんだろう、と自分で思った事もない。
明らかに、そっちの方が自然に見えるのに。
だけど、先程のお姉さんに 「ここで唄おうと思って」 なんて言ったからには、後へは退けない。
そういった追い詰め方で唄わざるを得ない様にするのが、こういう時の対処法だ。
誰が訝しんでも、何か? と澄ました顔で黙々と準備を進めるのだ。
ポケットウイスキーの残りを流し込み、妖艶なスナックの看板を眺める。
そうすれば、夜を唄う路上唄いの魂は少しずつ盛り上がっていく。
今夜もまた、ここで男と女の飽くなき駆け引きが繰り広げられるのさ、なんて。
が、そこに
チリンチリ~ン ♪
と、可愛らしいお子様のお乗りあそばす三輪車が軽快に通り行くと、路上唄いの魂は少し凹んだ。
お子様の三輪車は、どんな時も戦意を奪う。
いつまでも戦火の絶えない国では、お子様型ロボットの運転する三輪車をそこかしこに走らせればいいと思う。
戦意は奪われたが、喪失はしていない。
したら死ぬ。
そんな訳で、こういう時に便利な長○剛大先生(今更、伏字もないだろうに)の、とんぼよ~、を唄い出す旅唄い。
いきなり、お向かいの2階でカーテンが開くが、唄い始めたからには逆に何が起こっても止める理由にはならない。
カーテン越しの人影に愛想笑いをしながら、僕は歌を続けた。
止めたら死ぬ。
唄い始めまでにかなりの時間を浪費したせいで、40分も唄うと、周囲は一気に人影がまばらになった。
買物帰りの方や三輪車のお子様は消え、逆にフラフラと町を徘徊している様な雰囲気の通行人が増えている。
近隣の苦情が出るならば、すでに出ていてもおかしくない時間なので、あくまで様子を伺いながらだったが、僕はかなり安心して演奏を続けた。
ただし、反応はまだゼロだった。
それでもいい。それでいい。
今夜のうちに、ひとつだけでも反応があればいい。
たったひとつの反応さえあれば、気力は持つ。
唄わなければ何も出来ない身を実感した今となっては、今夜は唄わなかった駅前さえも明日の昼には唄えるだろう。
今夜をどうするかは、唄い終わってから考えよう。
僕は最後のウイスキーを流し込んで、臨戦態勢になった。
~起死回生の八雲編とその後に続く~
Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=42.255654,140.272483&spn=0.001755,0.004436&z=18
福山
福山市は広島県のいちばん東の端っこで、岡山県・笠岡市と隣接している。
ぶっちゃけ、電車移動なら広島市内に行くより岡山市内の方が近い。
時間で、広島2時間に対して岡山1時間といったところか。
この街で路上演奏が多くなったのは、就職事情だ。
もう、3年前になる。
「旅唄いが就職なんて。プププ、大笑い」
と言われても別に構わない。
またしても女が理由だからだ。
例によって
「きちんと仕事してよ!」
みたいな事を言った女に、はいはい分かりましたと行動に出たのだ。
長い広島生活ではとにかくミュージシャンを働かせたがる連中が多かった。
流川の大御所・ひげGに言わせれば
「ミュージシャンなんじゃけえ、歌わせてくれえや」
である。
だけど誘いを断るのが苦手な僕は、その度に妙な実力を発揮して、一時期だけは大人しく人並みに働いたものだ。
東広島で
「お前は、そんな事してちゃいかん」 (今思えば、いらん世話だな)
と拾われては安月給の店長候補に仕立て上げられ、胡町で唄ってはいつの間にかスタンド(広島では、スナックをそう呼ぶ)の従業員になり、そしてそのうち辞めて、いくつもの店を危機に陥れたものだった。
路上の歌唄いに
「こいつなら安い給料でも文句なく働くだろう」
なんて考えで仕事をさせるから、そうなる。
働いたからには、僕だって人並みの給料を望むのだ。
まあ、辞め方にはいつも問題があったが。
その時は、とある有名メーカーの工場勤務だった。
しかも、不本意ながら自分が望んでの就職だ。
簡単には辞めない覚悟どころか、これで落ち着いてしまっても仕方がないかもと考えたものだ。
面接もすんなりと終わり、研修2週間でみっちり仕込まれ、まずまず優秀な成績を修めたと思える僕は、しかし予想だにしない場所へと配属が決まった。
それが、福山だった。
え~、福山って遠いじゃん。
そうは思ったが、現状ホームレスの僕には何を断る事も出来ない。
はい喜んで! と、未来は一瞬にして決まった。
そして、12時間勤務の合間に路上へ出る生活が始まった。
当初は彼女絡みもあり、広島市内に足を向けていた。
慣れた場所での演奏が楽だし、何よりも時折は固定ファンも寄ってくれる。
しかし仕事がハードになってくると、それもなかなか出来なくなってきた。
それに、往復4千円近い電車代も痛かった。
毎回、そこまでをトントンに出来る事も少ないからだ。
もとより、飯を食うために唄っていた僕。
それをしなくても飯が食えるようになると、生活リズムは変わった。
個室の与えられた寮の売店では給料天引きの社員カードで好き放題に買い物が出来たし、酒だって煙草だって買えた。
路上の野良犬が牙を失うのに、時間は要らなかった。
唄わなくても、生きてはいける。
いつしか、そんな風にさえ考えるようになった。
物は少なくとも、テレビも冷蔵庫もエアコンも揃った部屋。
たまに誰かとつるんでは飲みに出かけ、タクシーに乗り合わせて帰る。
3勤2休、もしくは2勤3休の恵まれた生活は、だけど心を散漫にするだけだった。
ある日の夕方。
僕は、いつもの寮の売店でビールを買い、ギターを持ち出してグラウンドへ向かった。
グラウンドは、町1個分もある工場敷地を出て、すぐ下手にある。
早朝にはゲートボールに興じる年配の方が見られるけれど、子供も少ない地域なのか、後はほとんど人影を見ない。
そんな誰もいないグラウンドで、久しぶりに声を出してみた。
誰ひとり観客はいなかったけれど、僕はその晩に、ようやく街へと向かう気になった。
福山市内の路上シーンは駅前付近に集中しており、地下道で唄う女の子の声も聞こえていた。
数人の通行人が立ち止まって聴いていた。
余談だけど、その女の子は森恵という名前で、現在は東京で活躍中とか。ただし、彼女との接点は僕にはまったくない。
そんな森恵ちゃんの唄う地下道方面から天満屋デパート側へ横断歩道を渡った場所は、時折ストリートミュージシャンを見かける場所だった。
僕も一時期は唄った事があり、今でも福山に行けば、そこで唄うかもしれない。
しかし夜になると通行人は少なく、路上演奏が珍しかった頃ならまだしも、今では一晩中唄っても、誰も声を掛けてくれない日さえある。
だから、僕の唄いたい場所はやっぱり飲み屋街で、そしてそれは非常に危険地域だった。
広島市内はヤクザこそ多いかも知れないが、表立って幅を利かせている事は少ない。
が、福山は違った。
表立って幅を利かせていた。
演奏場所に選んだのは、御船町の交差点を南に曲がった、飲み屋ビルの並び。
僕が広島で最高のとんこつラーメンを出すと思っている店の隣だった。
そこがだ。
最初は良かった。
非常に良かった。
背面のビルを出入りするお客さんからお店の方から、愛想良くしてもらった。
遅くなり目の前にはタクシーが並ぶ頃、僕はラストに美味しいとんこつラーメンを啜って一日を終えられていた。
それがだ。
ある日を境に、苦情が出る様になった。
後々のためにと、騒音の苦情かと尋ねたが、理由は解り難かった。
無論、警察が苦情の詳細を教えてくれる事は少なく、老年のお巡りさんは、慇懃な態度で
「ここは、いけんのだ」
と言うだけだった。
僕は、じゃあ、といつもの事で場所を変えた。
ビル側が苦情を言ってるなら、それでどうにかなると思った。
数回は、それで良かった。
最初は 「ここじゃ、迷惑になるかな」 と敬遠した飲み屋ビルの下だったが、ビルのお店の方も
「あら、ここじゃ珍しいわね~」
とは言うものの、優しく対応してくれた。
なので、その後もそこで唄ったり、深夜遅くなったら駅前の天満屋前で唄って朝を待っては寮に帰っていた。
なのにだ。
その後も唄う度に注意を受ける様になり、移動した場所でも5分で苦情が来た。
そして、ついに警察の口から最終通告が出たのだ。
「この辺が、どういう所か分かっとるか」
やはり、とは思ったがヤクザのせいだ。
「ヤクザですか」
僕がそう言うと、警察の顔がイライラしたものに変わる。
「それは、俺の口から言えることじゃないけぇ。
とにかく、分かるじゃろ。ここは、そういう事をしたらいけん場所なんじゃ」
もう、確信した。
以前から、違法駐車のパトロールが妙だと思っていたのだ。
僕が最初に唄っていたのは、後から聞けば暴力団事務所の思いっきりそばで、警察はその前をパトロールする度に、ビルの中にいるであろう運転手が出て来るまで5分でも10分でも、しつこく車のナンバーをスピーカーで叫んでいたっけ。
車が動かないなら、さっさと駐禁でもなんでも切ればいいものを、何で親切に呼び続けてるんだと思ったものだ。
僕は、うんざりして、いつもの老警官に言った。
「恐い人が、おるんでしょ」
すると僕が理解したと思ったか、相好が崩れた。
「な、分かったな。もう、ここでは止めてくれぇや」
以上が福山市で感じた、警察と暴力団の馴れ合いだ。
これがたまたま関係者の耳に入ったとして、どんなに国家権力が僕の言い分を否定しても、僕は取り消さない。
お得意の常套手段で、道交法とでも何とでも言えばいいじゃないか。
なんで、回りくどい言い方をする必要があるんだ。
僕は流川での数ヶ月に渡るやり取りも含め(これは、また後日に書こうと思う)、広島の警察が、いちばん信用出来ない。
本拠地として唄ってきただけに、ものすごく悔しい。
路上ミュージシャンは、知らず知らずに迷惑をかけている場合が多々ある。
それは僕も認めていて、苦情の指示には素直に従い、時には折り合いを付けてきている。
だけど、自分らの余計な仕事を増やすなと言わんばかりの警察官には、今でも立ち向かう気構えだ。
広島の警察は、せっかく場所の許可を書面で取ろうが、嫌がらせとしか思えない苦情だけを盾にして、演奏を止めさせていた。
苦情が治まれば、後は見て見ぬふりだ。
嫌な思い出を語ってしまった。
嬉しい事もあったから、それを書こう。
やがて、僕は寮を去る事になる。
体調を崩しがちだった僕は、職場に迷惑をかけ続ける事が嫌で、仕事を辞めた。
たかが派遣の僕に優しかった社員の方にも申し訳はなかったが、旅唄いの生活を、僕は結局のところ変えられなかった。
僕は大量の薬剤に頼らなければ、眠る事もできなくなっていた。
酒にも溺れていた。
荷物をまとめ、会社の常駐の方に近隣の駅まで送ってもらった後、僕は福山市内に向かった。
この街で唄う最後の日だと思った。
所持金は上手い具合に電車代で終わり、真昼間の街で、僕は久しぶりに行き場をなくしていた。
孤独と不安感はあったけれど、不思議と懐かしい気分だった。
この気分こそが、僕の基本だと思えた。
そんな中、どこへ行こうかと立ち尽くしていた僕に声をかける人があった。
僕の本名を呼ぶのは、つい昨日まで一緒に寮にいた、元同僚だった。
班が違うために勤務帯は違ったけれど、度々、体調の悪い僕を気にかけてくれていた男の子だった。
「今夜、唄ってから動こうと思うんだ」
そう笑う僕が、よほど頼りなく見えたのだろうか。
彼は、しばらく無難な会話を続けた後、なぜか財布を出した。
「僕、あんまり歌は聴けませんでしたけど、頑張ってくださいね」
そして、少ないですが、と千円札を一枚手渡してくれた。
「どこかで会えたら、聴かせてください」
僕は上手い言葉も返せず、ただ素直に感謝して別れた。
人通りの少ない天満屋デパートの前でも、今夜は頑張ってみようと心に決めた。
彼には、その後会えていない。いつか本当に会えるだろうか。
最後に、寮での花見の思い出を。
いつもギターケースを抱えてはビールを買ってた僕に、売店のオバちゃんがある日、花見に誘ってくれた。
僕が時々グラウンドで唄ってるのを、仕事帰りに見ていたらしい。
「明日、下のグラウンドで町内の花見があるんよ。
皆カラオケが好きじゃけぇ、唄ってくれたら喜ぶよ」
寮で暇を持て余してる同僚のH君に声をかけ、僕はその花見に参加した。
下手じゃったら帰れ言うで、と笑うオッチャンに、じゃあ大丈夫ですと答え、飲んでは唄い、唄っては飲んだ。
同僚は、見ず知らずの輪の中に平気で入っていく僕に驚いていたが、そのうち一緒に飲んで笑っていた。
そのうち、どこで嗅ぎつけてきたのか、医者に酒を止められてる年上のSさんが乱入し、気が付けばフェードアウトする様にグラウンドの隅で吐いていたっけ。
あの人は何をしに来たん、と失笑されるSさんを眺めながら、花見は楽しくお開きになった。
「秋には祭りがあるけえ、唄うてくれたら、皆また喜ぶよ」
そう言われて微笑んだ僕だったが、秋にはもう、いなくなっていた。
グラウンドの桜は、誰も見てくれなくとも、今年も見事に咲くのだろう。
でも、人間が美しく咲くには、見てくれる誰かを必要とするのかも知れない。
見つめたり、見つめられたりしながら、美しく咲き、人を咲かせる人間でありたい。
Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
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ぶっちゃけ、電車移動なら広島市内に行くより岡山市内の方が近い。
時間で、広島2時間に対して岡山1時間といったところか。
この街で路上演奏が多くなったのは、就職事情だ。
もう、3年前になる。
「旅唄いが就職なんて。プププ、大笑い」
と言われても別に構わない。
またしても女が理由だからだ。
例によって
「きちんと仕事してよ!」
みたいな事を言った女に、はいはい分かりましたと行動に出たのだ。
長い広島生活ではとにかくミュージシャンを働かせたがる連中が多かった。
流川の大御所・ひげGに言わせれば
「ミュージシャンなんじゃけえ、歌わせてくれえや」
である。
だけど誘いを断るのが苦手な僕は、その度に妙な実力を発揮して、一時期だけは大人しく人並みに働いたものだ。
東広島で
「お前は、そんな事してちゃいかん」 (今思えば、いらん世話だな)
と拾われては安月給の店長候補に仕立て上げられ、胡町で唄ってはいつの間にかスタンド(広島では、スナックをそう呼ぶ)の従業員になり、そしてそのうち辞めて、いくつもの店を危機に陥れたものだった。
路上の歌唄いに
「こいつなら安い給料でも文句なく働くだろう」
なんて考えで仕事をさせるから、そうなる。
働いたからには、僕だって人並みの給料を望むのだ。
まあ、辞め方にはいつも問題があったが。
その時は、とある有名メーカーの工場勤務だった。
しかも、不本意ながら自分が望んでの就職だ。
簡単には辞めない覚悟どころか、これで落ち着いてしまっても仕方がないかもと考えたものだ。
面接もすんなりと終わり、研修2週間でみっちり仕込まれ、まずまず優秀な成績を修めたと思える僕は、しかし予想だにしない場所へと配属が決まった。
それが、福山だった。
え~、福山って遠いじゃん。
そうは思ったが、現状ホームレスの僕には何を断る事も出来ない。
はい喜んで! と、未来は一瞬にして決まった。
そして、12時間勤務の合間に路上へ出る生活が始まった。
当初は彼女絡みもあり、広島市内に足を向けていた。
慣れた場所での演奏が楽だし、何よりも時折は固定ファンも寄ってくれる。
しかし仕事がハードになってくると、それもなかなか出来なくなってきた。
それに、往復4千円近い電車代も痛かった。
毎回、そこまでをトントンに出来る事も少ないからだ。
もとより、飯を食うために唄っていた僕。
それをしなくても飯が食えるようになると、生活リズムは変わった。
個室の与えられた寮の売店では給料天引きの社員カードで好き放題に買い物が出来たし、酒だって煙草だって買えた。
路上の野良犬が牙を失うのに、時間は要らなかった。
唄わなくても、生きてはいける。
いつしか、そんな風にさえ考えるようになった。
物は少なくとも、テレビも冷蔵庫もエアコンも揃った部屋。
たまに誰かとつるんでは飲みに出かけ、タクシーに乗り合わせて帰る。
3勤2休、もしくは2勤3休の恵まれた生活は、だけど心を散漫にするだけだった。
ある日の夕方。
僕は、いつもの寮の売店でビールを買い、ギターを持ち出してグラウンドへ向かった。
グラウンドは、町1個分もある工場敷地を出て、すぐ下手にある。
早朝にはゲートボールに興じる年配の方が見られるけれど、子供も少ない地域なのか、後はほとんど人影を見ない。
そんな誰もいないグラウンドで、久しぶりに声を出してみた。
誰ひとり観客はいなかったけれど、僕はその晩に、ようやく街へと向かう気になった。
福山市内の路上シーンは駅前付近に集中しており、地下道で唄う女の子の声も聞こえていた。
数人の通行人が立ち止まって聴いていた。
余談だけど、その女の子は森恵という名前で、現在は東京で活躍中とか。ただし、彼女との接点は僕にはまったくない。
そんな森恵ちゃんの唄う地下道方面から天満屋デパート側へ横断歩道を渡った場所は、時折ストリートミュージシャンを見かける場所だった。
僕も一時期は唄った事があり、今でも福山に行けば、そこで唄うかもしれない。
しかし夜になると通行人は少なく、路上演奏が珍しかった頃ならまだしも、今では一晩中唄っても、誰も声を掛けてくれない日さえある。
だから、僕の唄いたい場所はやっぱり飲み屋街で、そしてそれは非常に危険地域だった。
広島市内はヤクザこそ多いかも知れないが、表立って幅を利かせている事は少ない。
が、福山は違った。
表立って幅を利かせていた。
演奏場所に選んだのは、御船町の交差点を南に曲がった、飲み屋ビルの並び。
僕が広島で最高のとんこつラーメンを出すと思っている店の隣だった。
そこがだ。
最初は良かった。
非常に良かった。
背面のビルを出入りするお客さんからお店の方から、愛想良くしてもらった。
遅くなり目の前にはタクシーが並ぶ頃、僕はラストに美味しいとんこつラーメンを啜って一日を終えられていた。
それがだ。
ある日を境に、苦情が出る様になった。
後々のためにと、騒音の苦情かと尋ねたが、理由は解り難かった。
無論、警察が苦情の詳細を教えてくれる事は少なく、老年のお巡りさんは、慇懃な態度で
「ここは、いけんのだ」
と言うだけだった。
僕は、じゃあ、といつもの事で場所を変えた。
ビル側が苦情を言ってるなら、それでどうにかなると思った。
数回は、それで良かった。
最初は 「ここじゃ、迷惑になるかな」 と敬遠した飲み屋ビルの下だったが、ビルのお店の方も
「あら、ここじゃ珍しいわね~」
とは言うものの、優しく対応してくれた。
なので、その後もそこで唄ったり、深夜遅くなったら駅前の天満屋前で唄って朝を待っては寮に帰っていた。
なのにだ。
その後も唄う度に注意を受ける様になり、移動した場所でも5分で苦情が来た。
そして、ついに警察の口から最終通告が出たのだ。
「この辺が、どういう所か分かっとるか」
やはり、とは思ったがヤクザのせいだ。
「ヤクザですか」
僕がそう言うと、警察の顔がイライラしたものに変わる。
「それは、俺の口から言えることじゃないけぇ。
とにかく、分かるじゃろ。ここは、そういう事をしたらいけん場所なんじゃ」
もう、確信した。
以前から、違法駐車のパトロールが妙だと思っていたのだ。
僕が最初に唄っていたのは、後から聞けば暴力団事務所の思いっきりそばで、警察はその前をパトロールする度に、ビルの中にいるであろう運転手が出て来るまで5分でも10分でも、しつこく車のナンバーをスピーカーで叫んでいたっけ。
車が動かないなら、さっさと駐禁でもなんでも切ればいいものを、何で親切に呼び続けてるんだと思ったものだ。
僕は、うんざりして、いつもの老警官に言った。
「恐い人が、おるんでしょ」
すると僕が理解したと思ったか、相好が崩れた。
「な、分かったな。もう、ここでは止めてくれぇや」
以上が福山市で感じた、警察と暴力団の馴れ合いだ。
これがたまたま関係者の耳に入ったとして、どんなに国家権力が僕の言い分を否定しても、僕は取り消さない。
お得意の常套手段で、道交法とでも何とでも言えばいいじゃないか。
なんで、回りくどい言い方をする必要があるんだ。
僕は流川での数ヶ月に渡るやり取りも含め(これは、また後日に書こうと思う)、広島の警察が、いちばん信用出来ない。
本拠地として唄ってきただけに、ものすごく悔しい。
路上ミュージシャンは、知らず知らずに迷惑をかけている場合が多々ある。
それは僕も認めていて、苦情の指示には素直に従い、時には折り合いを付けてきている。
だけど、自分らの余計な仕事を増やすなと言わんばかりの警察官には、今でも立ち向かう気構えだ。
広島の警察は、せっかく場所の許可を書面で取ろうが、嫌がらせとしか思えない苦情だけを盾にして、演奏を止めさせていた。
苦情が治まれば、後は見て見ぬふりだ。
嫌な思い出を語ってしまった。
嬉しい事もあったから、それを書こう。
やがて、僕は寮を去る事になる。
体調を崩しがちだった僕は、職場に迷惑をかけ続ける事が嫌で、仕事を辞めた。
たかが派遣の僕に優しかった社員の方にも申し訳はなかったが、旅唄いの生活を、僕は結局のところ変えられなかった。
僕は大量の薬剤に頼らなければ、眠る事もできなくなっていた。
酒にも溺れていた。
荷物をまとめ、会社の常駐の方に近隣の駅まで送ってもらった後、僕は福山市内に向かった。
この街で唄う最後の日だと思った。
所持金は上手い具合に電車代で終わり、真昼間の街で、僕は久しぶりに行き場をなくしていた。
孤独と不安感はあったけれど、不思議と懐かしい気分だった。
この気分こそが、僕の基本だと思えた。
そんな中、どこへ行こうかと立ち尽くしていた僕に声をかける人があった。
僕の本名を呼ぶのは、つい昨日まで一緒に寮にいた、元同僚だった。
班が違うために勤務帯は違ったけれど、度々、体調の悪い僕を気にかけてくれていた男の子だった。
「今夜、唄ってから動こうと思うんだ」
そう笑う僕が、よほど頼りなく見えたのだろうか。
彼は、しばらく無難な会話を続けた後、なぜか財布を出した。
「僕、あんまり歌は聴けませんでしたけど、頑張ってくださいね」
そして、少ないですが、と千円札を一枚手渡してくれた。
「どこかで会えたら、聴かせてください」
僕は上手い言葉も返せず、ただ素直に感謝して別れた。
人通りの少ない天満屋デパートの前でも、今夜は頑張ってみようと心に決めた。
彼には、その後会えていない。いつか本当に会えるだろうか。
最後に、寮での花見の思い出を。
いつもギターケースを抱えてはビールを買ってた僕に、売店のオバちゃんがある日、花見に誘ってくれた。
僕が時々グラウンドで唄ってるのを、仕事帰りに見ていたらしい。
「明日、下のグラウンドで町内の花見があるんよ。
皆カラオケが好きじゃけぇ、唄ってくれたら喜ぶよ」
寮で暇を持て余してる同僚のH君に声をかけ、僕はその花見に参加した。
下手じゃったら帰れ言うで、と笑うオッチャンに、じゃあ大丈夫ですと答え、飲んでは唄い、唄っては飲んだ。
同僚は、見ず知らずの輪の中に平気で入っていく僕に驚いていたが、そのうち一緒に飲んで笑っていた。
そのうち、どこで嗅ぎつけてきたのか、医者に酒を止められてる年上のSさんが乱入し、気が付けばフェードアウトする様にグラウンドの隅で吐いていたっけ。
あの人は何をしに来たん、と失笑されるSさんを眺めながら、花見は楽しくお開きになった。
「秋には祭りがあるけえ、唄うてくれたら、皆また喜ぶよ」
そう言われて微笑んだ僕だったが、秋にはもう、いなくなっていた。
グラウンドの桜は、誰も見てくれなくとも、今年も見事に咲くのだろう。
でも、人間が美しく咲くには、見てくれる誰かを必要とするのかも知れない。
見つめたり、見つめられたりしながら、美しく咲き、人を咲かせる人間でありたい。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=34.484999,133.369904&spn=0.000986,0.002132&z=19&iwloc=0004685178236964629ea
途中下車
最近は、列車旅も少なくなった。
おそらく、当てのない旅というのが少なくなってるからだと思う。
「いついつに」
「どこの街で」
という予定には、高速バスが安くて便利なのだ(※注1)。四日市の即興魔人[ひ]などは、夏が巡り来る毎に青春18切符(※注2)で旅に出てるけど。
いろんな兼ね合いがあり、思惑があり、それでも列車の旅は多かった。
今だって都市圏に行けば、何かしらの電車に乗ってる訳だし。
なのに旅唄い。
列車の乗り継ぎを上手にこなすための必須アイテム『時刻表』を、未だに活用しない。
要は、持ち歩いてないのだ。
愛車にまたがり風を切るライダーならば道路地図が欠かせない様に、列車を乗り継いで移動する歌唄いには、ギターとポケットウイスキー(※注3)に時刻表というのは、三種の神器とも言えるだろう。
差し詰め、ギターが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)なら、時刻表は八咫鏡(やたのかがみ)か。
すると、ウイスキーは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)だな。この玉、いちばん使い道が解らんし。
普通の感覚では、列車の乗り継ぎは待ち時間が少ない方が良いのだろう。
何より、目的地に向かう列車でないと意味はなく、その先が続くと思っていたら「○○線は、ここで終わりです」
なんて羽目には誰も遭いたくないはず。
だけど、ある時期の僕にはそれでも良かったのだ。
僕にとっての列車は、ガタゴトと揺られながら景色を眺めてるうちに、知らない街へ運んでくれる楽しい乗り物でさえあれば良かった。
行き止まりのような駅ならば、そこで唄ってみるもよし、何もなさそうならば、また戻れば良かった。
「47都道府県制覇」といった明快な目的もなく、終わりなんて見えない旅の中で、どんな駅だろうが僕にとってはすべてが途中下車地だった。
という訳で八咫鏡を持たない旅唄いは、出発駅で路線図だけを眺めると、おもむろに列車に乗り込んでいた。
おかげで乗り継ぎ駅で1~2時間も待ったりという事は、ざらにあった。
ひどい時期には200円ぐらいの切符を買っては、何も考えずに電車へ乗り込んでいた。
そういう時に気にしているのは、上りか下りだけ。
そんなだから、時には2駅で降りる羽目になり、時には眠りこけ、更には眠ってるうちに3往復ぐらいして元に戻っていたりもした(※注4)。
あえて数往復を狙っている時もあり
理由は、前日に寝る場所もなく彷徨い、疲れきった身体を癒すためだ。
それから、もうひとつ。
ガラガラの始発に座れたが、やがてラッシュが始まって身動きが取れない場合。
荷物が多い旅唄いは、なるべくならラッシュに巻き込まれたくないし、乗降時に迷惑もかけたくない。
僕が今でも路線バスに乗るのを嫌うのは、乗り降りで周囲に迷惑をかけるからなのだ。たまに勘違い野郎が大きいキャリーバッグをこれ見よがしに引きずって、4人掛けの対面席を当然の様に陣取ってる光景を見るが、ああいうのはもう、どうにかして欲しい。
ちょっと、愚痴っぽくなったな。
途中下車は、目的地へ向かうまでの道のりで、文字のごとく途中で寄り道をする事。
焦らず、のんびり、ゆっくり行けばいいよなんて、上辺だけ優しいJ-POP染みた事も言いたくないけど、その旅が、もしも急がないものならば、途中下車もいいだろう。
理由もなく降り立ったのなら、何かあるかもなんて期待しなくていい。
理由を探せたなら、それはそれで素敵。
どこで寄り道をするかは、重要じゃない。
大事な事は、向かうべき方向を見据えている事。
その心が願った寄り道なら、その心に訴えるほどの駅ならば、見知らぬ小さな駅もまた、思い出話ぐらいにはなるだろう。
ずいぶん前、三重県は四日市に向かう途中。
乗り継ぎを失敗して紛れ込んだのは閑散とした駅だったけれど、思いもかけず可愛らしいヒマワリが迎えてくれた。
それだけで、昨夜の寝不足は吹き飛んだっけ。
長い旅の中。 渋滞さえ楽しむ旅は、途中下車の気分とよく似ている。

注1: 高速バスは安さで勝るものがない代わり、とんでもない早朝に目的地で下ろされる。
行き場をなくしてはネットカフェに入り、結局は余計な出費を増やすデメリットもまたある。
注2:僕はもう18歳じゃないからダメだな、なんて思ってたのは遠い昔。
18切符を使ってみたいのは山々だけど、あれは計画性も必要になってくるため、今もまだ使っていない。
春先のヤツが、せめて3週間くらい使えると助かる。
注3:「ポケットのウイスキー空けたら もう一度雪を待とう~」で始まるのは、手塚幸の名曲『西高東低』だが
「普通の人はポケットにウイスキーなんか入れてない」という事もまた、真実。
最近、東京の旅流草一郎のスキットルを奪ったままなので、中に何を入れて返そうか思案中。
注4:山手線でそれをやると、今では規定時間オーバーにより自動改札ではじかれる。
移動目的でなく、先に書いた理由で行き場のないホームレスが延々と眠りこけたり、はたまたエッチな犯罪や鋭利な犯罪目的で乗車してるとみなされるからだろう。
まあ、仕方ないといえば仕方ない。
おそらく、当てのない旅というのが少なくなってるからだと思う。
「いついつに」
「どこの街で」
という予定には、高速バスが安くて便利なのだ(※注1)。四日市の即興魔人[ひ]などは、夏が巡り来る毎に青春18切符(※注2)で旅に出てるけど。
いろんな兼ね合いがあり、思惑があり、それでも列車の旅は多かった。
今だって都市圏に行けば、何かしらの電車に乗ってる訳だし。
なのに旅唄い。
列車の乗り継ぎを上手にこなすための必須アイテム『時刻表』を、未だに活用しない。
要は、持ち歩いてないのだ。
愛車にまたがり風を切るライダーならば道路地図が欠かせない様に、列車を乗り継いで移動する歌唄いには、ギターとポケットウイスキー(※注3)に時刻表というのは、三種の神器とも言えるだろう。
差し詰め、ギターが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)なら、時刻表は八咫鏡(やたのかがみ)か。
すると、ウイスキーは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)だな。この玉、いちばん使い道が解らんし。
普通の感覚では、列車の乗り継ぎは待ち時間が少ない方が良いのだろう。
何より、目的地に向かう列車でないと意味はなく、その先が続くと思っていたら「○○線は、ここで終わりです」
なんて羽目には誰も遭いたくないはず。
だけど、ある時期の僕にはそれでも良かったのだ。
僕にとっての列車は、ガタゴトと揺られながら景色を眺めてるうちに、知らない街へ運んでくれる楽しい乗り物でさえあれば良かった。
行き止まりのような駅ならば、そこで唄ってみるもよし、何もなさそうならば、また戻れば良かった。
「47都道府県制覇」といった明快な目的もなく、終わりなんて見えない旅の中で、どんな駅だろうが僕にとってはすべてが途中下車地だった。
という訳で八咫鏡を持たない旅唄いは、出発駅で路線図だけを眺めると、おもむろに列車に乗り込んでいた。
おかげで乗り継ぎ駅で1~2時間も待ったりという事は、ざらにあった。
ひどい時期には200円ぐらいの切符を買っては、何も考えずに電車へ乗り込んでいた。
そういう時に気にしているのは、上りか下りだけ。
そんなだから、時には2駅で降りる羽目になり、時には眠りこけ、更には眠ってるうちに3往復ぐらいして元に戻っていたりもした(※注4)。
あえて数往復を狙っている時もあり
理由は、前日に寝る場所もなく彷徨い、疲れきった身体を癒すためだ。
それから、もうひとつ。
ガラガラの始発に座れたが、やがてラッシュが始まって身動きが取れない場合。
荷物が多い旅唄いは、なるべくならラッシュに巻き込まれたくないし、乗降時に迷惑もかけたくない。
僕が今でも路線バスに乗るのを嫌うのは、乗り降りで周囲に迷惑をかけるからなのだ。たまに勘違い野郎が大きいキャリーバッグをこれ見よがしに引きずって、4人掛けの対面席を当然の様に陣取ってる光景を見るが、ああいうのはもう、どうにかして欲しい。
ちょっと、愚痴っぽくなったな。
途中下車は、目的地へ向かうまでの道のりで、文字のごとく途中で寄り道をする事。
焦らず、のんびり、ゆっくり行けばいいよなんて、上辺だけ優しいJ-POP染みた事も言いたくないけど、その旅が、もしも急がないものならば、途中下車もいいだろう。
理由もなく降り立ったのなら、何かあるかもなんて期待しなくていい。
理由を探せたなら、それはそれで素敵。
どこで寄り道をするかは、重要じゃない。
大事な事は、向かうべき方向を見据えている事。
その心が願った寄り道なら、その心に訴えるほどの駅ならば、見知らぬ小さな駅もまた、思い出話ぐらいにはなるだろう。
ずいぶん前、三重県は四日市に向かう途中。
乗り継ぎを失敗して紛れ込んだのは閑散とした駅だったけれど、思いもかけず可愛らしいヒマワリが迎えてくれた。
それだけで、昨夜の寝不足は吹き飛んだっけ。
長い旅の中。 渋滞さえ楽しむ旅は、途中下車の気分とよく似ている。
注1: 高速バスは安さで勝るものがない代わり、とんでもない早朝に目的地で下ろされる。
行き場をなくしてはネットカフェに入り、結局は余計な出費を増やすデメリットもまたある。
注2:僕はもう18歳じゃないからダメだな、なんて思ってたのは遠い昔。
18切符を使ってみたいのは山々だけど、あれは計画性も必要になってくるため、今もまだ使っていない。
春先のヤツが、せめて3週間くらい使えると助かる。
注3:「ポケットのウイスキー空けたら もう一度雪を待とう~」で始まるのは、手塚幸の名曲『西高東低』だが
「普通の人はポケットにウイスキーなんか入れてない」という事もまた、真実。
最近、東京の旅流草一郎のスキットルを奪ったままなので、中に何を入れて返そうか思案中。
注4:山手線でそれをやると、今では規定時間オーバーにより自動改札ではじかれる。
移動目的でなく、先に書いた理由で行き場のないホームレスが延々と眠りこけたり、はたまたエッチな犯罪や鋭利な犯罪目的で乗車してるとみなされるからだろう。
まあ、仕方ないといえば仕方ない。
福井
片町、といえば北陸・金沢市の繁華街。
だけど今回、僕が唄うのはお隣、福井市の片町。
その頃ちょっとだけ賢くなった僕は、繁華街の名前だけは事前に調べていた。
人との約束が少しずつ入り始めた頃で、金沢はその次の目的地だった。
数日後にそこで、ある男と落ち合う約束だ。
僕と同じ様に旅を礎に唄い続けている男で、香川のコンテストで僕が見事に負けた男だ。
というか、僕はコンテストそのものに負けていたっけ。
コンテスト中に、投げ銭をせがんでいてはいけないという話。
片町の繁華街入り口のアーチには 『FUKUI KATAMACHI』 と書いてある。
規模と知名度でいけば金沢に及ばないという謙虚さか、はたまた決して勝てない悔しさからだろうか。
ま、おかげで目的地探しには悩まなかった街だ。
それに、僕にはちょうど良い大きさの街だ。
市内を路面電車が走る姿は、やはりどこかで落ち着くものだった。
福井へ流れてきたのは、山陰からじゃなかったかと思う。
そう書いてるうちに、そうだったと確信した。
僕にとっては馴染みの出雲、米子と唄ってるうちはまずまずの調子だった。
「まずまず」なんて書くと語弊があるな。要は自分のモチベーションだ。
そのモチベーションを最低限で保つものが収入でもあるのだが、何より兵庫県の日本海側に突入して処女地が続いたため、その都度テンションのアップダウンが激しかった。
兵庫県の豊岡で唄い出すまでに、どれだけの土地を唄わずに通り過ぎた事か。
耳覚えだけで寄ってみた香住も城之崎温泉も、僕が夜通し唄うにはハードルが高かった。
声を張り上げても問題なさそうな場所が見当たらず、正真正銘の無一文で辿り着いた豊岡も、また厳しい立地だった。
その豊岡で、それでも奇跡的に3日ぶりのまとまった収入(4千円ほどだったか)が入ってテンションを上げた僕は、ようやく気分が楽になったものだ。
ただ、楽になったら次は逆にアルコールでテンションが上がってしまった。
テンションの無駄なアップダウンは、とても疲れる。そこが一人旅における、弱点のひとつかも知れない。
降り立ったJR福井駅の前は、すっきりとして見えた。
僕は初めての町を儀式の様にひと眺めして、いつものタウンページで『順化』という地名を確認した。今夜、唄う事になるはずの街だ。それから地図で、そこがさほど遠くない場所である事も確認すると、時間は十二分に残る。
まだ明るい福井の街を、僕は歩いた。
いつもそうする様に、方角だけをなんとなく見当付けて、わざと迂回しながら歩き出した。
駅から左側のうらぶれた商店街で名物のソースカツ丼の店を見つけると、後で食おうかと手持ちを確認した。
それからまた街中をひた歩くと、今度は思いの外に賑やかな通りへと抜けた。
失礼だが、北陸ではまだ金沢と富山でしか唄ってなかった僕は、この賑わいも福井まで南下したら終わっているんじゃないかと勝手に想像していたのだ。それほどに、京都から西の日本海側で食えない思いをしていた。
だから僕は、ギターケースを抱え、キャリーを転がして歩くには不似合いな雑踏の中を、足早に歩き去った。不似合いなのは荷物のせいじゃなく、僕の汚れた風貌だ。
先日、薄ら寒くなってきた9月の夜風に耐えられずに福知山で買った長袖Tシャツも、もうすでに着続けて4日目だった。10月の熊本は汗だくになったが、9月末の日本海側は陽が翳れば冷える。
秋晴れの空を、数羽の鳥が横切る。
アスファルトに塗られた白線の上で、キャリーケースの車輪がガタガタと音を立てる。
僕は、順化、という読み方も分からない町名を目指して歩く。
初めての街で唄う不安が、なのに今日は、心なしか薄れていく。
根拠はなかった。
あるとすれば、それは浮かれ気分で山陰を後にして、一度はボロボロになった事実だけだ。
小学生の男の子からもらった300円で、二日ぶりにカップラーメンを啜った時の侘しさとありがたみだけだ。珍しく一万円札でもポケットに入って、昼間っからビールでも飲んで、公園で古本でも読んでる時には決して感じない、ニュートラルな心の静けさだった。
大方の目安どおりに片町の繁華街入り口へ到達した僕は、いつもなら散策する路地裏を、今日だけは歩かなかった。
夜にならなければ、結局は分からない事だ。
時刻は、午後6時。
まだ陽は翳らず、空に蒼は生きている。
僕は、1枚残した千円札を手に確かめ、駅前へと戻った。
名物・小川のソースかつ丼と、煙草に缶ビール。
それで十分だ。
それで、今夜も唄い出せるだろう。

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=36.346103,136.389771&spn=1.955576,4.394531&z=8
※画像転載
http://cityphoto.fc2web.com/machi/18fukui/fukui/fukui.html
だけど今回、僕が唄うのはお隣、福井市の片町。
その頃ちょっとだけ賢くなった僕は、繁華街の名前だけは事前に調べていた。
人との約束が少しずつ入り始めた頃で、金沢はその次の目的地だった。
数日後にそこで、ある男と落ち合う約束だ。
僕と同じ様に旅を礎に唄い続けている男で、香川のコンテストで僕が見事に負けた男だ。
というか、僕はコンテストそのものに負けていたっけ。
コンテスト中に、投げ銭をせがんでいてはいけないという話。
片町の繁華街入り口のアーチには 『FUKUI KATAMACHI』 と書いてある。
規模と知名度でいけば金沢に及ばないという謙虚さか、はたまた決して勝てない悔しさからだろうか。
ま、おかげで目的地探しには悩まなかった街だ。
それに、僕にはちょうど良い大きさの街だ。
市内を路面電車が走る姿は、やはりどこかで落ち着くものだった。
福井へ流れてきたのは、山陰からじゃなかったかと思う。
そう書いてるうちに、そうだったと確信した。
僕にとっては馴染みの出雲、米子と唄ってるうちはまずまずの調子だった。
「まずまず」なんて書くと語弊があるな。要は自分のモチベーションだ。
そのモチベーションを最低限で保つものが収入でもあるのだが、何より兵庫県の日本海側に突入して処女地が続いたため、その都度テンションのアップダウンが激しかった。
兵庫県の豊岡で唄い出すまでに、どれだけの土地を唄わずに通り過ぎた事か。
耳覚えだけで寄ってみた香住も城之崎温泉も、僕が夜通し唄うにはハードルが高かった。
声を張り上げても問題なさそうな場所が見当たらず、正真正銘の無一文で辿り着いた豊岡も、また厳しい立地だった。
その豊岡で、それでも奇跡的に3日ぶりのまとまった収入(4千円ほどだったか)が入ってテンションを上げた僕は、ようやく気分が楽になったものだ。
ただ、楽になったら次は逆にアルコールでテンションが上がってしまった。
テンションの無駄なアップダウンは、とても疲れる。そこが一人旅における、弱点のひとつかも知れない。
降り立ったJR福井駅の前は、すっきりとして見えた。
僕は初めての町を儀式の様にひと眺めして、いつものタウンページで『順化』という地名を確認した。今夜、唄う事になるはずの街だ。それから地図で、そこがさほど遠くない場所である事も確認すると、時間は十二分に残る。
まだ明るい福井の街を、僕は歩いた。
いつもそうする様に、方角だけをなんとなく見当付けて、わざと迂回しながら歩き出した。
駅から左側のうらぶれた商店街で名物のソースカツ丼の店を見つけると、後で食おうかと手持ちを確認した。
それからまた街中をひた歩くと、今度は思いの外に賑やかな通りへと抜けた。
失礼だが、北陸ではまだ金沢と富山でしか唄ってなかった僕は、この賑わいも福井まで南下したら終わっているんじゃないかと勝手に想像していたのだ。それほどに、京都から西の日本海側で食えない思いをしていた。
だから僕は、ギターケースを抱え、キャリーを転がして歩くには不似合いな雑踏の中を、足早に歩き去った。不似合いなのは荷物のせいじゃなく、僕の汚れた風貌だ。
先日、薄ら寒くなってきた9月の夜風に耐えられずに福知山で買った長袖Tシャツも、もうすでに着続けて4日目だった。10月の熊本は汗だくになったが、9月末の日本海側は陽が翳れば冷える。
秋晴れの空を、数羽の鳥が横切る。
アスファルトに塗られた白線の上で、キャリーケースの車輪がガタガタと音を立てる。
僕は、順化、という読み方も分からない町名を目指して歩く。
初めての街で唄う不安が、なのに今日は、心なしか薄れていく。
根拠はなかった。
あるとすれば、それは浮かれ気分で山陰を後にして、一度はボロボロになった事実だけだ。
小学生の男の子からもらった300円で、二日ぶりにカップラーメンを啜った時の侘しさとありがたみだけだ。珍しく一万円札でもポケットに入って、昼間っからビールでも飲んで、公園で古本でも読んでる時には決して感じない、ニュートラルな心の静けさだった。
大方の目安どおりに片町の繁華街入り口へ到達した僕は、いつもなら散策する路地裏を、今日だけは歩かなかった。
夜にならなければ、結局は分からない事だ。
時刻は、午後6時。
まだ陽は翳らず、空に蒼は生きている。
僕は、1枚残した千円札を手に確かめ、駅前へと戻った。
名物・小川のソースかつ丼と、煙草に缶ビール。
それで十分だ。
それで、今夜も唄い出せるだろう。

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=36.346103,136.389771&spn=1.955576,4.394531&z=8
※画像転載
http://cityphoto.fc2web.com/machi/18fukui/fukui/fukui.html
岐阜 その2
反省しております。
前回は、少々おふざけが過ぎた様子で。。
今回は決して寄り道の無いよう、したためていきたいと思いますので…
~岐阜・柳ケ瀬編の続き~
時刻は午後の10時を迎えようとしている、岐阜市の歓楽街・柳ケ瀬通。
旅唄い・手塚幸は、おっかなそうな飲み屋街の住人に怯えてしまい、路上演奏を始められないでいるのだった。
昔っから、唄い出す前に許可をもらおうなんざ考えると、ろくな事がない。
「ここで演奏しようと思うんですが」
と、隣のラーメン屋さんに訊ねたら、わざわざ敷地のお店のオーナーさんに話を繋いでくれたものの
「この辺は、若い人いないから…」
という理由で、やんわり断られた別府。
それから
「ここで唄ったら、迷惑ですかね?」
と低姿勢で訊ねたが
「ええ、非常に」
と冷たく断られた下関。
結局は、苦情が出たら退散するつもりで、強引に唄い出すのが最良の手段なのだ。
30歳を過ぎてるとはいえ若造に見られがちな僕。
古くからの飲み屋街で、うるさいだけの(と思われてしまう)歌をジャカジャカやられても迷惑なんだろう。
実際は、歌ってしまえば古き良き時代の(と思われるらしい)フォークソングや歌謡曲中心で、年配の方にこそ受けが良いのだが。
そう。
いつだって、唄ってしまえばどうにかなった。
柳ケ瀬通のど真ん中、とはいかないが、外れでもいいから唄ってみればいい。
大通りに向かって、車がバンバン通ってる道ならば、苦情もないだろう。
そう決意し、僕はグラスに最後のビールを注いだ。
これを飲み干したら、どこかで唄おう。
そんな苦渋の決意に満ちた僕に、ラーメン屋のオバちゃんが声をかけてくる。
「お兄さんは、音楽の方?」
僕は反射的に営業スマイルで
「ええ。あちこち回って唄ってるんですけど、今夜は柳ケ瀬で唄わせてもらおうと思って」
などと、いつもの様に分からない人には分からない受け答えをした。
しかし、オバちゃんは理解してくれた様子で
「そう…遠くからまあ…頑張ってね」
と返してくれた。
地元民の応援を受けた僕は、少し心強くなった。
唄いに出るなら、この瞬間しかない。
「ご馳走様です」
僕は荷物を手に、お勘定を頼んだ。
そしてチラチラと壁を見ながら計算済みの小銭をポケットから総動員させている、その時だ。
あれ…足りない…。
計算上の数字に、あと100円ほど足りない…
僕は急激に青ざめた。
なぜだ?
どうして足りないんだ?
するとキャリーケースの中から、双子の鬼ころしがキャッキャと笑った。
こいつらか!!!
なんと調子に乗って追加したビールの予算は、すでに鬼ころし2パックで支払い済みだったのだ。
頭の中を、言い訳がグルグルと駆け巡る。
皿洗い・・・
いや、1曲唄って・・・
ダメだ! もっとこう、身分を証明するものとか・・・
無い ・゚・(*ノД`*)・゚・。
明細を持ったオバちゃんが、にこやかに僕を見ている。
僕も笑顔のつもりだが、足が震えそうになる。
そして審判の言葉。
「はい、これね」
僕の口から謝罪の言葉が、まさに出ようとした瞬間
あれ…?
少ない…。
ビール1本分、少ない。
もしやオバちゃん、追加分のビールを計算してないのか!?
これなら足りるじゃないか。
僕の心に、マンガでよく見る悪魔が囁きかけた。
「イェーイ、ラッキー」
だが、お決まりの事で、天使も反撃に出た。
「で…でも、よくないんじゃないかなぁ…
そりゃ、オバちゃんが悪いんだけど
でも…よく、ないんじゃないかなあ…」
天使は頼りなかった。
頼りなかったが、なんとか勝利し、僕は恐る恐る自分の首を絞めるように問いかけた。
「あの…これ…」
皆まで言い終わる前に、オバちゃんが笑う。
「サービスしといたから、頑張ってね」
オバちゃ~~~~~~ん!!
。゚:;。+゚(ノω・、)゚+。::゚。:.゚。+。
という事で、深々とお辞儀をした僕に残された道は、さっさと唄い出す事だ。
もう、呼び込みさんが恐いとか言ってられない。
時はゴールデンウイーク明け、平日の飲み屋街。
人は、少ない。
それがどうした。
柳ケ瀬通4丁目入り口の銀行前に陣取った僕は、黙々と準備に入った。
大通りでなく、少しでもアーケード内に入り込んだのは、ギリギリの意地だ。
折りたたみのギタースタンド。
譜面立て。
投げ銭入れのニット帽子。
そして、ギター。
鬼ころし1号も忘れずに。
物々しく始まった作業に、興味本位の呼び込みさんが様子を伺いに来る。
僕は愛想笑いでかわし、歌詞ばかり書き殴った譜面に集中した。
チューニングもそこそこ、静かな静かな柳ケ瀬通にギターが響き始めた。
「上手いねえ」
最初に覗きに来た呼び込みさんだった。
やった…。
それは良くある社交辞令だったかも知れないが、僕は心の底から救われた。
騒々しくてすみませんね、とは返事したものの、もう声を抑える事はしなかった。
いつもならリクエストされるまで唄わない欧陽菲菲も河島英五も、遠慮なく唄った。
まずは、今のうちに受け入れてもらえ。ベタでもなんでもいい、メジャーな歌を唄おう。
未だかつてない緊張感からなんとか解放され、僕は一度ギターを置くと、呼び込みさん達が数人たむろする店の前へ挨拶に行った。
どこから来たの? 岐阜もヒマでゴメンね~、と歓迎ムードで、クラブの社長さんからは生ビールのジョッキまで差し入れてもらった。それから最初に声をかけてくれた方にはチップまで頂いた。
案ずるより…とは言うが、まさに絵に描いたような取り越し苦労だった。
その後は、仕事で愛知から来てるという男性や、陽気なオジさんの集団やらで、度々盛り上がった柳ケ瀬。
トイレは、タクシー会社のやつを使わせてもらった柳ケ瀬。
ありがとう柳ケ瀬。
午前1時を回った終わり際、明日もいるの? と訊かれたが、残念ながら僕には北陸へ急ぐ予定があった。
しかし、必ずまた柳ケ瀬で唄わせてもらう事を心に決めた。
ラーメン屋のオバちゃんに無事に唄い終えた報告をして、アーケードにネットカフェがあった様なので歩いてみた。
ゲームセンターと100円ショップが合体したようなその店で、お決まりの身分証話にケリをつけていると、後ろから声がした。
さっき歌を聴いてくれた、名古屋から来てると言った男性だった。
「もったいない! お前、うちに来い!」
強引だった。
遠慮したものの相当に酔っ払った様子で、これはとりあえず付いて行くしかないと歩いた先はマンスリーマンションだった。
「いちばん上に、コインシャワーがあるでな。
それで終わったら、3階の○○号室にいるから
ピンポンして」
そう告げられ、僕は薄暗い廊下に取り残された。
なんとなく直感で分かっていたが、恐らくこれはシャワーを浴びて戻っても誰も出て来ない気がする。
その男性、寝ながら歩いてたし。
制限時間の壊れたシャワーは100円で浴び放題だったが、案の定ビンゴで、告げられた部屋のピンポンを押しても、ウンともスンとも返事はなかった。
よくある事だとあきらめ、僕はお礼のメモをドアに挟み、再び薄暗いシャワーフロアへ舞い戻った。
ちょっと湿った床を拭けば、脱衣所で丸くなって眠れる。
ギターに湿気が気になったが、どうしようもない。
泊めてやる、とマンションまで連れて行かれて待たされた挙句、1時間経っても誰も戻って来なかった事だってある。
こんな所で眠れる自分を笑いながら眠りに付き、僕は明日、高山に行ってみようかと思っていた。
そして朝方に突然ドアを開けられ
短い悲鳴と共に立ち尽くす住人と思しき女性に起こされた。
どうやら女性用だったらしい(鍵の意味なし)。
が、寝起きでも状況把握は早い旅唄い。
呆然としてる女性の横を大荷物ですり抜けると
「すんませ~ん」
と謝りながら、明け始めた岐阜の街へと出て行くのであった。
通報されなくて良かった。。。
Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=35.419423,136.757142&spn=0.000839,0.002199&z=19
前回は、少々おふざけが過ぎた様子で。。
今回は決して寄り道の無いよう、したためていきたいと思いますので…
~岐阜・柳ケ瀬編の続き~
時刻は午後の10時を迎えようとしている、岐阜市の歓楽街・柳ケ瀬通。
旅唄い・手塚幸は、おっかなそうな飲み屋街の住人に怯えてしまい、路上演奏を始められないでいるのだった。
昔っから、唄い出す前に許可をもらおうなんざ考えると、ろくな事がない。
「ここで演奏しようと思うんですが」
と、隣のラーメン屋さんに訊ねたら、わざわざ敷地のお店のオーナーさんに話を繋いでくれたものの
「この辺は、若い人いないから…」
という理由で、やんわり断られた別府。
それから
「ここで唄ったら、迷惑ですかね?」
と低姿勢で訊ねたが
「ええ、非常に」
と冷たく断られた下関。
結局は、苦情が出たら退散するつもりで、強引に唄い出すのが最良の手段なのだ。
30歳を過ぎてるとはいえ若造に見られがちな僕。
古くからの飲み屋街で、うるさいだけの(と思われてしまう)歌をジャカジャカやられても迷惑なんだろう。
実際は、歌ってしまえば古き良き時代の(と思われるらしい)フォークソングや歌謡曲中心で、年配の方にこそ受けが良いのだが。
そう。
いつだって、唄ってしまえばどうにかなった。
柳ケ瀬通のど真ん中、とはいかないが、外れでもいいから唄ってみればいい。
大通りに向かって、車がバンバン通ってる道ならば、苦情もないだろう。
そう決意し、僕はグラスに最後のビールを注いだ。
これを飲み干したら、どこかで唄おう。
そんな苦渋の決意に満ちた僕に、ラーメン屋のオバちゃんが声をかけてくる。
「お兄さんは、音楽の方?」
僕は反射的に営業スマイルで
「ええ。あちこち回って唄ってるんですけど、今夜は柳ケ瀬で唄わせてもらおうと思って」
などと、いつもの様に分からない人には分からない受け答えをした。
しかし、オバちゃんは理解してくれた様子で
「そう…遠くからまあ…頑張ってね」
と返してくれた。
地元民の応援を受けた僕は、少し心強くなった。
唄いに出るなら、この瞬間しかない。
「ご馳走様です」
僕は荷物を手に、お勘定を頼んだ。
そしてチラチラと壁を見ながら計算済みの小銭をポケットから総動員させている、その時だ。
あれ…足りない…。
計算上の数字に、あと100円ほど足りない…
僕は急激に青ざめた。
なぜだ?
どうして足りないんだ?
するとキャリーケースの中から、双子の鬼ころしがキャッキャと笑った。
こいつらか!!!
なんと調子に乗って追加したビールの予算は、すでに鬼ころし2パックで支払い済みだったのだ。
頭の中を、言い訳がグルグルと駆け巡る。
皿洗い・・・
いや、1曲唄って・・・
ダメだ! もっとこう、身分を証明するものとか・・・
無い ・゚・(*ノД`*)・゚・。
明細を持ったオバちゃんが、にこやかに僕を見ている。
僕も笑顔のつもりだが、足が震えそうになる。
そして審判の言葉。
「はい、これね」
僕の口から謝罪の言葉が、まさに出ようとした瞬間
あれ…?
少ない…。
ビール1本分、少ない。
もしやオバちゃん、追加分のビールを計算してないのか!?
これなら足りるじゃないか。
僕の心に、マンガでよく見る悪魔が囁きかけた。
「イェーイ、ラッキー」
だが、お決まりの事で、天使も反撃に出た。
「で…でも、よくないんじゃないかなぁ…
そりゃ、オバちゃんが悪いんだけど
でも…よく、ないんじゃないかなあ…」
天使は頼りなかった。
頼りなかったが、なんとか勝利し、僕は恐る恐る自分の首を絞めるように問いかけた。
「あの…これ…」
皆まで言い終わる前に、オバちゃんが笑う。
「サービスしといたから、頑張ってね」
オバちゃ~~~~~~ん!!
。゚:;。+゚(ノω・、)゚+。::゚。:.゚。+。
という事で、深々とお辞儀をした僕に残された道は、さっさと唄い出す事だ。
もう、呼び込みさんが恐いとか言ってられない。
時はゴールデンウイーク明け、平日の飲み屋街。
人は、少ない。
それがどうした。
柳ケ瀬通4丁目入り口の銀行前に陣取った僕は、黙々と準備に入った。
大通りでなく、少しでもアーケード内に入り込んだのは、ギリギリの意地だ。
折りたたみのギタースタンド。
譜面立て。
投げ銭入れのニット帽子。
そして、ギター。
鬼ころし1号も忘れずに。
物々しく始まった作業に、興味本位の呼び込みさんが様子を伺いに来る。
僕は愛想笑いでかわし、歌詞ばかり書き殴った譜面に集中した。
チューニングもそこそこ、静かな静かな柳ケ瀬通にギターが響き始めた。
「上手いねえ」
最初に覗きに来た呼び込みさんだった。
やった…。
それは良くある社交辞令だったかも知れないが、僕は心の底から救われた。
騒々しくてすみませんね、とは返事したものの、もう声を抑える事はしなかった。
いつもならリクエストされるまで唄わない欧陽菲菲も河島英五も、遠慮なく唄った。
まずは、今のうちに受け入れてもらえ。ベタでもなんでもいい、メジャーな歌を唄おう。
未だかつてない緊張感からなんとか解放され、僕は一度ギターを置くと、呼び込みさん達が数人たむろする店の前へ挨拶に行った。
どこから来たの? 岐阜もヒマでゴメンね~、と歓迎ムードで、クラブの社長さんからは生ビールのジョッキまで差し入れてもらった。それから最初に声をかけてくれた方にはチップまで頂いた。
案ずるより…とは言うが、まさに絵に描いたような取り越し苦労だった。
その後は、仕事で愛知から来てるという男性や、陽気なオジさんの集団やらで、度々盛り上がった柳ケ瀬。
トイレは、タクシー会社のやつを使わせてもらった柳ケ瀬。
ありがとう柳ケ瀬。
午前1時を回った終わり際、明日もいるの? と訊かれたが、残念ながら僕には北陸へ急ぐ予定があった。
しかし、必ずまた柳ケ瀬で唄わせてもらう事を心に決めた。
ラーメン屋のオバちゃんに無事に唄い終えた報告をして、アーケードにネットカフェがあった様なので歩いてみた。
ゲームセンターと100円ショップが合体したようなその店で、お決まりの身分証話にケリをつけていると、後ろから声がした。
さっき歌を聴いてくれた、名古屋から来てると言った男性だった。
「もったいない! お前、うちに来い!」
強引だった。
遠慮したものの相当に酔っ払った様子で、これはとりあえず付いて行くしかないと歩いた先はマンスリーマンションだった。
「いちばん上に、コインシャワーがあるでな。
それで終わったら、3階の○○号室にいるから
ピンポンして」
そう告げられ、僕は薄暗い廊下に取り残された。
なんとなく直感で分かっていたが、恐らくこれはシャワーを浴びて戻っても誰も出て来ない気がする。
その男性、寝ながら歩いてたし。
制限時間の壊れたシャワーは100円で浴び放題だったが、案の定ビンゴで、告げられた部屋のピンポンを押しても、ウンともスンとも返事はなかった。
よくある事だとあきらめ、僕はお礼のメモをドアに挟み、再び薄暗いシャワーフロアへ舞い戻った。
ちょっと湿った床を拭けば、脱衣所で丸くなって眠れる。
ギターに湿気が気になったが、どうしようもない。
泊めてやる、とマンションまで連れて行かれて待たされた挙句、1時間経っても誰も戻って来なかった事だってある。
こんな所で眠れる自分を笑いながら眠りに付き、僕は明日、高山に行ってみようかと思っていた。
そして朝方に突然ドアを開けられ
短い悲鳴と共に立ち尽くす住人と思しき女性に起こされた。
どうやら女性用だったらしい(鍵の意味なし)。
が、寝起きでも状況把握は早い旅唄い。
呆然としてる女性の横を大荷物ですり抜けると
「すんませ~ん」
と謝りながら、明け始めた岐阜の街へと出て行くのであった。
通報されなくて良かった。。。
Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=35.419423,136.757142&spn=0.000839,0.002199&z=19
岐阜その1
気がつくと、海のある土地ばかり流れていた。
日本で海のない県といえば、長野・群馬・埼玉・栃木・山梨・岐阜・滋賀、そして奈良の8県。
そのうち、行ってるのは埼玉・岐阜・滋賀・奈良だ。
旅の道すがら、少しでも唄って歩いた都道府県が30といくつかなので、割合的には少ない方だ。
海なし県が、というよりは関東圏が少ないのだが。
関東圏の場合、持ち前の天邪鬼と田舎者根性が威力を発揮して、旅を始めた当初は死ぬまで行かないかもなんて思っていたものだ。
ただ気が小さいだけの話で、今となっては恥ずかしい限りだ。
じゃあ海のない県はというと、これと言って理由が見当たらなかった。
周りに海がないからといって別にどこまでも山が続く訳がないのだし、沖縄のように
「一度、渡ったら、交通費が稼げずに帰ってこれないかも・・・」
なんて不安もない。
誰かさんみたいに徒歩とはいわずとも、なんとか陸路で生還出来るだろう。
まあ、恐らくはきっかけの問題だと思っていた。
が、ある日、もしかしたら僕は海のないところが怖いのかも知れないと感じる事件があった。
仲のいい新潟のミュージシャンが富山から埼玉まで車で移動するというのだが、何やら荷物も多かった様子なので手伝いがてら便乗して行った事がある。
その道中だった。
場所は長野県の松本から、車はカーナビに従って不慣れな県道をひた走っていた。
町の明かりが背中に遠くなると、次第に山深くなり、標高も増した。
高速ETC1000円の時代でもなかったので、貧乏ミュージシャンには仕方のない道のりだった。
その、まさに運命の山中で、僕らは1頭のシカに遭遇した。「うわっ・・・」
と、怯えながらも軽く笑いがひきつり
「出るんだね~」
などと動揺する心を軽くいなしたつもりだったが、そこから先にも出るわ出るわ。キツネの子供みたいなのは走り回るし、カモシカは直立不動で睨むし
極めつけは「もう、ここを抜けたら町だ~」と安心した矢先に
シカの大群(推定、15頭ほど)が車道を走り過ぎた。
お互いに海の近くで育ったシティボーイを自称していた僕らは
「山、恐え~~~!!」
と叫び、コンビニの灯りを見つけては安堵し、町の証である吉野家の看板に狂喜するのだった。
深層心理的に山に畏れを抱いていたのだろうが、この夜の出来事はそれを具象化するための追い討ちであり、トラウマになった。
そういう訳で、海の見える地域にはお調子者が蔓延るという仮説も立てられるかもしれない。
さあ、岐阜の話に進んでみよう。
近畿・中部を行動範囲に入れ、北陸もなかなかに楽しくなってきた僕は、いつも高速バスで素通りばかりしていた岐阜に降り立ってみようと思った。
実際には一度、とあるミュージシャンに誘われて野外の音楽イベントに出演させてもらっていたのだが、いわゆる僕のスタイルとしての『旅唄い』では、なかった。
自らの選択で、どこかで唄ってみようと思ったのだ。
一般の方なら、岐阜県で連想するのは何だろう。
観光の名物にもなっている、鵜飼いで有名な長良川だろうか。
そして、飛騨の小京都と呼ばれている高山も、それに挙げられるだろう。
(余談:『全国小京都会議』というのがあるらしいのだが、そこに高山は加盟していない)
しかし、僕がまず選んだのは『柳ヶ瀬ブルース』でお馴染みの歓楽街だった。
岐阜でいちばんの都市だから、ではなく『柳ヶ瀬ブルース』というのが、なんとも旅唄いっぽい理由だと思う。 ただし、僕はそれを唄わないのだけど。。。
時はゴールデンウイークで、僕は山陰を後にしていた。
その頃から首ったけだったマナカナさん(主にマナさん目当て)主演のNHK連続テレビ小説『だんだん』のロケが始まる直前だった島根県松江市から三重県津市へ南下し、また北上するという、僕ならではの動きだった。
その頃の事はマナカナさん主軸で記憶しているため、1年半経った今も鮮明だ。
学校を卒業した大人は生活の時系列を忘れがちだけど、好きなものがあると便利だと思う。
ちなみに10代後半から20代半ばまでの記憶時系列の主軸は、ALFEEのツアータイトルだ。
何の話だ。
マナカナさんに後ろ髪を引かれる思いで辿り着いた岐阜は、気持ちの問題だろうが新鮮だった。
初めて降り立つ土地なのだから新鮮なのは当然なんだけれど、僕の癖として
『いつも頭に日本地図』
というのがある。
今、立っている場所からの東西南北を考える時に日本地図レベルで考えてしまうのだ。
その地図が、やはり、こう語りかけているようだった。
「ねえねえ。ここ、なんか違うよ。海がないよ」
と、今なら旅の友をしてくれてる白熊のファビぞうが言ってくれそうな台詞を、頭の中の日本地図が囁くのだ。
この街は、勝手が違うかも知れない・・・と、ぼんやり感じていた。
ちなみにファビぞうに出会うのは、それから3週間後くらいの新潟だ。
ともかく僕は今夜の演奏場所になるであろう柳ヶ瀬に向かうため、到着したてのJR岐阜駅から北へ真っ直ぐ、金華橋通りを歩いた。
金華橋は長良川に掛かる橋で、ただし僕の目的地はそこまで行かないため、目にする事はなかった。
お目当ての柳ヶ瀬通までは、およそ1kmだ。
朝からの雨もあがり、よく晴れて暖かい。
時刻はまだ午後の4時頃で、周辺を散策した後はいつもの様に缶ビールを買って、その辺の公園で過ごそう。
そう考えながら金華橋通りを歩いていると、ペンキの剥がれたシャッターが見えた。
わずかに残った痕跡はカタカナで
ギ メ ラ
と読める。
ギメラ・・・。
なんの呪文だろうか。
ドラクエの、ギラとメラを足したような呪文か。
凄い街だ。
呪文屋さんがあるなんて、もしやRPGの世界に紛れ込んだのかもしれない。
「いや、たぶんギフカメラだよ。。。(心のツッコミ)」
つまらない話はさておき、誰も聞かないので言う機会のない話をひとつ。
初めての町で演奏するに当たって、僕は何を目安に移動するのか?
答えは、飲み屋街。
それは、どうやって調べるのか?
電話ボックスにあるNTTの黄色いタウンページ。
僕は初めての街・・・大抵は駅に降り立つと、真っ先に電話帳で『スナック』を調べる。
件数の多さで街の規模に見当をつけたら、そこに並ぶ店名も電話番号も関係なく、とにかく住所を眺める。
その中で登場回数の多い町名をいくつか覚え、駅前には必ずある地図でおおよその場所や距離を調べるのだ。
一時期は勘と雰囲気でなんとなく歩いて探していたのだけれど、そうすると駅前辺りに密集した飲み屋街がない街ではハズレくじを引いてしまうし、時間も浪費する。荷物がなければ楽しい散策になるのだが、必ずギターを抱えている旅唄いにそれは無理な相談。
ただ、この方法にも弱点はあって、それは大都市過ぎる場合、どこに見当を付けていいのか分からない事。
そして当然だけど『スナック』の欄が10行で終わってしまうような街(というか里・・・)に降り立った場合。
後者の場合は急いで次の目的地を探す事になるのだが、手持ちすべてで移動なんかすると、目も当てられない状況に陥ってしまう。
そんな街で起死回生した話は、いつか書く北海道・八雲編にて。
最近、話が脱線する事が多くなってる気がする。
先を急がねば。
柳ヶ瀬ヘ、レッツゴー。
しかし、そんな手馴れた作業にて滞りなくレッツゴーした岐阜の街だったが、頭の日本地図が囁いた違和感もサイレンに変わりつつあった。
柳ヶ瀬というのは言い切ってしまうと、アーケードそのままが飲み屋タウンなのだ。
右のビルも左のビルも、前も後ろも飲み屋的。
正確に書くと、柳ヶ瀬4丁目から5丁目を抜けるまでの区間が、まるっきり夜しか稼動していない感じなのだ。
こんな街は、初めてだった。
だから昼間に通っても閑散とした中で、ちょっと恐いお兄さんが怪しげに立っていたり
たとえ普通のお姉さんであろうともそこにいるだけで
Hな営業のお店の人が休憩でもしてるのかしら、という風に見えてしまう。
いわば風俗地帯なのだ。
したがって、夕方の時間を使ってキョロキョロと下見をしている段階から、僕は痛烈な視線に晒された。
ある人はダークなスーツ姿で腕組みをしたままジッと睨み(思い込みでなく本当に)、ある人はキャバクラの入り口に置いたパイプ椅子に座って煙草を吹かしながらこちらを伺い、ある人はポンポン手を叩きながら 「お兄さん、さっぱりしてったら~」 と笑顔で脅迫し(いや、これは普通か)、なんとも息の詰まる無言の攻防戦だった。
これは、とてもギター演奏なんて無理じゃないかと僕は思い始めた。
何せ、街の一角が隙間なく強力な組合になってるような地域なのだ。
経験上、旅の歌唄いなど、唄わずとも用意でも始めたら
「兄ちゃん、ここで演奏はやめてな」
とか
「何する気?」
とか、凄まれるのだ。
これはいったい、どうしたものか。
だがしかし、柳ヶ瀬もまだ夜の顔を出してはいない。
もしここに、夜の娯楽を求めた岐阜の酔っ払いが多勢で闊歩しようものなら、路上の歌唄いも
「あら、良い雰囲気ねえ」
くらいに落ち着くかもしれないのだ。
夜の魔法というのは、ネオンの魔法というのは、そういうものだ。
そして時刻は21時。
魔法は、掛からなかった。
いや、魔法はとっくの昔に、昼間っから掛かっていたのだろう。
夜の柳ヶ瀬に増えたものは大挙する酔っ払いでなく、貫禄に溢れたおっかなそうなオジサンばかりだった。
更に凄みを増した岐阜の不夜城では、店外で談笑する関係者の姿さえ、どこか余所者を受け入れない魔法に満ちていた。
苦手な解決策だったが、ひとつの案が閃いた。
ここはひとつ、単刀直入に訊いてみればいいのだ。
何も、取って食われる訳じゃなし。
僕は不夜城を真っ向から攻めるのは敬遠して、脇道を使って通りの半ば辺りまで入り込み(すでに弱気)、夕方と変わらず腕組みをしている竹○力によく似たダークスーツさんに声をかけてみた。
この界隈で唄っていいのか、単刀直入に聞くだけだ。
「あの、この辺で・・・(旅唄い)」
「アァ!?(竹○力)」
「こ・・・この辺で・・・ギターで唄って・・・る人とか、いいいませんよね?」全然、単刀直入じゃないし ( ´,_ゝ`)プッ
すると竹○力は、僕の頭のてっぺんから爪先まで睨みながら
「いねえよ、そんなの」
と吐き捨てるのであった。
僕もその力強さに言葉がつまり
「そ、そうですか。いや、僕は、よそから来たもんで、ここで、こっちの、地元の知人が、唄ってるって、聞いたもんで」
と冷や汗を流しながら、どうでもよさそうなウソで取り繕った。
訝しげな眼が、僕を捉えて離さない。
ひ~っ! 取って食われそう!
まあ、僕の貧相な身体じゃ不味いと諦めたのか、食われることは免れた。
免れたが、最後に竹○力は
「お兄さん、そういうのやりたいわけ?」
と、 「わけ?」 に最大限の睨みをきかせて言い放った。
無理です。
柳ヶ瀬。
21時30分。
僕の姿は、道路を挟んだ向かいのラーメン屋にあった。
この苦境をどうやって乗り切るか、今夜の相棒 キリン・クラシックラガー と相談しなければいけなかったからである。
「ねえねえ、ラガーくん。きみ、どう思う? 恐いよね、ナニワ金融の人。んぐんぐ・・・ぷはぁ」
「そうだねえ。恐かったねえ。ほら、もひとついかが? とくとくとく・・・しゅわぁ」
「おっとっと、ありがとう。じゃあ、今夜は、仕方がないからやめようか? んぐんぐ」
「そうだねえ、しゅわぁ」
そういう事で会議は終わりかけたのだが、テーブルの傍らでまだ一個残っていた シューマイくん が痛いところを突いてきた。
「で、どこで稼ぐのシュー?」
更に知りたくもない現実に触れてくれた。
「ぼくらのお金を払ったら、もうないよ。さっき、鬼ころしさんが二人も増えたシュー」
鬼ころしさん達はキャリーの中で、出番はまだかとワクワクしている。
彼女達(男を酔わすのは女性かと)は、いつも路上の友だ。
逆に言えば彼女達は、路上演奏時でないと登場できないのだ、
キャッキャと無邪気にはしゃぐ声は憧れのマナカナさん(主にマナさん)を思い起こさせた。
マナカナさん(特に、TVで向かって左の方)が、僕の歌を待っている・・・。
「そうだな・・・」
僕は呟くと、決意したように、ラーメン屋のオバちゃんに告げた。
「ぷはぁ。ビールもう1本ください」
ああ!!
どうなってしまうの柳ヶ瀬!!
知っているのミユキちゃん?
その追加オーダーは、さっき鬼ころしを買うまでの手持ち計算の上で行ってしまった事を。。。
~続く~
Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=35.419423,136.757142&spn=0.000839,0.002199&z=19
日本で海のない県といえば、長野・群馬・埼玉・栃木・山梨・岐阜・滋賀、そして奈良の8県。
そのうち、行ってるのは埼玉・岐阜・滋賀・奈良だ。
旅の道すがら、少しでも唄って歩いた都道府県が30といくつかなので、割合的には少ない方だ。
海なし県が、というよりは関東圏が少ないのだが。
関東圏の場合、持ち前の天邪鬼と田舎者根性が威力を発揮して、旅を始めた当初は死ぬまで行かないかもなんて思っていたものだ。
ただ気が小さいだけの話で、今となっては恥ずかしい限りだ。
じゃあ海のない県はというと、これと言って理由が見当たらなかった。
周りに海がないからといって別にどこまでも山が続く訳がないのだし、沖縄のように
「一度、渡ったら、交通費が稼げずに帰ってこれないかも・・・」
なんて不安もない。
誰かさんみたいに徒歩とはいわずとも、なんとか陸路で生還出来るだろう。
まあ、恐らくはきっかけの問題だと思っていた。
が、ある日、もしかしたら僕は海のないところが怖いのかも知れないと感じる事件があった。
仲のいい新潟のミュージシャンが富山から埼玉まで車で移動するというのだが、何やら荷物も多かった様子なので手伝いがてら便乗して行った事がある。
その道中だった。
場所は長野県の松本から、車はカーナビに従って不慣れな県道をひた走っていた。
町の明かりが背中に遠くなると、次第に山深くなり、標高も増した。
高速ETC1000円の時代でもなかったので、貧乏ミュージシャンには仕方のない道のりだった。
その、まさに運命の山中で、僕らは1頭のシカに遭遇した。「うわっ・・・」
と、怯えながらも軽く笑いがひきつり
「出るんだね~」
などと動揺する心を軽くいなしたつもりだったが、そこから先にも出るわ出るわ。キツネの子供みたいなのは走り回るし、カモシカは直立不動で睨むし
極めつけは「もう、ここを抜けたら町だ~」と安心した矢先に
シカの大群(推定、15頭ほど)が車道を走り過ぎた。
お互いに海の近くで育ったシティボーイを自称していた僕らは
「山、恐え~~~!!」
と叫び、コンビニの灯りを見つけては安堵し、町の証である吉野家の看板に狂喜するのだった。
深層心理的に山に畏れを抱いていたのだろうが、この夜の出来事はそれを具象化するための追い討ちであり、トラウマになった。
そういう訳で、海の見える地域にはお調子者が蔓延るという仮説も立てられるかもしれない。
さあ、岐阜の話に進んでみよう。
近畿・中部を行動範囲に入れ、北陸もなかなかに楽しくなってきた僕は、いつも高速バスで素通りばかりしていた岐阜に降り立ってみようと思った。
実際には一度、とあるミュージシャンに誘われて野外の音楽イベントに出演させてもらっていたのだが、いわゆる僕のスタイルとしての『旅唄い』では、なかった。
自らの選択で、どこかで唄ってみようと思ったのだ。
一般の方なら、岐阜県で連想するのは何だろう。
観光の名物にもなっている、鵜飼いで有名な長良川だろうか。
そして、飛騨の小京都と呼ばれている高山も、それに挙げられるだろう。
(余談:『全国小京都会議』というのがあるらしいのだが、そこに高山は加盟していない)
しかし、僕がまず選んだのは『柳ヶ瀬ブルース』でお馴染みの歓楽街だった。
岐阜でいちばんの都市だから、ではなく『柳ヶ瀬ブルース』というのが、なんとも旅唄いっぽい理由だと思う。 ただし、僕はそれを唄わないのだけど。。。
時はゴールデンウイークで、僕は山陰を後にしていた。
その頃から首ったけだったマナカナさん(主にマナさん目当て)主演のNHK連続テレビ小説『だんだん』のロケが始まる直前だった島根県松江市から三重県津市へ南下し、また北上するという、僕ならではの動きだった。
その頃の事はマナカナさん主軸で記憶しているため、1年半経った今も鮮明だ。
学校を卒業した大人は生活の時系列を忘れがちだけど、好きなものがあると便利だと思う。
ちなみに10代後半から20代半ばまでの記憶時系列の主軸は、ALFEEのツアータイトルだ。
何の話だ。
マナカナさんに後ろ髪を引かれる思いで辿り着いた岐阜は、気持ちの問題だろうが新鮮だった。
初めて降り立つ土地なのだから新鮮なのは当然なんだけれど、僕の癖として
『いつも頭に日本地図』
というのがある。
今、立っている場所からの東西南北を考える時に日本地図レベルで考えてしまうのだ。
その地図が、やはり、こう語りかけているようだった。
「ねえねえ。ここ、なんか違うよ。海がないよ」
と、今なら旅の友をしてくれてる白熊のファビぞうが言ってくれそうな台詞を、頭の中の日本地図が囁くのだ。
この街は、勝手が違うかも知れない・・・と、ぼんやり感じていた。
ちなみにファビぞうに出会うのは、それから3週間後くらいの新潟だ。
ともかく僕は今夜の演奏場所になるであろう柳ヶ瀬に向かうため、到着したてのJR岐阜駅から北へ真っ直ぐ、金華橋通りを歩いた。
金華橋は長良川に掛かる橋で、ただし僕の目的地はそこまで行かないため、目にする事はなかった。
お目当ての柳ヶ瀬通までは、およそ1kmだ。
朝からの雨もあがり、よく晴れて暖かい。
時刻はまだ午後の4時頃で、周辺を散策した後はいつもの様に缶ビールを買って、その辺の公園で過ごそう。
そう考えながら金華橋通りを歩いていると、ペンキの剥がれたシャッターが見えた。
わずかに残った痕跡はカタカナで
ギ メ ラ
と読める。
ギメラ・・・。
なんの呪文だろうか。
ドラクエの、ギラとメラを足したような呪文か。
凄い街だ。
呪文屋さんがあるなんて、もしやRPGの世界に紛れ込んだのかもしれない。
「いや、たぶんギフカメラだよ。。。(心のツッコミ)」
つまらない話はさておき、誰も聞かないので言う機会のない話をひとつ。
初めての町で演奏するに当たって、僕は何を目安に移動するのか?
答えは、飲み屋街。
それは、どうやって調べるのか?
電話ボックスにあるNTTの黄色いタウンページ。
僕は初めての街・・・大抵は駅に降り立つと、真っ先に電話帳で『スナック』を調べる。
件数の多さで街の規模に見当をつけたら、そこに並ぶ店名も電話番号も関係なく、とにかく住所を眺める。
その中で登場回数の多い町名をいくつか覚え、駅前には必ずある地図でおおよその場所や距離を調べるのだ。
一時期は勘と雰囲気でなんとなく歩いて探していたのだけれど、そうすると駅前辺りに密集した飲み屋街がない街ではハズレくじを引いてしまうし、時間も浪費する。荷物がなければ楽しい散策になるのだが、必ずギターを抱えている旅唄いにそれは無理な相談。
ただ、この方法にも弱点はあって、それは大都市過ぎる場合、どこに見当を付けていいのか分からない事。
そして当然だけど『スナック』の欄が10行で終わってしまうような街(というか里・・・)に降り立った場合。
後者の場合は急いで次の目的地を探す事になるのだが、手持ちすべてで移動なんかすると、目も当てられない状況に陥ってしまう。
そんな街で起死回生した話は、いつか書く北海道・八雲編にて。
最近、話が脱線する事が多くなってる気がする。
先を急がねば。
柳ヶ瀬ヘ、レッツゴー。
しかし、そんな手馴れた作業にて滞りなくレッツゴーした岐阜の街だったが、頭の日本地図が囁いた違和感もサイレンに変わりつつあった。
柳ヶ瀬というのは言い切ってしまうと、アーケードそのままが飲み屋タウンなのだ。
右のビルも左のビルも、前も後ろも飲み屋的。
正確に書くと、柳ヶ瀬4丁目から5丁目を抜けるまでの区間が、まるっきり夜しか稼動していない感じなのだ。
こんな街は、初めてだった。
だから昼間に通っても閑散とした中で、ちょっと恐いお兄さんが怪しげに立っていたり
たとえ普通のお姉さんであろうともそこにいるだけで
Hな営業のお店の人が休憩でもしてるのかしら、という風に見えてしまう。
いわば風俗地帯なのだ。
したがって、夕方の時間を使ってキョロキョロと下見をしている段階から、僕は痛烈な視線に晒された。
ある人はダークなスーツ姿で腕組みをしたままジッと睨み(思い込みでなく本当に)、ある人はキャバクラの入り口に置いたパイプ椅子に座って煙草を吹かしながらこちらを伺い、ある人はポンポン手を叩きながら 「お兄さん、さっぱりしてったら~」 と笑顔で脅迫し(いや、これは普通か)、なんとも息の詰まる無言の攻防戦だった。
これは、とてもギター演奏なんて無理じゃないかと僕は思い始めた。
何せ、街の一角が隙間なく強力な組合になってるような地域なのだ。
経験上、旅の歌唄いなど、唄わずとも用意でも始めたら
「兄ちゃん、ここで演奏はやめてな」
とか
「何する気?」
とか、凄まれるのだ。
これはいったい、どうしたものか。
だがしかし、柳ヶ瀬もまだ夜の顔を出してはいない。
もしここに、夜の娯楽を求めた岐阜の酔っ払いが多勢で闊歩しようものなら、路上の歌唄いも
「あら、良い雰囲気ねえ」
くらいに落ち着くかもしれないのだ。
夜の魔法というのは、ネオンの魔法というのは、そういうものだ。
そして時刻は21時。
魔法は、掛からなかった。
いや、魔法はとっくの昔に、昼間っから掛かっていたのだろう。
夜の柳ヶ瀬に増えたものは大挙する酔っ払いでなく、貫禄に溢れたおっかなそうなオジサンばかりだった。
更に凄みを増した岐阜の不夜城では、店外で談笑する関係者の姿さえ、どこか余所者を受け入れない魔法に満ちていた。
苦手な解決策だったが、ひとつの案が閃いた。
ここはひとつ、単刀直入に訊いてみればいいのだ。
何も、取って食われる訳じゃなし。
僕は不夜城を真っ向から攻めるのは敬遠して、脇道を使って通りの半ば辺りまで入り込み(すでに弱気)、夕方と変わらず腕組みをしている竹○力によく似たダークスーツさんに声をかけてみた。
この界隈で唄っていいのか、単刀直入に聞くだけだ。
「あの、この辺で・・・(旅唄い)」
「アァ!?(竹○力)」
「こ・・・この辺で・・・ギターで唄って・・・る人とか、いいいませんよね?」全然、単刀直入じゃないし ( ´,_ゝ`)プッ
すると竹○力は、僕の頭のてっぺんから爪先まで睨みながら
「いねえよ、そんなの」
と吐き捨てるのであった。
僕もその力強さに言葉がつまり
「そ、そうですか。いや、僕は、よそから来たもんで、ここで、こっちの、地元の知人が、唄ってるって、聞いたもんで」
と冷や汗を流しながら、どうでもよさそうなウソで取り繕った。
訝しげな眼が、僕を捉えて離さない。
ひ~っ! 取って食われそう!
まあ、僕の貧相な身体じゃ不味いと諦めたのか、食われることは免れた。
免れたが、最後に竹○力は
「お兄さん、そういうのやりたいわけ?」
と、 「わけ?」 に最大限の睨みをきかせて言い放った。
無理です。
柳ヶ瀬。
21時30分。
僕の姿は、道路を挟んだ向かいのラーメン屋にあった。
この苦境をどうやって乗り切るか、今夜の相棒 キリン・クラシックラガー と相談しなければいけなかったからである。
「ねえねえ、ラガーくん。きみ、どう思う? 恐いよね、ナニワ金融の人。んぐんぐ・・・ぷはぁ」
「そうだねえ。恐かったねえ。ほら、もひとついかが? とくとくとく・・・しゅわぁ」
「おっとっと、ありがとう。じゃあ、今夜は、仕方がないからやめようか? んぐんぐ」
「そうだねえ、しゅわぁ」
そういう事で会議は終わりかけたのだが、テーブルの傍らでまだ一個残っていた シューマイくん が痛いところを突いてきた。
「で、どこで稼ぐのシュー?」
更に知りたくもない現実に触れてくれた。
「ぼくらのお金を払ったら、もうないよ。さっき、鬼ころしさんが二人も増えたシュー」
鬼ころしさん達はキャリーの中で、出番はまだかとワクワクしている。
彼女達(男を酔わすのは女性かと)は、いつも路上の友だ。
逆に言えば彼女達は、路上演奏時でないと登場できないのだ、
キャッキャと無邪気にはしゃぐ声は憧れのマナカナさん(主にマナさん)を思い起こさせた。
マナカナさん(特に、TVで向かって左の方)が、僕の歌を待っている・・・。
「そうだな・・・」
僕は呟くと、決意したように、ラーメン屋のオバちゃんに告げた。
「ぷはぁ。ビールもう1本ください」
ああ!!
どうなってしまうの柳ヶ瀬!!
知っているのミユキちゃん?
その追加オーダーは、さっき鬼ころしを買うまでの手持ち計算の上で行ってしまった事を。。。
~続く~
Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&ll=35.419423,136.757142&spn=0.000839,0.002199&z=19
津 その2
その2どころか、書こうと思えば3でも4でも際限なく飛び出す津での話。
それでも前回の予告どおり、ここは津のアニキの話を少々。
少々・・・。
いや、無理か。
何せ、話題が尽きないから。
なので、馴れ初めでも話しておこう。
津での初日、ラウンジ・ジュネスさんにて営業を終えた事は前回に書いた。
話は、そこからになる。
楽しく飲んで唄わせて頂き、Kビル前で再びギターケースを開いているところに話しかけてきたのが、ごっつい顔の尾上さんだった。
えらく興味津々の顔つきで
「自分、津の人間ちゃうやろ? へえ~、ここで唄うん? いつまでおる?」
といった具合。
出会いから今も変わらず、言いたい事だけをマシンガントークで畳み掛ける
そんな尾上さんの口癖は 「聞いて!」 だ。
だから、その日もやっぱり言いたい事だけを熱く語った。
「明日、近くでな、俺らライブやんねやけど、けえへん? いやいや唄うてよ、な!」
彼の暑苦しいほどの勧誘に折れるまでもなく、そうでなくてもこの街でもう少し唄って行こうと思った矢先だったので、僕は不案内な土地柄、場所をよく聞いてから承諾した。
連れの女性は 「そんな急に言うても迷惑やん」 と、彼を制していたが 「いえいえ、出会いですから」 と、僕は約束した。
朝の10時くらいに集まるというので、昼間のイベントだろう。
今晩を、昼間に過ごした野外舞台で寝転がって過ごせば、どうやら会場は遠くなかった。
僕は1時過ぎまで唄い、荷物をまとめた。
深夜だというのに、寝ぼけたようなセミの声を聞きながら、コンクリートのステージ上で眠った。
ひんやりとした感触が心地良いが、明日の朝、背中は痛いだろう。
夏の早朝なので陽は早くから照り付ける。
汗ばんだまま目覚め、気が付けば数日風呂にも入ってない僕だったので、せめてもの礼儀として体をキレイにしたかった。やっぱり、背中も痛い。
ただ、蚊には、それほど刺されていない。これは、夏場の野宿でラッキーというべきだった。
新しい着替えは底を突いていたが、公衆トイレの水道で体中の洗える場所だけはタオルでゴシゴシ洗って、ついでに長い髪もグシャグシャに洗って準備を整えた。
その光景は、海辺やキャンプ地でなら様になるのだろうが、街中の公園ではちょっと目立つ午前6時過ぎ。犬を散歩させていたオバさんの視線が、僕の狭い背中に刺さる。
それでも
「おはようございます」と挨拶すれば「おはようございます」と返ってくる、この嬉しさよ。すると
「これ食べる?」
とオバさんが菓子パンを差し出したので、恐縮しながらも頂いた。
時々、電車で隣り合った方や道を尋ねた方など、特に年配の方から頂き物をするのだが、いったい、どういう基準で人を選んでいるのだろうかと不思議に思う事がある。
ある時
「たまに、その辺のオバちゃんから飴とかミカンとかもらうじゃん」
という僕の何気ない一言に、知人は
「それはない」
と事も無げに言い切った。
ないのか?
「よく道を尋ねられる」とか「よくアンケートに引っ掛かる」とか、声を掛けられやすい人がいるけれど、そういうのと同じなんだろうか。
もし、物を頂きやすい人というのがいるなら、僕はそっちの方だと思う。
午前も8時を回り、更に陽が高くなってくると、今日も1日暑い事が予想された。
これなら、さっきTシャツを洗って干してても乾いたんじゃないかと悔やまれた。
しかし、手で絞った衣類の乾かなさを僕は知っているつもりだ。
もしもTシャツ1枚をあと2時間で乾かそうと思うなら、延々と手に持って振り回し続けなければならないだろう。
その作業でくたくたになるし、何より、朝のシャワータイムより目立つ事は受けあいだ
東京の旅ミュージシャンは、車のドアにタオルを結んで走りながら乾かしていたっけ。
なるほどと思ったが、あれも排ガスにまみれそうだな。
暑さもあったが、時間を潰す作業もなくなったので、コンビニを物色に歩いた。
この街で、いちばん最初に入ったコンビニだ。
道中、その対面に本日の会場と思しきお店の看板が見えたので、なんだこんなに近くなのかと気が抜けた。
昨夜の尾上さんが一生懸命に地図を書いて説明してくれた場所は、彼の
「いや、近いねんけどな」
という言葉とは裏腹に、天竺への道のりほど遠く感じられていたからだ。
知らない街で道順を説明されるというのは、心細さも手伝って、どうにも距離感がつかめない。
会場が分かったので、後は安心だ。
僕はコンビニでお茶のボトルを買い、さっき頂いた菓子パンを頬張った。
こんな時、不健全で有名な旅唄いは、朝から缶ビールなんて飲んだりするのだが
「まあ、ちょっと唄ったら、後はビールでも飲んでて」
という、やはり昨夜の尾上さんの言葉を信じたからだ。
駄目なヤツだ。
指定時刻の10時にはまだ時間があったが、僕は会場になるお店へ到着していた。
「さわ」さんというスナック営業のお店だが、場所を借りたという。だから、機材からアンプからを搬入しないといけないらしい。
誘ってもらったんだから、そのくらいは手伝わせてもらう。
僕は参加したイベントは、なるべく最初から最後まで居合わせたい。
しばらく手持ち無沙汰に煙草を吹かしていると、車が1台やってきた。尾上さんだった。
早いな~! と言われながら、挨拶を交わす。
本日の演奏メンバーも一緒だ。
昨夜、尾上さんと一緒だったキーボードのサツキさん。
それから、ギター・ボーカルのユウコちゃん。
大人しそうな女性二人に、ごっつい野郎が1人加わって、『文音(あやね)』というバンドだという。
会場になるのは階段を上がった2階で、機材セッティングは当人達の都合があるので任せて、僕は更に集まりだした手伝い兼お客さんたちと荷物を運び入れ、椅子を並べ、窓に遮蔽用のアルミホイルを貼った。
アルミホイル作業が気に入った僕は、1人でひたすら、その作業を続けた。
まだ知人と呼べる人はいないし、雑談の糸口も少ない。
黙々と作業を続ける事でしか、皆に認めてもらう術が僕にはなかった。
3人のミュージシャンが音合わせを続ける中、暗幕の隙間から漏れる光をさえぎるため、窓にアルミホイルを貼り続けた。
そんな作業のせいあってか、集まった方々も僕に話しかけてくれ始めた。
なのに、だ。
作業がひと段落したところで挨拶がてらの缶ビールを開けた瞬間、僕はいつものお調子者になっていた。駄目なヤツ。
ともあれ、尾上さんの知人は誰も温かい人達で助かった。
お陰で、緊張しがちなライブ演奏も事なきを得て、反応は上々だった。
まあ、そんな感じの出会いだった。
それから津が気に入った僕は、年に数回、春、秋の辺りを狙って唄いに出掛けていた。
更には、どこで唄っていても難しい正月三が日を、無理やりに津の飲み屋街で唄っていた事もある。
「正月なんて、神社の入り口でも行けばあっという間に稼ぐだろ?」
とは言われるのだが、こちとら夜が専門商売。
しかも、そんな日にそんな場所で唄ったりしたら、きちんとしたくじ引きで営業してる玄人さん達がただじゃおかない雰囲気。夜の街なら見逃される事も、昼日中というのは勝手が違う。
正月と限らず、真冬はどこにいても大変なもの。
どこで唄おうと、実入りと寒さの厳しさで挫けそうになる。
だから、ひたすら動き続ける。
宿泊費に満たない飯代を移動費につぎ込む代わりに、電車でひたすら眠った。
始発から電車で眠りこけて同じ路線を何往復もするなんて迷惑極まりない行為なんだろうが、死にたくなかったというのが現状だ。
好きで選んでいる道。
弱音は吐きたくないが、非常手段で生き延びる事は多々ある。
その翌年から年末は東京のライブハウスで過ごす事にしているが、直前は大抵、津にいる。
だから大晦日に
「良いお年を」 と言った相手に、年始早々から出会ってしまうと
「東京、行ってないの!?」 と驚かれる。
行ってるのだが、1~2日で戻っているのだ。
拠点を決めて短期間にあちこち動く僕は、いつも
「実は、ここに住んでるんだろ? 旅してるとか嘘はつくなよ」
とお叱りを受けたりもする。
多くの人は
『昨日は広島で唄っていて、今日は三重にいて、明日は静岡で唄うつもり』
といった、僕なりの旅唄いのやり方が理解できないのだ。
どうしても、金持ちのボンボンだと思われる節がある。
気軽な身軽な旅唄いのように見えて、その裏には、留まるより動いた方が楽な事実があり、数日の雨を避けるために、せっかく昨夜稼いだ金を全額つぎ込んで、数百キロの旅をする事だってある。
人間、生活において何を優先するかだけだ。
僕にしてみればデザインに飽きたからと、新しいキャリーケースを買う人達は理解不能なのだ。
しかしそれもまた経済を回している事実。
さて。
津のアニキの話が反れてしまった。
津のアニキ・尾上さんは、僕と出会ってからというもの、度々一緒に路上で唄っている。
元々が長渕剛好きで、嘘か真か、僕と同じ場所で路上演奏もやっていたという。
それはそれで構わないのだけど、僕がついつい酒を飲みながら唄うという、これまた見る人から見ればけしからんスタイルでやってるものだから、酒好きには定評のある彼も付き合わないはずがない。
昼間のたこ焼き屋に入って、3人で1万円払ってしまった事もある。もちろん、ほとんどが酒代だった。
しかも彼と来たらその辺の飲み屋は飲み尽くしているような男で
知り合いの若いママさん連中に平気で差し入れを頼む。
挙句、見かけだけはストイックな雰囲気で演奏を行いたい僕の周辺には
飲み屋から直の水割りと
飲み屋から直の灰皿と
飲み屋から直の乾き物と
ギターを持った酔っ払いが2人並ぶ
という、恐ろしい光景になってしまうのだ。
「ちょっと尾上さん・・・これはやり過ぎじゃないん?」
と制止しても
「いい、いい。皆、知り合いやに」
と聞く耳を持たない。
しかも、多少は知らないお店の方が驚く様子を見せながらも、津の飲兵衛たちはその光景に対して寛容なのだ。
同じビルのお店から困った顔をされる事があっても
『よそ者が土足で上がりこんできてやりたい放題やってる』
というのは、尾上さんがいる限り通用しない。
だから、僕一人の演奏の時、その目は冷ややかに突き刺さる。
ただし。
それでも、僕は彼と唄うのが好きだ。
実は、僕の方も年上の彼に慣れ過ぎたのか、酔っ払い同士つまらない喧嘩で別れてしまう事がある。
だけど、数ヵ月後にまた津で唄っていると、どこからかボロボロのギターケースを抱えた尾上さんがやってきて
「いつ来たん? 久しぶりやん」
と、いたずらっぽく笑うのだ。
前回の喧嘩の気まずさに渋い顔をしてる僕に
「まあ、乾杯しよや!」
と、コンビニでいちばん安い酒を手渡し 「さあ、稼ぐで~」 とか言いながら、ドッカと隣に座り込む男なのだ。
僕の分まで手土産を持ってきておいて、何が 「いつ来たん?」 なものか。
実は僕が来たらいつでも連絡するよう、後ろの店の知り合いに頼んでたらしい。
そんな津に、今年はついに出向かなかった。
昨年の盆に行ったきりだ。
生活の仕方と拠点が変わったせいで、動きが取り辛くなった。
来年の1発目は、津にするか。。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.090698,136.400757&spn=0.95288,1.755066&z=9
それでも前回の予告どおり、ここは津のアニキの話を少々。
少々・・・。
いや、無理か。
何せ、話題が尽きないから。
なので、馴れ初めでも話しておこう。
津での初日、ラウンジ・ジュネスさんにて営業を終えた事は前回に書いた。
話は、そこからになる。
楽しく飲んで唄わせて頂き、Kビル前で再びギターケースを開いているところに話しかけてきたのが、ごっつい顔の尾上さんだった。
えらく興味津々の顔つきで
「自分、津の人間ちゃうやろ? へえ~、ここで唄うん? いつまでおる?」
といった具合。
出会いから今も変わらず、言いたい事だけをマシンガントークで畳み掛ける
そんな尾上さんの口癖は 「聞いて!」 だ。
だから、その日もやっぱり言いたい事だけを熱く語った。
「明日、近くでな、俺らライブやんねやけど、けえへん? いやいや唄うてよ、な!」
彼の暑苦しいほどの勧誘に折れるまでもなく、そうでなくてもこの街でもう少し唄って行こうと思った矢先だったので、僕は不案内な土地柄、場所をよく聞いてから承諾した。
連れの女性は 「そんな急に言うても迷惑やん」 と、彼を制していたが 「いえいえ、出会いですから」 と、僕は約束した。
朝の10時くらいに集まるというので、昼間のイベントだろう。
今晩を、昼間に過ごした野外舞台で寝転がって過ごせば、どうやら会場は遠くなかった。
僕は1時過ぎまで唄い、荷物をまとめた。
深夜だというのに、寝ぼけたようなセミの声を聞きながら、コンクリートのステージ上で眠った。
ひんやりとした感触が心地良いが、明日の朝、背中は痛いだろう。
夏の早朝なので陽は早くから照り付ける。
汗ばんだまま目覚め、気が付けば数日風呂にも入ってない僕だったので、せめてもの礼儀として体をキレイにしたかった。やっぱり、背中も痛い。
ただ、蚊には、それほど刺されていない。これは、夏場の野宿でラッキーというべきだった。
新しい着替えは底を突いていたが、公衆トイレの水道で体中の洗える場所だけはタオルでゴシゴシ洗って、ついでに長い髪もグシャグシャに洗って準備を整えた。
その光景は、海辺やキャンプ地でなら様になるのだろうが、街中の公園ではちょっと目立つ午前6時過ぎ。犬を散歩させていたオバさんの視線が、僕の狭い背中に刺さる。
それでも
「おはようございます」と挨拶すれば「おはようございます」と返ってくる、この嬉しさよ。すると
「これ食べる?」
とオバさんが菓子パンを差し出したので、恐縮しながらも頂いた。
時々、電車で隣り合った方や道を尋ねた方など、特に年配の方から頂き物をするのだが、いったい、どういう基準で人を選んでいるのだろうかと不思議に思う事がある。
ある時
「たまに、その辺のオバちゃんから飴とかミカンとかもらうじゃん」
という僕の何気ない一言に、知人は
「それはない」
と事も無げに言い切った。
ないのか?
「よく道を尋ねられる」とか「よくアンケートに引っ掛かる」とか、声を掛けられやすい人がいるけれど、そういうのと同じなんだろうか。
もし、物を頂きやすい人というのがいるなら、僕はそっちの方だと思う。
午前も8時を回り、更に陽が高くなってくると、今日も1日暑い事が予想された。
これなら、さっきTシャツを洗って干してても乾いたんじゃないかと悔やまれた。
しかし、手で絞った衣類の乾かなさを僕は知っているつもりだ。
もしもTシャツ1枚をあと2時間で乾かそうと思うなら、延々と手に持って振り回し続けなければならないだろう。
その作業でくたくたになるし、何より、朝のシャワータイムより目立つ事は受けあいだ
東京の旅ミュージシャンは、車のドアにタオルを結んで走りながら乾かしていたっけ。
なるほどと思ったが、あれも排ガスにまみれそうだな。
暑さもあったが、時間を潰す作業もなくなったので、コンビニを物色に歩いた。
この街で、いちばん最初に入ったコンビニだ。
道中、その対面に本日の会場と思しきお店の看板が見えたので、なんだこんなに近くなのかと気が抜けた。
昨夜の尾上さんが一生懸命に地図を書いて説明してくれた場所は、彼の
「いや、近いねんけどな」
という言葉とは裏腹に、天竺への道のりほど遠く感じられていたからだ。
知らない街で道順を説明されるというのは、心細さも手伝って、どうにも距離感がつかめない。
会場が分かったので、後は安心だ。
僕はコンビニでお茶のボトルを買い、さっき頂いた菓子パンを頬張った。
こんな時、不健全で有名な旅唄いは、朝から缶ビールなんて飲んだりするのだが
「まあ、ちょっと唄ったら、後はビールでも飲んでて」
という、やはり昨夜の尾上さんの言葉を信じたからだ。
駄目なヤツだ。
指定時刻の10時にはまだ時間があったが、僕は会場になるお店へ到着していた。
「さわ」さんというスナック営業のお店だが、場所を借りたという。だから、機材からアンプからを搬入しないといけないらしい。
誘ってもらったんだから、そのくらいは手伝わせてもらう。
僕は参加したイベントは、なるべく最初から最後まで居合わせたい。
しばらく手持ち無沙汰に煙草を吹かしていると、車が1台やってきた。尾上さんだった。
早いな~! と言われながら、挨拶を交わす。
本日の演奏メンバーも一緒だ。
昨夜、尾上さんと一緒だったキーボードのサツキさん。
それから、ギター・ボーカルのユウコちゃん。
大人しそうな女性二人に、ごっつい野郎が1人加わって、『文音(あやね)』というバンドだという。
会場になるのは階段を上がった2階で、機材セッティングは当人達の都合があるので任せて、僕は更に集まりだした手伝い兼お客さんたちと荷物を運び入れ、椅子を並べ、窓に遮蔽用のアルミホイルを貼った。
アルミホイル作業が気に入った僕は、1人でひたすら、その作業を続けた。
まだ知人と呼べる人はいないし、雑談の糸口も少ない。
黙々と作業を続ける事でしか、皆に認めてもらう術が僕にはなかった。
3人のミュージシャンが音合わせを続ける中、暗幕の隙間から漏れる光をさえぎるため、窓にアルミホイルを貼り続けた。
そんな作業のせいあってか、集まった方々も僕に話しかけてくれ始めた。
なのに、だ。
作業がひと段落したところで挨拶がてらの缶ビールを開けた瞬間、僕はいつものお調子者になっていた。駄目なヤツ。
ともあれ、尾上さんの知人は誰も温かい人達で助かった。
お陰で、緊張しがちなライブ演奏も事なきを得て、反応は上々だった。
まあ、そんな感じの出会いだった。
それから津が気に入った僕は、年に数回、春、秋の辺りを狙って唄いに出掛けていた。
更には、どこで唄っていても難しい正月三が日を、無理やりに津の飲み屋街で唄っていた事もある。
「正月なんて、神社の入り口でも行けばあっという間に稼ぐだろ?」
とは言われるのだが、こちとら夜が専門商売。
しかも、そんな日にそんな場所で唄ったりしたら、きちんとしたくじ引きで営業してる玄人さん達がただじゃおかない雰囲気。夜の街なら見逃される事も、昼日中というのは勝手が違う。
正月と限らず、真冬はどこにいても大変なもの。
どこで唄おうと、実入りと寒さの厳しさで挫けそうになる。
だから、ひたすら動き続ける。
宿泊費に満たない飯代を移動費につぎ込む代わりに、電車でひたすら眠った。
始発から電車で眠りこけて同じ路線を何往復もするなんて迷惑極まりない行為なんだろうが、死にたくなかったというのが現状だ。
好きで選んでいる道。
弱音は吐きたくないが、非常手段で生き延びる事は多々ある。
その翌年から年末は東京のライブハウスで過ごす事にしているが、直前は大抵、津にいる。
だから大晦日に
「良いお年を」 と言った相手に、年始早々から出会ってしまうと
「東京、行ってないの!?」 と驚かれる。
行ってるのだが、1~2日で戻っているのだ。
拠点を決めて短期間にあちこち動く僕は、いつも
「実は、ここに住んでるんだろ? 旅してるとか嘘はつくなよ」
とお叱りを受けたりもする。
多くの人は
『昨日は広島で唄っていて、今日は三重にいて、明日は静岡で唄うつもり』
といった、僕なりの旅唄いのやり方が理解できないのだ。
どうしても、金持ちのボンボンだと思われる節がある。
気軽な身軽な旅唄いのように見えて、その裏には、留まるより動いた方が楽な事実があり、数日の雨を避けるために、せっかく昨夜稼いだ金を全額つぎ込んで、数百キロの旅をする事だってある。
人間、生活において何を優先するかだけだ。
僕にしてみればデザインに飽きたからと、新しいキャリーケースを買う人達は理解不能なのだ。
しかしそれもまた経済を回している事実。
さて。
津のアニキの話が反れてしまった。
津のアニキ・尾上さんは、僕と出会ってからというもの、度々一緒に路上で唄っている。
元々が長渕剛好きで、嘘か真か、僕と同じ場所で路上演奏もやっていたという。
それはそれで構わないのだけど、僕がついつい酒を飲みながら唄うという、これまた見る人から見ればけしからんスタイルでやってるものだから、酒好きには定評のある彼も付き合わないはずがない。
昼間のたこ焼き屋に入って、3人で1万円払ってしまった事もある。もちろん、ほとんどが酒代だった。
しかも彼と来たらその辺の飲み屋は飲み尽くしているような男で
知り合いの若いママさん連中に平気で差し入れを頼む。
挙句、見かけだけはストイックな雰囲気で演奏を行いたい僕の周辺には
飲み屋から直の水割りと
飲み屋から直の灰皿と
飲み屋から直の乾き物と
ギターを持った酔っ払いが2人並ぶ
という、恐ろしい光景になってしまうのだ。
「ちょっと尾上さん・・・これはやり過ぎじゃないん?」
と制止しても
「いい、いい。皆、知り合いやに」
と聞く耳を持たない。
しかも、多少は知らないお店の方が驚く様子を見せながらも、津の飲兵衛たちはその光景に対して寛容なのだ。
同じビルのお店から困った顔をされる事があっても
『よそ者が土足で上がりこんできてやりたい放題やってる』
というのは、尾上さんがいる限り通用しない。
だから、僕一人の演奏の時、その目は冷ややかに突き刺さる。
ただし。
それでも、僕は彼と唄うのが好きだ。
実は、僕の方も年上の彼に慣れ過ぎたのか、酔っ払い同士つまらない喧嘩で別れてしまう事がある。
だけど、数ヵ月後にまた津で唄っていると、どこからかボロボロのギターケースを抱えた尾上さんがやってきて
「いつ来たん? 久しぶりやん」
と、いたずらっぽく笑うのだ。
前回の喧嘩の気まずさに渋い顔をしてる僕に
「まあ、乾杯しよや!」
と、コンビニでいちばん安い酒を手渡し 「さあ、稼ぐで~」 とか言いながら、ドッカと隣に座り込む男なのだ。
僕の分まで手土産を持ってきておいて、何が 「いつ来たん?」 なものか。
実は僕が来たらいつでも連絡するよう、後ろの店の知り合いに頼んでたらしい。
そんな津に、今年はついに出向かなかった。
昨年の盆に行ったきりだ。
生活の仕方と拠点が変わったせいで、動きが取り辛くなった。
来年の1発目は、津にするか。。


Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.090698,136.400757&spn=0.95288,1.755066&z=9
津 その1
夜を適当に過ごす事が難しい町だった。
日本一さみしい県庁所在地として名高いらしい、三重県は津市での事だ。
今時、大抵の町に行けばネットカフェや24時間体制の飲食店が多い中、津は夜の闇を捨ててまで経済発展に走ろうとはしていないようだ。
実際は、ニーズの問題なんだろうけど。
今はもう、そう困る事もない。
イカガデスカ~のマサージ屋さんが、マサージの後に仮眠させてくれるからだ。
マッサージはいらないのだが、とりあえずなんか悪いので、30分だけ頼む。
これはあくまで顔見知りになったから世話になってるだけで、宿泊施設として利用してるわけじゃないので悪しからず。
そうなると、風営法に引っかかる。保健所か?
しかしだ。
最初の頃は大いに困ったものだった。
何せ、ビジネスホテルの門限が、0時なのだから。
0時なんて言えば飲み屋路上演奏の人間には稼ぎ時の時刻で、出張のビジネスマンだって、ちょっとお酒がはずめば過ぎてしまう時刻だ。
僕だってビジネスで遅くなるんだから少しぐらい柔軟に対応してくれてもいいはずなのに、そのホテルときたら、たった30分過ぎてインターホンを押すだけで、誰も出て来やしない。
客が帰ってないのは分かってるはずなのに。
5分ぐらいインターホンを鳴らし続けても誰も出ないものだから、ちょっとイラッときて、入り口のガラス戸を蹴ってみた。
割れた・・・
いや、割るつもりなんてサラサラないのに、苛立ちが足先にこもってしまい、ちょっと加減が出来なかった。
それは僕が悪いとしてもだ、その宿直だか従業員、なんとガラスが割れるや否や5秒で飛んで来た。
ならすぐに、インターホン出んかい!!
ザマミロって、クスクス笑っとったんかい!!
その後、割れたガラスは保険にも入ってないと言うし、僕も手持ちがないしで、とりあえず翌日、知り合って間もない現地の知人に相談して、なんとか対処してもらった。
その後は、絶対にそこのホテルには泊まらない。
それから後は、小さな旅館に泊まるのが定番になった。
名を、夕凪荘という。
そこも最初は
「帰りが遅くなるんです・・・」という僕に
「うちは23時が門限なんですよ」と渋られたのだが
僕が「仕事でして」と言うや
「まあ! お仕事なら、どうぞどうぞ!」
と、宿のお母さんも恐縮してくれるほど。
僕の方も無理をお願いしてる身なので、さらに恐縮して、お互いにペコペコと頭を下げ合った。
人間、売り言葉に買い言葉より、魚心と水心でありたいものだ。
そんな魚心と水心が様々に絡み合い、僕の旅唄いにおいて最大の訪問地である津との縁は始まった。
ちらっと書いたが、津市での演奏場所は大門という、アーケードのそばに並ぶ飲み屋街だ。
アーケードにおける大門というのは旧名であり、本当は『だいたて商店街』が正式名称らしい。
けれど地元の誰も、ほとんどがそう呼んでない様子だ。
下りたシャッターが目に付く商店街ではあるけれど、僕がマッサージ屋さんを起き出す頃には元気な朝市が並び、決して商店街として機能していない事はない。
周囲はやっぱり市内最大の繁華街だし、だけど細い路地を抜けると
日本三大観音像(最近知った)が置かれた津観音寺があったり
手狭な中にも魅力はいっぱいの町だ。
ちなみに名古屋名物になっている『天むす』は、この界隈の小さなお店が発祥だ。
愛知を挟んだ静岡の名物であるウナギも、消費量でいけば、ここ津市が全国一らしい。
そういや結婚披露宴に呼ばれて唄った時も、うな重を出されたっけ。
それから、誰もが1度は食したベビースターも作ってる。
なんだかこう書いていると、僕は、津の観光大使になれそうな気までする。
しかし、なんと言っても街の魅力を語るのが旅唄いとくれば(手塚幸とくれば)、話題は飲み屋街になる。
たかだか広島から流れ着いた無名のギター弾き語りに、この街は最大限の魚心で応えてくれた。
一番のきっかけは、場所に尽きるだろう。
アーケードを23号線から横切ると、宵の口ならずとも見えてくる、チカチカと光る立て看板。
立体駐車場の脇には、一段高くなった敷地に3階建てのK(イニシャル)というテナントビルがある。
毎回、初上陸地での場所探しに悩む僕としては、珍しく「ここしかない」と思わせた場所だ。
2004年が最初の年だったろうか。その当時、大門のアーケードにも弾き語りの若い子はいたけれど、飲み屋街の敷地に入り込んで唄う人はいなかった。
ただ、その場所で知り合った金丸君という旅唄いも、やはり同じ場所をチョイスしていた。しかもその後に訪れた飛騨高山で現地の方に聞いたのだが、どうやら彼はそこでも僕の座った場所で演奏していたらしく、飲み屋路上を唄う人間の勘とは似たようなものなのだ。
ちなみに金丸君は日本を一周した挙句、本を出版している。
頂いた本は『青春の放浪』というタイトルだった。
とにもかくにも僕には現在、津といえば大門、大門といえばKビルという図式が出来上がっている。
初めて訪れたのは、東海道を西へ、東京から広島へ戻る旅の途中だった。
聞き覚えがあるだけの三重県。
失礼だが大都市とは聞いていなかった僕は、真っ先に県庁所在地である津に降り立った。
そして、駅のロータリーから二つ目の信号が年中点滅しているこの街に、すでに安心感を覚えた。
7月昼間の繁華街をのんびりと歩き回り、その時はまだ日中の過ごし方を上手に知らないため、先に書いた観音寺の横のだだっ広い草むらに広がる、子供の絵が書き並べられた野外ステージの上で日陰に寝転び、蚊に刺されながら汗だくで夜を待った。
唄うなら、あそこだと決めていた。
午後9時過ぎ。
いつも通り、初めての街に着いたら小銭だけの僕。
持てる限りの小銭をふりしぼった缶ビールを手に到着したKビルには、スナックや飲食店の看板が灯っていた。
雰囲気といえば、少し静かだけれど逆に僕の好みな寂れた空気。
よし、と、いつもなら空元気のセリフを、この時だけは自然に口に出して僕はギターケースを開いた。
飲み屋さんばかりのテナントなので、やや人の出入りは多い。
だけどそれも、10分に1回くらいのペースだった。
エントランスはそのまま階段に繋がるKビル前だったが、入り口はすべて向かって左側にあり、僕が唄う右手の外周は全く通行の邪魔にならないのが助かる。
迎えのタクシーを少々ジャマしてしまうのが申し訳ない。
この場所で唄っているミュージシャンは珍しいのか、通行人はほとんどが僕に目を留めて行く。
世は、どんな街でもストリートミュージシャンが大手を振って唄う時代。どれほど声を張り上げて唄っていても半数が目も合わせず通り過ぎるばかりの街で、大門は僕に新鮮だった。
そして最も嬉しい事は、怪訝な目つきで睨んでいく訳ではなく、ものすごく笑顔で好意的だった事だろう。
路上で唄うミュージシャンは他人の目に曝され、そしてその視線に耐えられなければ演奏は出来ない。
あらゆるストリートミュージシャンが無遠慮に投げられる視線に耐え、それがもしも笑顔であれば、あらゆるミュージシャンはまた、感謝の思いに溢れる。
それは、投げ銭が入らなければ生きていけない僕のような身であろうとも、同じ事だ。
投げられる視線にも笑顔を返す余裕が出来て1時間ほど唄っていると、右手のアーケード方面から、男性の集団と、着物姿の女性が1人、賑やかに近づいてきた。
どうやら背にしたビルの、ママさんとお客さんの集団らしかった。
1人の人懐っこいオジサンが、すでに良い感じの酔いで僕に話しかけてきた。
「おっ、流しのおるやなかね!」
言葉は、九州弁だった。
ほらほら困らせんのよ~、と明るく近づいてきたママさんも実は熊本の生まれで、なんと今夜は九州人会の集まりだという。
広島からの旅唄いも、元を質せば九州の端っこの生まれ。
こういう時には躊躇している場合じゃない、
「実は僕も・・・」
と切り出せば、後はビルの3階に出張営業は決まり、あちこちのテーブルを回っては飲んで唄い、初め良ければなんとやらの逆をゆく、津市の初日にして大酔っ払いが出来上がった。いや、頂いたチップでゆけば全て良しだったけれど。
これが、ラウンジ・ジュネスさんとの出会いだった。
この後、僕は大門に唄いに来る度にジュネスさんに世話になるのだ。
それは大晦日のスタッフの忘年会だったり、毎回頂いてる差し入れのウイスキーロックだったりと、挙げ連ねればキリがない。
なので1つだけ、僕がすごくすごく笑ってしまい、ちょっとだけ涙ぐむ、今も新鮮に覚えている話をしたい。
その年の大晦日、路上の焼き芋屋さん(この方とも仲良くなった)と共に、ジュネスさんの忘年会へ招かれた僕は、散々に飲み食いさせてもらい、そしてお返しに唄わせてもらった。
Yさんというスタッフの方がものすごい長渕剛のファンで、僕はオリジナルなんてそっちのけで、とにかく長渕剛ばかりを唄わせてもらった。
その時に僕は、整理整頓の出来ぬ荷物から、思わぬ落し物をしてしまっていたのだ。
じゃあまた来年は暖かくなったら来ぃや! と言うママさんにお辞儀をして、言葉通り、僕が津を再訪したのは翌年の春だった。
長い長い、寒い冬を越えて訪れた津市・大門。
すっかりコートも脱げて身軽な僕は、お久しぶりです! とまずはジュネスさんへ挨拶に行った。
すると、去年のままの笑顔で迎えてくれたママさんが
「お~! お帰り~! あ、そういえば去年、忘れ物しとったに」
と言いながら店の奥へ消えた。
しかし、僕には覚えがない。
そこまで大切なものだったら気がついているはずなんだけど、と思っていると
「これぇ、酔っ払って忘れたろ!」
と、小さな包みを渡してくれた。
それでも思い出せない僕が中を開けると
そこにはギターの弦が入っていた。
しかも、錆びて不要になった、交換した後のギターの弦が。
包みには 『長渕剛 忘れ物』 とメモが貼られていた。
「また、しっかり稼ぎや! 後で差し入れ持ってってやるに!」
僕は笑顔とでかい声で、頑張ります! と答え、やがて定番になる場所へと向かった。
数分後にお店の女の子から、ウイスキーのなみなみと注がれたグラスが運ばれてくるのだけれど、それもやがて定番になり、大賑わいでグラスを割ってしまった翌日からは、マグカップが僕の専用グラスとなるのだ。
『長渕剛様』 のメモは今もきっと、乱雑にまとめられた荷物のどこかに紛れている。
そうそう。
津市の初日、九州人会の集まりで唄った後に話を戻そう。
僕は酔っていたけれど深々と頭を下げ、九州人会のオジサン達とママさんにお礼を述べて表に出た。
ひとまず酔いを醒まそうと夜風を浴び、とりあえずする事は他にないのでギターケースは開けていた。
するとそこに、僕とそう変わらない年の男女が現れ、リクエストするのだった。
『津のアニキ』と苦笑いを込めて呼ぶ事になる尾上さんとの初対面だったのだが、この人の話は恐ろしく長く大量になるので、次回に持ち越そう。

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日本一さみしい県庁所在地として名高いらしい、三重県は津市での事だ。
今時、大抵の町に行けばネットカフェや24時間体制の飲食店が多い中、津は夜の闇を捨ててまで経済発展に走ろうとはしていないようだ。
実際は、ニーズの問題なんだろうけど。
今はもう、そう困る事もない。
イカガデスカ~のマサージ屋さんが、マサージの後に仮眠させてくれるからだ。
マッサージはいらないのだが、とりあえずなんか悪いので、30分だけ頼む。
これはあくまで顔見知りになったから世話になってるだけで、宿泊施設として利用してるわけじゃないので悪しからず。
そうなると、風営法に引っかかる。保健所か?
しかしだ。
最初の頃は大いに困ったものだった。
何せ、ビジネスホテルの門限が、0時なのだから。
0時なんて言えば飲み屋路上演奏の人間には稼ぎ時の時刻で、出張のビジネスマンだって、ちょっとお酒がはずめば過ぎてしまう時刻だ。
僕だってビジネスで遅くなるんだから少しぐらい柔軟に対応してくれてもいいはずなのに、そのホテルときたら、たった30分過ぎてインターホンを押すだけで、誰も出て来やしない。
客が帰ってないのは分かってるはずなのに。
5分ぐらいインターホンを鳴らし続けても誰も出ないものだから、ちょっとイラッときて、入り口のガラス戸を蹴ってみた。
割れた・・・
いや、割るつもりなんてサラサラないのに、苛立ちが足先にこもってしまい、ちょっと加減が出来なかった。
それは僕が悪いとしてもだ、その宿直だか従業員、なんとガラスが割れるや否や5秒で飛んで来た。
ならすぐに、インターホン出んかい!!
ザマミロって、クスクス笑っとったんかい!!
その後、割れたガラスは保険にも入ってないと言うし、僕も手持ちがないしで、とりあえず翌日、知り合って間もない現地の知人に相談して、なんとか対処してもらった。
その後は、絶対にそこのホテルには泊まらない。
それから後は、小さな旅館に泊まるのが定番になった。
名を、夕凪荘という。
そこも最初は
「帰りが遅くなるんです・・・」という僕に
「うちは23時が門限なんですよ」と渋られたのだが
僕が「仕事でして」と言うや
「まあ! お仕事なら、どうぞどうぞ!」
と、宿のお母さんも恐縮してくれるほど。
僕の方も無理をお願いしてる身なので、さらに恐縮して、お互いにペコペコと頭を下げ合った。
人間、売り言葉に買い言葉より、魚心と水心でありたいものだ。
そんな魚心と水心が様々に絡み合い、僕の旅唄いにおいて最大の訪問地である津との縁は始まった。
ちらっと書いたが、津市での演奏場所は大門という、アーケードのそばに並ぶ飲み屋街だ。
アーケードにおける大門というのは旧名であり、本当は『だいたて商店街』が正式名称らしい。
けれど地元の誰も、ほとんどがそう呼んでない様子だ。
下りたシャッターが目に付く商店街ではあるけれど、僕がマッサージ屋さんを起き出す頃には元気な朝市が並び、決して商店街として機能していない事はない。
周囲はやっぱり市内最大の繁華街だし、だけど細い路地を抜けると
日本三大観音像(最近知った)が置かれた津観音寺があったり
手狭な中にも魅力はいっぱいの町だ。
ちなみに名古屋名物になっている『天むす』は、この界隈の小さなお店が発祥だ。
愛知を挟んだ静岡の名物であるウナギも、消費量でいけば、ここ津市が全国一らしい。
そういや結婚披露宴に呼ばれて唄った時も、うな重を出されたっけ。
それから、誰もが1度は食したベビースターも作ってる。
なんだかこう書いていると、僕は、津の観光大使になれそうな気までする。
しかし、なんと言っても街の魅力を語るのが旅唄いとくれば(手塚幸とくれば)、話題は飲み屋街になる。
たかだか広島から流れ着いた無名のギター弾き語りに、この街は最大限の魚心で応えてくれた。
一番のきっかけは、場所に尽きるだろう。
アーケードを23号線から横切ると、宵の口ならずとも見えてくる、チカチカと光る立て看板。
立体駐車場の脇には、一段高くなった敷地に3階建てのK(イニシャル)というテナントビルがある。
毎回、初上陸地での場所探しに悩む僕としては、珍しく「ここしかない」と思わせた場所だ。
2004年が最初の年だったろうか。その当時、大門のアーケードにも弾き語りの若い子はいたけれど、飲み屋街の敷地に入り込んで唄う人はいなかった。
ただ、その場所で知り合った金丸君という旅唄いも、やはり同じ場所をチョイスしていた。しかもその後に訪れた飛騨高山で現地の方に聞いたのだが、どうやら彼はそこでも僕の座った場所で演奏していたらしく、飲み屋路上を唄う人間の勘とは似たようなものなのだ。
ちなみに金丸君は日本を一周した挙句、本を出版している。
頂いた本は『青春の放浪』というタイトルだった。
とにもかくにも僕には現在、津といえば大門、大門といえばKビルという図式が出来上がっている。
初めて訪れたのは、東海道を西へ、東京から広島へ戻る旅の途中だった。
聞き覚えがあるだけの三重県。
失礼だが大都市とは聞いていなかった僕は、真っ先に県庁所在地である津に降り立った。
そして、駅のロータリーから二つ目の信号が年中点滅しているこの街に、すでに安心感を覚えた。
7月昼間の繁華街をのんびりと歩き回り、その時はまだ日中の過ごし方を上手に知らないため、先に書いた観音寺の横のだだっ広い草むらに広がる、子供の絵が書き並べられた野外ステージの上で日陰に寝転び、蚊に刺されながら汗だくで夜を待った。
唄うなら、あそこだと決めていた。
午後9時過ぎ。
いつも通り、初めての街に着いたら小銭だけの僕。
持てる限りの小銭をふりしぼった缶ビールを手に到着したKビルには、スナックや飲食店の看板が灯っていた。
雰囲気といえば、少し静かだけれど逆に僕の好みな寂れた空気。
よし、と、いつもなら空元気のセリフを、この時だけは自然に口に出して僕はギターケースを開いた。
飲み屋さんばかりのテナントなので、やや人の出入りは多い。
だけどそれも、10分に1回くらいのペースだった。
エントランスはそのまま階段に繋がるKビル前だったが、入り口はすべて向かって左側にあり、僕が唄う右手の外周は全く通行の邪魔にならないのが助かる。
迎えのタクシーを少々ジャマしてしまうのが申し訳ない。
この場所で唄っているミュージシャンは珍しいのか、通行人はほとんどが僕に目を留めて行く。
世は、どんな街でもストリートミュージシャンが大手を振って唄う時代。どれほど声を張り上げて唄っていても半数が目も合わせず通り過ぎるばかりの街で、大門は僕に新鮮だった。
そして最も嬉しい事は、怪訝な目つきで睨んでいく訳ではなく、ものすごく笑顔で好意的だった事だろう。
路上で唄うミュージシャンは他人の目に曝され、そしてその視線に耐えられなければ演奏は出来ない。
あらゆるストリートミュージシャンが無遠慮に投げられる視線に耐え、それがもしも笑顔であれば、あらゆるミュージシャンはまた、感謝の思いに溢れる。
それは、投げ銭が入らなければ生きていけない僕のような身であろうとも、同じ事だ。
投げられる視線にも笑顔を返す余裕が出来て1時間ほど唄っていると、右手のアーケード方面から、男性の集団と、着物姿の女性が1人、賑やかに近づいてきた。
どうやら背にしたビルの、ママさんとお客さんの集団らしかった。
1人の人懐っこいオジサンが、すでに良い感じの酔いで僕に話しかけてきた。
「おっ、流しのおるやなかね!」
言葉は、九州弁だった。
ほらほら困らせんのよ~、と明るく近づいてきたママさんも実は熊本の生まれで、なんと今夜は九州人会の集まりだという。
広島からの旅唄いも、元を質せば九州の端っこの生まれ。
こういう時には躊躇している場合じゃない、
「実は僕も・・・」
と切り出せば、後はビルの3階に出張営業は決まり、あちこちのテーブルを回っては飲んで唄い、初め良ければなんとやらの逆をゆく、津市の初日にして大酔っ払いが出来上がった。いや、頂いたチップでゆけば全て良しだったけれど。
これが、ラウンジ・ジュネスさんとの出会いだった。
この後、僕は大門に唄いに来る度にジュネスさんに世話になるのだ。
それは大晦日のスタッフの忘年会だったり、毎回頂いてる差し入れのウイスキーロックだったりと、挙げ連ねればキリがない。
なので1つだけ、僕がすごくすごく笑ってしまい、ちょっとだけ涙ぐむ、今も新鮮に覚えている話をしたい。
その年の大晦日、路上の焼き芋屋さん(この方とも仲良くなった)と共に、ジュネスさんの忘年会へ招かれた僕は、散々に飲み食いさせてもらい、そしてお返しに唄わせてもらった。
Yさんというスタッフの方がものすごい長渕剛のファンで、僕はオリジナルなんてそっちのけで、とにかく長渕剛ばかりを唄わせてもらった。
その時に僕は、整理整頓の出来ぬ荷物から、思わぬ落し物をしてしまっていたのだ。
じゃあまた来年は暖かくなったら来ぃや! と言うママさんにお辞儀をして、言葉通り、僕が津を再訪したのは翌年の春だった。
長い長い、寒い冬を越えて訪れた津市・大門。
すっかりコートも脱げて身軽な僕は、お久しぶりです! とまずはジュネスさんへ挨拶に行った。
すると、去年のままの笑顔で迎えてくれたママさんが
「お~! お帰り~! あ、そういえば去年、忘れ物しとったに」
と言いながら店の奥へ消えた。
しかし、僕には覚えがない。
そこまで大切なものだったら気がついているはずなんだけど、と思っていると
「これぇ、酔っ払って忘れたろ!」
と、小さな包みを渡してくれた。
それでも思い出せない僕が中を開けると
そこにはギターの弦が入っていた。
しかも、錆びて不要になった、交換した後のギターの弦が。
包みには 『長渕剛 忘れ物』 とメモが貼られていた。
「また、しっかり稼ぎや! 後で差し入れ持ってってやるに!」
僕は笑顔とでかい声で、頑張ります! と答え、やがて定番になる場所へと向かった。
数分後にお店の女の子から、ウイスキーのなみなみと注がれたグラスが運ばれてくるのだけれど、それもやがて定番になり、大賑わいでグラスを割ってしまった翌日からは、マグカップが僕の専用グラスとなるのだ。
『長渕剛様』 のメモは今もきっと、乱雑にまとめられた荷物のどこかに紛れている。
そうそう。
津市の初日、九州人会の集まりで唄った後に話を戻そう。
僕は酔っていたけれど深々と頭を下げ、九州人会のオジサン達とママさんにお礼を述べて表に出た。
ひとまず酔いを醒まそうと夜風を浴び、とりあえずする事は他にないのでギターケースは開けていた。
するとそこに、僕とそう変わらない年の男女が現れ、リクエストするのだった。
『津のアニキ』と苦笑いを込めて呼ぶ事になる尾上さんとの初対面だったのだが、この人の話は恐ろしく長く大量になるので、次回に持ち越そう。
Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.090698,136.400757&spn=0.95288,1.755066&z=9
松山
広島に在住(必ずしも家があった訳ではないが)しているにも関わらず、四国にはなかなか渡らない旅唄いだった。
よく唄いに出ていた呉からフェリーで2時間ほどの距離なのだが『いつでも行ける距離』という気楽さと、逆に『海を渡る』という言葉の重みに打ち負かされ、気がつけばたかだか瀬戸内海を渡る決意に4年をかけてしまっていた。
広島の知人複数が「四国、良かったですよ~」と言うのを、フ~ンと聞き流すだけの4年にピリオドを打つべく、僕は2003年に海を渡った。
重ねて言うが、たかだか瀬戸内海である。
ところで、これを書きながら「あん時のフェリーってなんぼだっけ」とネット検索していたら、片道1600円だった『呉・阿賀~松山・堀江』の航路は2009年6月で
なんと高速ETC1000円の功罪にて廃止されていた。
1600円という片道運賃が廃止当時である事を考えると、僕が使っていた当時は、もう少し安かったのではないかとも思う。
なんにしても、同じ交通手段を使っては二度と旅が出来ない事になった。
旅唄い初となる松山市の上陸地は、堀江港だった。
『みなと食堂』なんていう安直でありきたりな古い看板が見えて、僕はいつもそんなものに嬉しさを覚える。どんなに有名な観光名所よりも、人の生活が息づいている実感に安心する。
初めての町だけれど、ここも日本なんだと、きっと音楽が大好きな人がいるんだと。
JR予讃線で駅をいくつか南へ下り、松山に到着した僕を迎えたのは、やはり城下町の佇まいだった。
標高132メートルの勝山(城山)山頂には言わずと知れた松山城があり、城山公園の堀を西堀から南堀へ黙々と歩いた。広い、閑静と呼んでもいいほどの道路を、ゆったりと路面電車が走っていく。堂々として、なおも微笑ましい光景だ。
同じ路面電車でもこれが広島の場合は、市街地の込み入った大通りを過ぎると、途端に住宅地をこれでもかとすり抜けていくので、どことなくせせこましい感じがする。嫌いじゃないけど。
すると次に僕を迎えたのは打って変わった喧騒で、伊予鉄道の松山市駅に近づくと、途端に松山は大都市の顔を見せた。
松山市駅は、JRを差し置いて四国一の乗降者数を誇るらしい。
道後温泉を有するこの町は、観光地としても有名。
『城下町』で『温泉街』なんて、日本人をたぶらかすには持って来いの町じゃないか。
ついでに言うと、松山は『文学の町』でもある。
ちょっと前に司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み終えていた僕は、実はそれも手伝って松山へ渡ってみようと思ったのだ。
その割に、文学めいた行動は何ひとつ行わなかった。
飲んで唄っているだけという、文士崩れみたいな行動だった。
松山の紹介も尽きないのだけれど、前回の続きを思い出した(忘れていた)。
市内の大きな繁華街である2番町だか3番町だかで唄っていた僕は、肉まん売りの中国籍らしいお姉さんに冷たい水を差し入れられてウキウキしていたという話だ。
その前にひとつ、エピソードを追加しよう。
時系列でいくと、その前日、つまり初日には少し離れた別の所で唄い、嫌な思いをしていたのだ。
初めての街では緊張のあまりに誰も通らないような薄暗い通りで唄っては通行人を驚かす事の多い僕なのだが、松山初日もそうだった。
天候のチェックを怠っていた僕は、まず初日の夜に雨に遭った。
ポツポツと、どうにも止まない雨の中で、繁華街の中心には程遠い街外れのテナントビルの下で唄っていた。屋根が広かったからだ。
傘を差した通行人は、どう対処して良いのか理解しかねるといった気まずい視線で過ぎていくばかりだったが、テナントにセレブなお店が多かったのか、ビルを出入りする社長さん(注:手もみ発言)やお姉さん(同)には、すこぶる反応が良かった。
味を占めたので、天候が回復した翌日も、午後9時あたりから、その場で唄っていたのだ。
しかし、苦情が出た。
苦情は、車道を挟んだ、向かいのお寺からだった。
最初、渋い和装のお父さんが悠然と近づいて来るのを見た僕は
「あらまた社長さんかしら」
と、媚びた笑みで迎えた。
すると無表情に
「あなたのせいで、私の娘が非常に苦しんでいる」
と言われ、話が読めずにいると、更に
「あなたは昨夜もここで歌を唄われていましたね。なかなかにお上手で素敵な事だと思います。でも、私の娘は、あなたのせいで眠れなくて困っているのです」
と補足説明があった。
なるほどそれはいけない、と合点がいったので謝って早々に撤去しようと思ったら
「あなたの音楽は素晴らしい事だと思います」
と、またこちらを気にしてか、帰り支度の僕に言葉をかけてくれた。
いえいえ僕も初めての街で要領が悪かったです、申し訳ありませんでしたと詫びた。
しかし、お父さんはまだ言うのだ。
「娘はあなたのせいで、薬を飲まなければ眠れないのです」
・・・・・・。
エンドレスと思われたが、15分で帰してくれた。
こちらが悪いので言い返す事は出来ないのだけど、それにしても、その、なんか、長かった。
そういった事があり、僕は前回記述の通り、苦手な大通りでの演奏に踏み切ったのだった。
結果的には、それが一番で、苦情も出難い訳だ。
最初からそうすればいいのに、僕もまた、なんか、それにしても、だ。
よし。本題に入ろう。
中国籍のお姉さんにねだられてデヘヘな僕は、しばらく唄っていた。
空気をモノにした感じが、僕の調子も上げていく。
時刻も0時を回るかそこらの、松山最高潮な夜だ。
信号待ちの人から投げ銭が入り、肉まんを待つお客さんがリクエストをくれたりと、僕のギターケースも賑やかになってきた。
そこにだ。僕の演奏には似つかわしくない、若くてちょっとカッコイイお兄さんが2人近づいてきた。
「あの、お店で唄っていただけたりしますか? ここを通られたお客様が、聞いて欲しいとおっしゃっているので」
なんと、営業の誘いだった。
こんなカッコイイ黒服のお兄さんがいるんならホストクラブだろうかとか考えながらも、断る手はない。
是非お願いしますと答え、僕はまた荷物をまとめた。
案内されてすぐ目の前のビルへ向かうと、2階へと階段を上がるようだ。
階段の手前で、僕は少し違和感を感じた。
生地の薄い、ヴェールのような大きな布切れが、所狭しと行く手を阻んでいるのだ。
僕の浅い経験値によれば
これはエッチ系のお店じゃないのかと
頭に黄色のシグナルが点滅し始めた。そんな所で、演奏なんか必要なのか。
しかし引き返せない僕は、それでも丁寧に案内する2人のイケメン(当時は言わなかったが)に従うしかなく、明らかに桃色な字体で書かれた店名を記憶する暇もないまま、ご入店した。
薄暗い店内は、上ってきた階段と同じ薄布がカーテン状に仕切りを作り、そのひとつの席に
僕は生のセーラームーンを見つけた。
これは 噂の女子高生パブか…。
頭のシグナルが、真っ赤に点滅した
が、演奏のお願いはお客さんから確かに入っていたため、ステージ代わりになる場所もなかったけれど、キャッシャー前という不自然な位置で、明らかに場の空気を読めない長渕剛(リクエスト)を演奏し、足元の灰皿に千円札を入れられ、極度の緊張のために2回も弦を切り、繋ぎ、茶を濁し、散々で逃げ帰った。
まあ、それでもお兄さんに「ありがとうございました」とは言われたが。
という事で、恐らく僕は人生で後にも先にもないだろうという、女子高生パブでの演奏を経験した。
呉・松山フェリーと共に、これは忘れられない思い出だ。
その翌日に、昨晩唄っていた場所が関係者によって防護策を講じられていたりと、なかなか一筋縄ではいかなかった松山だが、最後にもうひとつエピソードを。
翌年に再訪した松山で、夜の路上もうまく行かずに昼間の演奏を余儀なくされた僕は、地下道でギターを出していた。
昼というのは本当に僕のエネルギーを奪い、それでもせめて広島へ戻る交通費は、と頑張っていた。
夏の盛りで、吹きぬける風もほとんどなく、汗が額を流れた。
1人、また1人、と、年配の女性を中心に少しの小銭をいただき始めて1時間。
もっさりと荷物を背負った眼鏡のギター弾きが脇に立った。
「ええ声してはりますねえ」
とか何とか言っただろうか。
少し話をすると、彼もまた旅の途中であり、他県からの瀬戸内流れ旅真っ最中らしい事を聞いた。
僕は普段、滅多な事では旅人や路上ミュージシャンと交流はおろか言葉も交わさない。
そんな僕が、なぜか記憶のどこかで
「思い出せ、思い出せ、こいつは知らない奴じゃないぞ」
と叫んでる。
実は向こうも何かを感じていたらしく、お互いに探り探り話していたが、僕の方が先に思い出した。
3年前あたり、広島路上で知人に紹介されて一緒に唄った[ひ](そんな名前なんです)だった。
その時は大事な譜面のファイルに缶ビールを倒してすんませんでしたとか挨拶して
「次は北国で会おう」
と意味不明な約束を交わして別れた。
実際には彼の本拠地である三重県で会ったりするのだが、その後、今に至るまであちこちで再会しては唄っている、数少ない古くからの友だ。
彼=[ひ]~ちゃんも、その時の旅の事をブログに書いてるので、是非とも読んで欲しい。
[ひ]暮庵 ストり旅日記書庫【'04夏!ストり旅日記 -瀬戸内開眼編-】
http://hp.kutikomi.net/higurashian/?n=column4&no=5
[ひ]~ちゃんとの再会がエネルギーをくれたのか、その後、昼間のチップとしては破格の5千円札を頂いた僕は、夜を待たずに松山を後にした。
[ひ]~ちゃんも、少し離れた地下道で唄っていたらしいが、僕にメインストリートを奪われた彼は散々だったようである。
そのお返しは、後に四日市でのモツ鍋になる。

Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=33.894357,132.739563&spn=0.503845,0.877533&z=10
よく唄いに出ていた呉からフェリーで2時間ほどの距離なのだが『いつでも行ける距離』という気楽さと、逆に『海を渡る』という言葉の重みに打ち負かされ、気がつけばたかだか瀬戸内海を渡る決意に4年をかけてしまっていた。
広島の知人複数が「四国、良かったですよ~」と言うのを、フ~ンと聞き流すだけの4年にピリオドを打つべく、僕は2003年に海を渡った。
重ねて言うが、たかだか瀬戸内海である。
ところで、これを書きながら「あん時のフェリーってなんぼだっけ」とネット検索していたら、片道1600円だった『呉・阿賀~松山・堀江』の航路は2009年6月で
なんと高速ETC1000円の功罪にて廃止されていた。
1600円という片道運賃が廃止当時である事を考えると、僕が使っていた当時は、もう少し安かったのではないかとも思う。
なんにしても、同じ交通手段を使っては二度と旅が出来ない事になった。
旅唄い初となる松山市の上陸地は、堀江港だった。
『みなと食堂』なんていう安直でありきたりな古い看板が見えて、僕はいつもそんなものに嬉しさを覚える。どんなに有名な観光名所よりも、人の生活が息づいている実感に安心する。
初めての町だけれど、ここも日本なんだと、きっと音楽が大好きな人がいるんだと。
JR予讃線で駅をいくつか南へ下り、松山に到着した僕を迎えたのは、やはり城下町の佇まいだった。
標高132メートルの勝山(城山)山頂には言わずと知れた松山城があり、城山公園の堀を西堀から南堀へ黙々と歩いた。広い、閑静と呼んでもいいほどの道路を、ゆったりと路面電車が走っていく。堂々として、なおも微笑ましい光景だ。
同じ路面電車でもこれが広島の場合は、市街地の込み入った大通りを過ぎると、途端に住宅地をこれでもかとすり抜けていくので、どことなくせせこましい感じがする。嫌いじゃないけど。
すると次に僕を迎えたのは打って変わった喧騒で、伊予鉄道の松山市駅に近づくと、途端に松山は大都市の顔を見せた。
松山市駅は、JRを差し置いて四国一の乗降者数を誇るらしい。
道後温泉を有するこの町は、観光地としても有名。
『城下町』で『温泉街』なんて、日本人をたぶらかすには持って来いの町じゃないか。
ついでに言うと、松山は『文学の町』でもある。
ちょっと前に司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み終えていた僕は、実はそれも手伝って松山へ渡ってみようと思ったのだ。
その割に、文学めいた行動は何ひとつ行わなかった。
飲んで唄っているだけという、文士崩れみたいな行動だった。
松山の紹介も尽きないのだけれど、前回の続きを思い出した(忘れていた)。
市内の大きな繁華街である2番町だか3番町だかで唄っていた僕は、肉まん売りの中国籍らしいお姉さんに冷たい水を差し入れられてウキウキしていたという話だ。
その前にひとつ、エピソードを追加しよう。
時系列でいくと、その前日、つまり初日には少し離れた別の所で唄い、嫌な思いをしていたのだ。
初めての街では緊張のあまりに誰も通らないような薄暗い通りで唄っては通行人を驚かす事の多い僕なのだが、松山初日もそうだった。
天候のチェックを怠っていた僕は、まず初日の夜に雨に遭った。
ポツポツと、どうにも止まない雨の中で、繁華街の中心には程遠い街外れのテナントビルの下で唄っていた。屋根が広かったからだ。
傘を差した通行人は、どう対処して良いのか理解しかねるといった気まずい視線で過ぎていくばかりだったが、テナントにセレブなお店が多かったのか、ビルを出入りする社長さん(注:手もみ発言)やお姉さん(同)には、すこぶる反応が良かった。
味を占めたので、天候が回復した翌日も、午後9時あたりから、その場で唄っていたのだ。
しかし、苦情が出た。
苦情は、車道を挟んだ、向かいのお寺からだった。
最初、渋い和装のお父さんが悠然と近づいて来るのを見た僕は
「あらまた社長さんかしら」
と、媚びた笑みで迎えた。
すると無表情に
「あなたのせいで、私の娘が非常に苦しんでいる」
と言われ、話が読めずにいると、更に
「あなたは昨夜もここで歌を唄われていましたね。なかなかにお上手で素敵な事だと思います。でも、私の娘は、あなたのせいで眠れなくて困っているのです」
と補足説明があった。
なるほどそれはいけない、と合点がいったので謝って早々に撤去しようと思ったら
「あなたの音楽は素晴らしい事だと思います」
と、またこちらを気にしてか、帰り支度の僕に言葉をかけてくれた。
いえいえ僕も初めての街で要領が悪かったです、申し訳ありませんでしたと詫びた。
しかし、お父さんはまだ言うのだ。
「娘はあなたのせいで、薬を飲まなければ眠れないのです」
・・・・・・。
エンドレスと思われたが、15分で帰してくれた。
こちらが悪いので言い返す事は出来ないのだけど、それにしても、その、なんか、長かった。
そういった事があり、僕は前回記述の通り、苦手な大通りでの演奏に踏み切ったのだった。
結果的には、それが一番で、苦情も出難い訳だ。
最初からそうすればいいのに、僕もまた、なんか、それにしても、だ。
よし。本題に入ろう。
中国籍のお姉さんにねだられてデヘヘな僕は、しばらく唄っていた。
空気をモノにした感じが、僕の調子も上げていく。
時刻も0時を回るかそこらの、松山最高潮な夜だ。
信号待ちの人から投げ銭が入り、肉まんを待つお客さんがリクエストをくれたりと、僕のギターケースも賑やかになってきた。
そこにだ。僕の演奏には似つかわしくない、若くてちょっとカッコイイお兄さんが2人近づいてきた。
「あの、お店で唄っていただけたりしますか? ここを通られたお客様が、聞いて欲しいとおっしゃっているので」
なんと、営業の誘いだった。
こんなカッコイイ黒服のお兄さんがいるんならホストクラブだろうかとか考えながらも、断る手はない。
是非お願いしますと答え、僕はまた荷物をまとめた。
案内されてすぐ目の前のビルへ向かうと、2階へと階段を上がるようだ。
階段の手前で、僕は少し違和感を感じた。
生地の薄い、ヴェールのような大きな布切れが、所狭しと行く手を阻んでいるのだ。
僕の浅い経験値によれば
これはエッチ系のお店じゃないのかと
頭に黄色のシグナルが点滅し始めた。そんな所で、演奏なんか必要なのか。
しかし引き返せない僕は、それでも丁寧に案内する2人のイケメン(当時は言わなかったが)に従うしかなく、明らかに桃色な字体で書かれた店名を記憶する暇もないまま、ご入店した。
薄暗い店内は、上ってきた階段と同じ薄布がカーテン状に仕切りを作り、そのひとつの席に
僕は生のセーラームーンを見つけた。
これは 噂の女子高生パブか…。
頭のシグナルが、真っ赤に点滅した
が、演奏のお願いはお客さんから確かに入っていたため、ステージ代わりになる場所もなかったけれど、キャッシャー前という不自然な位置で、明らかに場の空気を読めない長渕剛(リクエスト)を演奏し、足元の灰皿に千円札を入れられ、極度の緊張のために2回も弦を切り、繋ぎ、茶を濁し、散々で逃げ帰った。
まあ、それでもお兄さんに「ありがとうございました」とは言われたが。
という事で、恐らく僕は人生で後にも先にもないだろうという、女子高生パブでの演奏を経験した。
呉・松山フェリーと共に、これは忘れられない思い出だ。
その翌日に、昨晩唄っていた場所が関係者によって防護策を講じられていたりと、なかなか一筋縄ではいかなかった松山だが、最後にもうひとつエピソードを。
翌年に再訪した松山で、夜の路上もうまく行かずに昼間の演奏を余儀なくされた僕は、地下道でギターを出していた。
昼というのは本当に僕のエネルギーを奪い、それでもせめて広島へ戻る交通費は、と頑張っていた。
夏の盛りで、吹きぬける風もほとんどなく、汗が額を流れた。
1人、また1人、と、年配の女性を中心に少しの小銭をいただき始めて1時間。
もっさりと荷物を背負った眼鏡のギター弾きが脇に立った。
「ええ声してはりますねえ」
とか何とか言っただろうか。
少し話をすると、彼もまた旅の途中であり、他県からの瀬戸内流れ旅真っ最中らしい事を聞いた。
僕は普段、滅多な事では旅人や路上ミュージシャンと交流はおろか言葉も交わさない。
そんな僕が、なぜか記憶のどこかで
「思い出せ、思い出せ、こいつは知らない奴じゃないぞ」
と叫んでる。
実は向こうも何かを感じていたらしく、お互いに探り探り話していたが、僕の方が先に思い出した。
3年前あたり、広島路上で知人に紹介されて一緒に唄った[ひ](そんな名前なんです)だった。
その時は大事な譜面のファイルに缶ビールを倒してすんませんでしたとか挨拶して
「次は北国で会おう」
と意味不明な約束を交わして別れた。
実際には彼の本拠地である三重県で会ったりするのだが、その後、今に至るまであちこちで再会しては唄っている、数少ない古くからの友だ。
彼=[ひ]~ちゃんも、その時の旅の事をブログに書いてるので、是非とも読んで欲しい。
[ひ]暮庵 ストり旅日記書庫【'04夏!ストり旅日記 -瀬戸内開眼編-】
http://hp.kutikomi.net/higurashian/?n=column4&no=5
[ひ]~ちゃんとの再会がエネルギーをくれたのか、その後、昼間のチップとしては破格の5千円札を頂いた僕は、夜を待たずに松山を後にした。
[ひ]~ちゃんも、少し離れた地下道で唄っていたらしいが、僕にメインストリートを奪われた彼は散々だったようである。
そのお返しは、後に四日市でのモツ鍋になる。
Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=33.894357,132.739563&spn=0.503845,0.877533&z=10
どこ、という訳でもなく
人の思いや親切を頂く事は多く、たとえばこのブログを書いてる今も、昨夜の路上で頂いたたこ焼きをつつきながら、発泡酒を飲みながらだったりする。
とか書くと、なんか即物的だな(苦笑)。
今回は少し趣向を変えて、街の住人を書いてみよう。
どの街に行っても非常に大きな問題は、唄おうとする周辺に誰がいるか。
誰、というのは客引きさんだ。
ポン引き、キャッチ、黒服、呼び込みと言い方はあれど、締め付けが厳しくなる一方の風営法を横目に、客引きさん達は毎晩、頑張っている。頑張ってる感じに見える事は少ないけど、頑張ってる。
ちなみに『ポン引き』というのは「はい! らっしゃ~い」と、ポンポン手を叩いて客を呼び込む所から付いた呼称だとか(追記:・・・というのは僕の情報不足で、ボンヤリした人に声を掛けて引き込むところから付いた名前だとか)。
僕は歌唄いであり、決して呼び込みではないのだが、客を引こうとする行為は同様に行ってる訳で、パワーバランスの整った繁華街に妙なギター弾きが突然現れると、周囲はけん制するのが当然。
街の自警団のような意味合いも持った、この方々。
唄い出す前の準備段階から、チラチラと様子を伺われてしまう。
そんな方々の視線をいっぱいに感じながら、小心者の旅唄いは胃が痛むのだ。
ただし案ずるより産むが易しで、ほとんどの場合は杞憂に終わり
「お? お兄ちゃん、流しか?」
などと気軽に声を掛けてもらう事が多い。
決して、その客引きのオジサンが地域をまとめてる訳でも親分でもないのだが、ひとつの場所で唄うのが1日や2日の旅の中では、そういった方に声を掛けてもらえるだけで十分に心強いのだ。
ここで興味深い事がふたつある。
ひとつは、これが歌唄いでなく未認可のアクセサリー売りなどの露店の場合は、即座にどこかへ連絡が行き、なんだか怖そうな人達との問答に変わる事。
歌唄いなんかは、きっと街の治安維持において問題にならないのだろう。
はたまた僕の選曲が『オヤジ殺し』の異名を持つからなのか。
そしてもうひとつは、若い客引きさん達はほとんどの場合、声を掛けてこない事。
特に嫌がってる風でもなく、かといって会釈さえする訳でもなく、中立的な感じが多い。
これは単に、世代の問題なんだろうか。
金にならない会話はしない、ドライな雰囲気がある。
もしくは僕など眼中にないか。
そんな訳で、初めての街で声を掛けてくれるのはオッチャンの客引きという事が多い。
そして僕にとってそれは、その街で唄うための重要なポイントになる。
興味本位で話し掛けてくれれば、それは幸い。
さて。
次に声を掛けてくれるタイプが、今回のメイン。
2番目に多いのは、なんと女性なのだ。
僕の路上演奏風景を1度でも見た事のある人は分かるのだが、僕の客はオヤジか悪そうな兄ちゃんが多い。
女性率は、非常に低い。
女性好みの曲が少ないのと、なんというか暗い雰囲気のせいだろう(くうっ・・・)。
なのに、しばらく唄っていると、女性から声を掛けられる。
それは大抵、こうだ。
「アナタ、ジョーズネエ」
別に「あなた鮫ね」と言われてる訳じゃない。
歌が上手ですね、と言われているのだ。
言い方がぎこちないのは、多分に異国の方なので仕方ない事なのだ。
そう。2番目に多いのは
中国人エステのお姉さん。
エステというより、マサージのお姉さんだ。
飲み歩く世の男性なら一度ならず聞いたことのある
「マサージ、イカガデスカ~」のお姉さん。
マサージはマサージ。決して、マッサージではない(はず)。
彼女らの勤務時間というのは非常に長く、そして厳しい生活状況の事が多い。
こんな道端で唄ってる貧乏臭い兄ちゃん(オッサンですが)に声を掛ける本意は何だ、といつも思う。
単純に暇つぶしかも知れないし、あわよくば客になるかも、と思ってるかもしれない。
彼女らはギターケースに千円札が2枚くらい入ってると
「アラ~、モウカッテルネ~」
と、臆面もなく興味津々の顔をする。
日本人は気になっていても、横目でチラッと盗み見る程度だ。
文化の違いか。
何にせよ、これもこれで、初めての街ではやり易さに繋がる、ありがたい話ではある。
道後温泉で有名な愛媛県・松山市には、一番町から始まり三番町まで、バラエティーに富んだ繁華街が続く。
僕がこの街で初めて唄ったのは、大街道アーケードから近い二番町と三番町の間あたりだった。
中四国最大の飲み屋街と言われる広島の流川で唄ってた僕も、松山の大きさには緊張したものだ。
車の往来も多く、飲み屋ビルの占有率も高い街だった。
なるほど、温泉街だなといった雰囲気。
思いがけず大きい街となると、当然のように緊張する訳で、僕は唄い出すより何より酒ばかり飲んでいた。
しかし、呉の港からたどり着いた僕の残金はもう数十円であり、早く唄い出さないと明日が迎えられない。
はてさて、どこで座り込もうかと考えて、車道を挟んで斜向かいには占い師が鎮座するという、交差点の角にした。背にするビルは大型の飲食店跡のようで、営業はやっていない様子だ。
すぐ前では、中華まんの屋台がモクモクと白い蒸気を吐いている。
自転車が2台ほど止められたその場所で、僕は意を決して唄った。
何せ、ひっきりなしに車が通る交差点では信号待ちの人垣が出来るし、大好きな飲み屋街とはいえ、僕には荷が重すぎた。所詮、裏道唄いには裏道が似合う。
唄うには唄い出したが、人の流れが多過ぎて箸にも棒にも引っかからない1時間が過ぎた。
そのうち深夜と呼ぶにふさわしい時間が訪れ、なぜか占い師が荷をまとめ始めたので、そちらに移ろうと思った。
少しひっそりとしたその角は、歩道の幅も広く、のんびり唄うにはもってこいだったからだ。
向かいへの移動のため、とりあえずギターをまとめ始めた時だ。
「オワリマスカ!?」
という声と共に、白い中華のコック服を着たお姉ちゃんが目の前に立った。
中華まんのお店のお姉ちゃんだった。
「ミズ、イリマセンカ?」
手には、氷の入ったグラスがあった。
僕は少し驚いたけど、ありがたく飲んだ。
キンキンに冷えた水は、酒ばかりで焼けた喉に甘露の潤いだった。「タイヘンデスネ~。スゴクスキデス。モットキキタイ」
と、箇条書きのようなセリフを、それでも満面の笑みで告げられると、僕も移動しにくくなってしまった。
「ここで唄って邪魔にならない?」
と尋ねると、大きく首を振り
「ウタッテクダサイ!」
と答える。
僕はグラスを返すと、ギターケースを再び開いた。
お姉ちゃんは「お~い! 肉まんちょうだ~い!」という声に慌てて走っていった。
せっかくのファンが出来た(ちょっと可愛らしかったし)。
今夜はもう、ここで唄おうと決めた。
決めた事により、その直後、すごい経験をする。
なので、次回は松山の話を詳しく。
とか書くと、なんか即物的だな(苦笑)。
今回は少し趣向を変えて、街の住人を書いてみよう。
どの街に行っても非常に大きな問題は、唄おうとする周辺に誰がいるか。
誰、というのは客引きさんだ。
ポン引き、キャッチ、黒服、呼び込みと言い方はあれど、締め付けが厳しくなる一方の風営法を横目に、客引きさん達は毎晩、頑張っている。頑張ってる感じに見える事は少ないけど、頑張ってる。
ちなみに『ポン引き』というのは「はい! らっしゃ~い」と、ポンポン手を叩いて客を呼び込む所から付いた呼称だとか(追記:・・・というのは僕の情報不足で、ボンヤリした人に声を掛けて引き込むところから付いた名前だとか)。
僕は歌唄いであり、決して呼び込みではないのだが、客を引こうとする行為は同様に行ってる訳で、パワーバランスの整った繁華街に妙なギター弾きが突然現れると、周囲はけん制するのが当然。
街の自警団のような意味合いも持った、この方々。
唄い出す前の準備段階から、チラチラと様子を伺われてしまう。
そんな方々の視線をいっぱいに感じながら、小心者の旅唄いは胃が痛むのだ。
ただし案ずるより産むが易しで、ほとんどの場合は杞憂に終わり
「お? お兄ちゃん、流しか?」
などと気軽に声を掛けてもらう事が多い。
決して、その客引きのオジサンが地域をまとめてる訳でも親分でもないのだが、ひとつの場所で唄うのが1日や2日の旅の中では、そういった方に声を掛けてもらえるだけで十分に心強いのだ。
ここで興味深い事がふたつある。
ひとつは、これが歌唄いでなく未認可のアクセサリー売りなどの露店の場合は、即座にどこかへ連絡が行き、なんだか怖そうな人達との問答に変わる事。
歌唄いなんかは、きっと街の治安維持において問題にならないのだろう。
はたまた僕の選曲が『オヤジ殺し』の異名を持つからなのか。
そしてもうひとつは、若い客引きさん達はほとんどの場合、声を掛けてこない事。
特に嫌がってる風でもなく、かといって会釈さえする訳でもなく、中立的な感じが多い。
これは単に、世代の問題なんだろうか。
金にならない会話はしない、ドライな雰囲気がある。
もしくは僕など眼中にないか。
そんな訳で、初めての街で声を掛けてくれるのはオッチャンの客引きという事が多い。
そして僕にとってそれは、その街で唄うための重要なポイントになる。
興味本位で話し掛けてくれれば、それは幸い。
さて。
次に声を掛けてくれるタイプが、今回のメイン。
2番目に多いのは、なんと女性なのだ。
僕の路上演奏風景を1度でも見た事のある人は分かるのだが、僕の客はオヤジか悪そうな兄ちゃんが多い。
女性率は、非常に低い。
女性好みの曲が少ないのと、なんというか暗い雰囲気のせいだろう(くうっ・・・)。
なのに、しばらく唄っていると、女性から声を掛けられる。
それは大抵、こうだ。
「アナタ、ジョーズネエ」
別に「あなた鮫ね」と言われてる訳じゃない。
歌が上手ですね、と言われているのだ。
言い方がぎこちないのは、多分に異国の方なので仕方ない事なのだ。
そう。2番目に多いのは
中国人エステのお姉さん。
エステというより、マサージのお姉さんだ。
飲み歩く世の男性なら一度ならず聞いたことのある
「マサージ、イカガデスカ~」のお姉さん。
マサージはマサージ。決して、マッサージではない(はず)。
彼女らの勤務時間というのは非常に長く、そして厳しい生活状況の事が多い。
こんな道端で唄ってる貧乏臭い兄ちゃん(オッサンですが)に声を掛ける本意は何だ、といつも思う。
単純に暇つぶしかも知れないし、あわよくば客になるかも、と思ってるかもしれない。
彼女らはギターケースに千円札が2枚くらい入ってると
「アラ~、モウカッテルネ~」
と、臆面もなく興味津々の顔をする。
日本人は気になっていても、横目でチラッと盗み見る程度だ。
文化の違いか。
何にせよ、これもこれで、初めての街ではやり易さに繋がる、ありがたい話ではある。
道後温泉で有名な愛媛県・松山市には、一番町から始まり三番町まで、バラエティーに富んだ繁華街が続く。
僕がこの街で初めて唄ったのは、大街道アーケードから近い二番町と三番町の間あたりだった。
中四国最大の飲み屋街と言われる広島の流川で唄ってた僕も、松山の大きさには緊張したものだ。
車の往来も多く、飲み屋ビルの占有率も高い街だった。
なるほど、温泉街だなといった雰囲気。
思いがけず大きい街となると、当然のように緊張する訳で、僕は唄い出すより何より酒ばかり飲んでいた。
しかし、呉の港からたどり着いた僕の残金はもう数十円であり、早く唄い出さないと明日が迎えられない。
はてさて、どこで座り込もうかと考えて、車道を挟んで斜向かいには占い師が鎮座するという、交差点の角にした。背にするビルは大型の飲食店跡のようで、営業はやっていない様子だ。
すぐ前では、中華まんの屋台がモクモクと白い蒸気を吐いている。
自転車が2台ほど止められたその場所で、僕は意を決して唄った。
何せ、ひっきりなしに車が通る交差点では信号待ちの人垣が出来るし、大好きな飲み屋街とはいえ、僕には荷が重すぎた。所詮、裏道唄いには裏道が似合う。
唄うには唄い出したが、人の流れが多過ぎて箸にも棒にも引っかからない1時間が過ぎた。
そのうち深夜と呼ぶにふさわしい時間が訪れ、なぜか占い師が荷をまとめ始めたので、そちらに移ろうと思った。
少しひっそりとしたその角は、歩道の幅も広く、のんびり唄うにはもってこいだったからだ。
向かいへの移動のため、とりあえずギターをまとめ始めた時だ。
「オワリマスカ!?」
という声と共に、白い中華のコック服を着たお姉ちゃんが目の前に立った。
中華まんのお店のお姉ちゃんだった。
「ミズ、イリマセンカ?」
手には、氷の入ったグラスがあった。
僕は少し驚いたけど、ありがたく飲んだ。
キンキンに冷えた水は、酒ばかりで焼けた喉に甘露の潤いだった。「タイヘンデスネ~。スゴクスキデス。モットキキタイ」
と、箇条書きのようなセリフを、それでも満面の笑みで告げられると、僕も移動しにくくなってしまった。
「ここで唄って邪魔にならない?」
と尋ねると、大きく首を振り
「ウタッテクダサイ!」
と答える。
僕はグラスを返すと、ギターケースを再び開いた。
お姉ちゃんは「お~い! 肉まんちょうだ~い!」という声に慌てて走っていった。
せっかくのファンが出来た(ちょっと可愛らしかったし)。
今夜はもう、ここで唄おうと決めた。
決めた事により、その直後、すごい経験をする。
なので、次回は松山の話を詳しく。
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